イースタン・プロミス(2007)

イースタン・プロミス

原題:Eastern Promises

監督:デヴィッド・クローネンバーグ

脚本:スティーヴ・ナイト

出演:ヴィゴ・モーテンセンナオミ・ワッツヴァンサン・カッセル

   アーミン・ミュラー=スタール、イエジー・スコリモフスキー、シニード・キューザック

撮影:ピーター・サシツキー

編集:ロナルド・サンダース

音楽:ハワード・ショア

 

 クリスマスが迫る夜のロンドン、病院で働く助産師のアンナ(ナオミ・ワッツ)は、運ばれてきた少女タチアナの出産に立ち会う。腕に複数の注射痕、大量の出血、すでに衰弱していたタチアナは出産後に命を落としてしまい、生まれてきた赤子は孤児となってしまう。身寄りのなくなった赤子のために、タチアナの親戚を探そうとするアンナ。遺品である日記に挟まってたレストランの名刺を手がかりに、ロシア料理レストランを訪ねる彼女だが、そのレストランのオーナーこそがタチアナの不幸の元凶ロシアンマフィアのボスであった。日記の存在を自ら知らせてしまったことで命を狙われることになるアンナは、レストランの運転手であるニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)から「こちらの世界へ踏み入るな」と忠告されるが・・・。

 

 クローネンバーグの映画では「変容」が物語を支配する。肉体を介して描かれるそれは、時に抽象の「具体化」として、世界の境界を跨ぐための「儀式」として、そして単なる「露悪」として画面上に表出する(本人や作品の哲学的な佇まいにつられて、彼の描く「変容」全てに高尚な意味を見出したくなる気持ちも分かるが、彼自身がカヌクスプロイテーションに出自を持ち、その立ち位置を最大限利用して作品を作ってきたことを見過ごしてはいけない)。

 

 常にせめぎ合う肉体と精神。その闘争は必ず肉体の勝利によって終わる。身体論的な思想と、肉体に対する絶対的な信頼(または興味関心)を持つクローネンバーグは、精神が肉体を超えていくことを許さない。

 

 雨の気配が途切れることのない真冬のロンドン。少女の死と日記をきっかけに繋がれてしまった「こちら側の世界」と「あちら側の世界」。二つの世界の境界線上で選択を迫られる登場人物たち。その結果、必然的に画面上に現れる「肉体の変容」。

 

 これまでの彼の作品の中で最も暴力的(現実に近いという意味で)であり、かつ最も切ない余韻を持つ本作は、どこまでもクローネンバーグ的であり、同時にこれまでとは異なる、非常に素晴らしい仕上がりになっている。

 

(以下、ネタバレ有り)

 

 クローネンバーグは常に境界線を引く。世界や個人の“二重性”を暴くために引かれるそれは、作品ごとに引かれる場所と濃さが異なる(彼の作品が時に難解とされるのは、この線の場所と濃さが極端に曖昧な場合があるからだ)。

 

 本作は暴力を第一言語とする「あちら側の世界」とそうでない「こちら側の世界」との間に線を引く。そしてその線は「視覚的」に観客に提示される(境界線が視覚化されるのもクローネンバーグ映画の特徴だ)。

 

 本作の境界線は「色」で示される(少し分かりやすすぎるが)。本作はあちら側に生きる裏の住人に対し常に「赤」を用意する。レストランの赤いソファ、赤い床と壁、卓上の赤い蝋燭と赤ワイン。悲惨な最後を迎えるのは同じロンドンでもガナーズのサポーターであり、儀式を終えたニコライのネクタイも赤に変化する。

 

 赤の引力は周囲を引き摺り込む。

 

 アンナは赤い日記に導かれてレストランに辿り着き、そこで真っ赤なボルシチを口にしてしまう(線を跨いでしまったことを示す演出だ)。幼い命は赤い薔薇と引き換えにあちら側へと連れ去られる。

 

 血を啜る彼らの前に引かれた「赤い境界線」。そこに注目して本作を観賞すると様々な発見ができる(なにより、この物語の発端と結末の中心にあるのは、あちら側の世界で頂点に立つ男の“赤い血”だ)。

 

 本作は紛うことなき「クローネンバーグ映画」だが、これまでとは少し様子が異なっている(ように感じる)。それは、これまでの作風とは異なり「シンプルな脚本で社会派な犯罪映画を撮った」というジャンル的な変化のことではなく、それによって「大衆性を獲得した」などの意味でもなく、もう少しクローネンバーグ映画の「本質」の部分の話だ。(または、自分がクローネンバーグ映画の本質を見誤っているか)。

 

 先述した通り、クローネンバーグ映画の中心には「変容」がある。そして、それは「抽象の具体化」だ。個人の内部にあり、客観的には視認できないはずのエゴや妬み、憎しみ、怒り、恐怖心、暴力性が具体性を持って肉体を支配し、塗り替えていく。『ザ・フライ』のセスの内側にある果てしない欲望と嫉妬心は彼自身の肉体を変容させることで画面上へと溢れ出し、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』においてトムの内なる暴力性は、他者の肉体を変容させる事で観客の前に晒される。

 

 本作もこれまでの作品と同様、登場人物には肉体の「変容」が待ち受けている。それを担うのは肉体に刻まれる「刺青」だ。

 

 あちら側の“規律”の頂点にいる“泥棒”たちに見下ろされながら、ニコライの体は変容を遂げる(彼の肉体を変容させる機械は“赤い”線に繋がれている)。組織への忠誠、仲間への敬意、公権力への反発、法への挑戦、暴力への信頼、目には映らないあちら側の精神性は肉体を介して視覚化される。ニコライは変容という「儀式」を経て、境界線を跨ぎあちら側へと正式に迎えられる。そして世界の二重性がより鮮明な形で観客の前に姿を現す。

 

 と、一見するとここまでは、これまでのクローネンバーグ映画で繰り返されてきた事と同じように思えるが、本作はここから、脚本上のツイストによって「変容」の在り方(または扱い)が大きく異なってしまっている。

 

 これまでの作品で、クローネンバーグが描いてきた変容は「不可抗力的」であり「不可逆的」であった(はずだ)。しかし、本作は違う。ニコライの変容は、彼自身が主体的に選択している。もちろん、実際に彼に変容を促したのは彼より上の存在達であり、そういった意味では選択の余地が無かったと言えなくはない。しかし、後半明かされるのは、彼が「更に大きな暴力装置の一員であった」ということだ(つまり彼は自身の変容をコントロールすることが可能な立場だったわけだ)。確かに彼は内なる暴力性に徐々に蝕まれている様に見える。しかし、少なくとも本作の中では、彼の「変容」には確かな「逃げ道」が用意されている(後戻りが可能になっている)。また、この設定により、世界の二重性を暴くはずの「変容」は、これまでの作品のようには機能しなくなっている。なぜなら変容を遂げ世界の二重性を暴くはずのニコライ自身が、その二重性を体現する存在だったからだ(変容する前から、彼自身が誰よりも世界の二重性を認識できている)。

 

 結局、彼自身は本質的には「変容」していない(つまり、今作では本質的な「変容」を描いていない)。おそらくこの部分が、本作がこれまでのクローネンバーグ作品とは異なる印象を与える大きな要因な気がする(度々話題になる本作の第二部は、この部分を補完するのではと思っている)。

 

 クローネンバーグは映画と相性が良いと思う。彼の試みを「抽象の具体化」だと説明したが、本来、映画という芸術形式においてそれは特別なことでもなんでもない。なぜなら、本来映画を物語るのは、セリフでもナレーションでもなく、アクションだからだ。クローネンバーグ作品に限らず、映画はこれまでも「抽象の具体化」を繰り返してきた。美しい女の二重性は化粧台の鏡の「分割された反射」で顕になり、その女を殺めてしまった人間の内なる罪悪感は、寂れた宿の「点滅する光源」で示される。登場人物の悲しみは「雨」に置き換わり、長い人生は「一本道とそこを走る車」で表現される。クローネンバーグが、精神(抽象)が肉体(具体)を超えていくことを許さないように、映画もまた、セリフやナレーション(抽象)がアクション(具体)を超えて物語を進める事を許さない(まあ、個人的に「それが映画であって欲しい」って思っているだけなのかもしれないが)。

 彼の映画で「具体化」をより強く感じるのは「具体化しにくい事柄まで力づくで具体化させてしまう」からだ(だから彼の作品は「難解」になる)。クローネンバーグの「映画はどこまで抽象を具体化できるのか」という試みは必然的に映画の表現の可能性と直結していく(そういった意味で相性が良い)。

 

 それと同時に感じるのが、クローネンバーグが「自身の欲求のために映画を利用しているのではないか」ということだ。彼の映画は時折、「合法的に人体を解剖する」ことを目的に作られているように感じることがある(露悪やサービスとしての解剖ではなく)。特に本作を鑑賞後それを強く感じたのだが、例えば死体を処理するシーン。ニコライの前に横たわる肉体は「死(+冷凍)」という形で既に「変容」を遂げている。にも関わらず、カメラは肉体が処理されるアクションを非常に適切なカット割りとアップで丁寧に「観察」する。または、サウナ(正確にはトルコ風呂?のような気もするが)での映画史に残る乱闘シーン。風呂場の奥へと案内されるニコライ。カメラはカットを割ることなく、彼の動線を丁寧にたどり、その肉体を観察し続ける。そして始まる乱闘。最小限のカット割とカメラワークは、映画の娯楽性ではなく、肉体が欠損していく過程とそれが周囲に与える影響を収めることを優先している様に見える(アクションを観客に「提示」するのではなく、人体が欠損していく様子をクローネンバーグが「観察」しているようにも見える)。

 とはいえ、そもそもクローネンバーグはアクションを撮るのが上手いタイプの映画監督ではない(どう擁護しようと流石に“上手い”とは言えない)。そのため、彼のアクションの鈍重さに無理やり“意味”を見出そうとしているだけの可能性もある。ただ、それでも、彼の演出するアクションの鈍重さの中には、彼自身の欲求のための“特別な理由”を感じてしまうことがある(そういった意味でも相性が良い)。

 

 気になる部分もある。個人的に思ったのが、世界の二重性を示すのに「ロンドンという街をもう少し利用できなかったのか」ということだ。例えば河だ。本作でも河が登場する。そして、それは「真実を隠すための場所」として利用される。が、この場所がそれ以上の意味で使用されることはない(勿体無い気がする)。例えば、アンナの居場所とレストランの間には河が流れているという明確な地理的説明を付け加え(アクションでもセリフでもいい)、アンナがその線を超えて、あちら側に関わってしまったことを強調する演出ができた気がする(河を境界線として利用できた気がする)。

 

 もう一つ気になったのが、アンナの存在だ。彼女は物語が進むにつれて、徐々にその主体性を失っていく(一見すると彼女は常に主体的に行動しているように見えるが、映画全体でみると、後半に行くにつれて、作り手から与えられたた舞台の上で、ニコライから用意された手続きを踏んでいるだけになってしまっている)。

 個人的に感じているのは「本作で変容を遂げるべきはアンナだったのではないか」ということだ。彼女は世界のルールブックは一つだと信じている。だからこそ、彼女は自分の行動の「事の重大さ」に気づけない。自身の中にある確固たる正義感をもとに進み続ける彼女は、自身のルールがあちら側の世界にも適用されるものだと信じている。その結果、ニコライからは「あちら側にいろ」と注意され、最終的に叔父のステファンは行方不明になってしまう。しかし、この彼女を取り巻く世界の変化は、ニコライの存在によって、“彼女のアクションを介することなく”、元通りになっていく。

 例えば、彼女には「他者の肉体が変容する瞬間を目撃する」というアクションが用意されても良かったのではないか。そして、そのことによって自分のルールが適用されない世界の存在を知る。これまでと同じ様に世界を認識することができなくなったという意味で彼女は「変容」する。しかし、その上で、それでも自身の信念を貫き通す。そうすることで、彼女の意思の強さがより強調され、主体性を失うことなく、彼女をより複雑で奥行きのあるキャラクターにできた気がする(現状の彼女は「母性」ありきの描かれ方にも見えてしまう)。また、これによってクローネンバーグ自身のテーマでもある「変容」もこれまでと同じ様な意味で描けた気がする(描く必要があったかどうかは別として)。

 

 少し文句めいたことも述べたが、それでも本作が傑作中の傑作であることには変わらない。無駄のない脚本の上で繰り広げられる無駄のない演出と美しい美術、美しいカメラワーク、そして圧倒的な演技。全ての水準でレベルが高い本作はまさに「芸術」といった感じのする映画だ(そういう意味でもクローネンバーグっぽくないかも)。

 

 特にラスト、美しい横顔から発せられる「あなたは誰なの」という言葉。通常のロマンス映画では始まりの合図として語られる言葉が、本作では終わりの言葉として使われる(これは映画評論家の岡本敦史が指摘していたことで、思わず「なるほど」と膝を打ってしまった)。暴力が支配する世界の中で、それでも変わらずに人は恋に落ちる(てか、クローネンバーグは混沌の中でロマンスを描くことが多い気がするな)。これまでの彼の映画で最もロマンチックな本作は、変容が支配する世界の中でも、その支配が及ばない「不変」があることを証明して終わる(人が恋をすることが不変の心理だとは思わないが)。傑作。

 

※本文中には書ききれなかったが、本作は脇のキャラクターまで血の通った素晴しい造形になっている。例えば、イエジー・スコリモフスキー演じるアンナの叔父のステファンだ。彼はKGB出身(完全に自称だが)だが、アンナが日記を持ち帰ったことを良く思わない。これはおそらく、アンナの行動がナチスのそれと同じだからだ(だから彼は遺体を複数形で表現する)。彼はアンナと違い、あちら側の暴力の力学を理解している。また非常に人種差別的であり、性差別的でもある(そしてそれを「正しい」と思っている)。そしてこれら設定すべてに説得力がある演出がつけられている。または、ボスの息子であるヴァンサン・カッセル演じるキリルだ。あちら側の「純血」であるにも関わらず、あちら側の人間になりきれない彼もまた、確かな演出により強い説得力を持っている。決して多くはない登場時間の中で、登場人物の背後を想像させる演出を積み重ねるクローネンバーグの手腕はさすがとしか言いようがない(とは言え、女性陣の描き方にはあまり奥行きを感じられないが)。

※バイクは結局あまり活かされなかった気がする。

※とりあえずヴィゴ・モーテンセンはカッコ良すぎる。

 

 

ブルーバレンタイン(2010)

ブルーバレンタイン

原題:Blue Valentine

監督:デレク・シアンフランス

脚本:デレク・シアンフランス、ジョーイ・カーティス、カミーユ・ドラヴィーニュ

出演:ライアン・ゴズリングミシェル・ウィリアムズ

撮影:アンドリー・パレーク

編集:ロン・パターネ、ジム・ヘルトン

 

 結婚7年目のディーンとシンディは夫婦関係の危機に直面していた。看護師として働くシンディは、出勤準備と愛娘であるフランキーへの対応で朝から忙しくする。それに対して朝から酒を飲み無気力気味に仕事へ出かけるディーン。シンディはそんな夫の状況に不満と苛立ちが溜まる一方だった。明らかに冷え切った関係と深まる溝。そんな中、夫のディーンはこの状況をなんとか打破しようと行動に出る。

 

 壊れかけている夫婦が“決定的な瞬間”へ向かっていく現在の様子を、過去の幸せな光景と共に描いた本作。テーマの性質上、観客それぞれが「自身の経験」に基づいた批評を行うことになる本作は、普遍的であり同時に深みを持つ「テーマ的に豊かな映画」だと言える。ただ、本作の豊かさはそれだけでは無い。練り込まれた脚本や韻を踏むようなカット割、円観構造な物語設計、それらと共鳴する小道具の使い方など、映画を構成する様々な要素が非常に考えられており、「テーマの豊かさ」だけでは得ることのできない「映画的強度」を持った作品になっている。

 

 美しい過去と苦しい現在を交互に描くという、どこまでも“ありきたり”な作劇の中、本作はそれらを単純な「対比」としては描くだけではなく「繋がり」としても描く。

 「なぜ彼女は苛立つのか」「なぜ彼は怒るのか」「なぜ二人は上手くいかないのか」、それらの問いに対する答え(または原因)が、幸せそうに見える過去からすでに用意されていたものであることがうっすらと示される「繋がりの演出」の数々。映画は二人の過去が対比的な演出により「美化されるだけ」になることを許さない。

 

 他者への恋心、愛情、尊敬、期待、呆れ、そして諦め。本作は、画面上に溢れる激しくも繊細な喜怒哀楽を、確かな映画技法で丁寧に扱うことで、全ては「選択の連続」であり、その瞬間に行き着く原因は、今に至るまでの「日々の積み重ね」の中にあったことを証明してしまう。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 序盤、シンディが用意した朝食のオートミールに「水をいれたか」と聞くディーン。この些細なセリフに、ディーンが向き合わなければいけなかった問題、またはシンディが向き合いきれなくなった問題が詰まっている。

 

 彼は自分で水を入れることはしない。テーブルのレーズンも片付けられない。愛犬の失踪に心を痛めるが、自分で張り紙を作ったりはしない。

 

 車にだらしなく持たれるディーン。カットが変わり、映画は過去に遡る。車の窓を覗き身だしなみに気を払い、面接に向かうディーン(こういった韻を踏むようなカット割はこの後も頻出する)。アルバイトの採用担当者に経験を聞かれた彼は「ある」と答える。その経験とやらが、ただの「手伝い」だと知った担当者は「経験なしだ」と彼の言葉を訂正する。

 

 過去から一貫して、彼の言葉にはそれに見合った“実務”が一切伴わない。彼は吐いた言葉に見合う“実務”をこなすことができない。

 

 夫婦関係に限らず(というか自分は夫婦関係になったことがないのでわからないが)、好きな相手との関係を長期間維持するのに最も必要なのは「尊敬」と「信頼」と「思いやり」だ(と個人的には思っている)。実務として回収されることなく、彼の口からただ垂れ流され続ける言葉達を「信頼」するのは難しい。信頼の置けない言葉を扱う人間を「尊敬」するのもまた同様に難しい。信頼も尊敬も勝ち取ろうとしない人間の行動は、例えそれが自分宛の善意だとしても、真の意味で「思いやり」と捉えることは難し。

 ディーンは過去からの問題を持ち越し続けることで、手にしていた他者からの「信頼」と「尊敬」を手放していく。だからこそシンディは彼の行動に「思いやり」を見出せなくなる。ディーンは苛立ち、焦り、口を開き続ける。その結果、シンディは苛立ち、諦め、口を閉ざしていく。

 

 ディーンには過去から持ち越した問題がもう一つある(個人的にはこっちの方が大問題)。それは「同意の省略」だ。

 

 映画全編を通して、彼は夫婦関係の修復を試みようと様々なアプローチを試みる(ディーンに肩入れする観客はおそらくこの部分に彼の「頑張り」を見ているような気がする)。しかし、それらの提案に“シンディからの同意を得る”というプロセスは存在しない。朝の目覚まし、ホテルへの誘い、シャワー、議論をうやむやにする愛情表現の数々(終盤の修羅場となったキッチンでの一方的な抱擁などまさにその典型だ)。他者への同意を省略する独善的な行動を、おそらく彼は“本気”で「思いやり」だと信じている。そしてそれは過去から一貫していることが示される。

 

 引越し業者のアルバイトを始めたディーンは、とある老人の介護施設への入居引越し作業を行う事になる。そこで彼は、彼なりの最大限の善意を込めた作業を行う。一見すると優しさに溢れたように見えるシーン。しかし、彼はこの一連の行動に老人からの同意を得たわけではない。老人が所有する家具にどういった過去があったのか、保管していた写真にどのような意味があったのかを彼が考えることはない(この思い出に見える品が整理しきれていなかったトラウマである可能性だってあったわけで)。

 

 シンディはこの「同意の省略」をどうしても許すことができない。なぜなら、それは元彼が彼女に行った最低に屈辱的な行為でもあるからだ(そしておそらく、この出来事が彼女の医者への道を閉ざす原因になっている)。シンディに魅せられた男たちが一方的に浴びせる愛情表現と“善意”に対し、彼女が拒否権を与えられる事はない。彼女がこの善意の数々を「思いやり」と捉えることができるとはどうしても思えない。

 

 降り止んだ雨の水滴が窓に残るバスの車内、ディーンは「隣いいですか」と相手の同意を求める。そして、彼は相手の意思表示に対して“丁寧な間”を設ける。

 処置台の上、手を繋がれた彼女は涙と共に「できない」と拒否の言葉を振り絞る。彼女は極限の場面で、自身の意思表示のための“丁寧な間”を設けてもらう。

 

 二人に必要だったのはこの“丁寧な間”だったのではないか。これこそが、ディーンに最も足りていなかったものであり、シンディが最も求めたものだったのではないか。映画は、過去と現在をただ対比的に配置するのではなく、繋がりを意識した演出を散りばめる事で、他者と暮らしていくための鍵が、日々の積み重ねの中のにあることを訴える。そしてそれが、恋心や愛情だけでは積み重ねられないことを、だからこそかけがえのないものであることを丁寧に描いていく。

 

 過去と現在の「繋がり」を意識した演出はそれだけではない。

 

 先述したように、本作の過去と現在は韻を踏むようなカット割り(アクションやシーン単位の構造による韻)で、少し強引に繋げられている(ありがちな手法ではあるが)。 

 

 だらしなく車に寄りかかる現在のディーンのショットの後、カットが変わると、そこには身だしなみを整えるために車の窓を覗く過去の彼の姿が現れる。介護施設の居室から笑顔で廊下の方に振り返る過去のディーン。カットが変わると、笑顔ひとつ見せない現在のシンディのアップになる(このシーンは本作で最もスリリングであり、二人の温度差と関係の終わりを暗示した素晴しい演出になっている)。ボロボロの体でシンディからの電話を受け取ろうとするディーン。カットが変わるとディーンからの電話にシンディの同僚が応答するアクションが描かれる。映画は、過去と現在を力づくで繋ぎ止めることで、苦しすぎる現在が、実は幸せだった過去と「地続き」であったことを示していく。

 

 この韻を踏むような演出は、現在と過去を対比的に描く場合にも、その威力を発揮する。

 

 過去と現在が立ち替わり現れる作劇の中、作り手はその両方の時間軸で主人公二人に同じようなアクションをとらせている。そして、そのアクション自体の変化や、それに対して返されるリアクションの変化によって、過去と現在の関係性の変化を際立たせている。

 

 夜の街を歩く若い二人。頭の回転が早く、気の利いた会話を回してくれるディーン。彼の言葉に自然に笑みが溢れるシンディ。器用にウクレレを弾き、歌うディーンと、それに拍手を送るシンディ。カットが変わり現在、シンディはディーンに「才能があるのになぜ何もしないのか」と疑問を投げかける。

 軽口で険悪な雰囲気になる二人の後に描かれる、軽口に戯れ合う二人。未遂に終わる愛のないセックスの後に描かれる、愛に溢れたセックス。バスの中、二人で乗り越えるという誓いから目を離せなくなるシンディ。その後に描かれる、一人ホテルに取り残されたディーン。修羅場となったキッチンで永遠の別れと最後のハグをする二人。カットが変わり、永遠の誓いと始まりのハグをする若い二人。白飛びの美しい世界へ共に踏み出す二人と、別々に家を出る二人。

 

 交互に配置される過去と現在の中で、反復されるアクション。同じ人間が吐く、同じ人間宛の多くの言葉達。にも関わらず、同じような意味を持てなくなったアクションと、同じように受け取ることができなくなった言葉達。過去が美しく見えるほど、現在の取り返しのつかなさはより強くなる。そしてこの手法は、劇中の二人同様に、観客を過去に遡らせ、その記憶で現在の自分たちを見つめ返すよう促してしまう(だからこそ本作は観客それぞれにとってパーソナルなものになっていく)。

 

 あまり語られていない気がするが(もしくは自分がそういった文章を目にしていないだけか)、本作は「家父長制(もしくはマッチョイズム)」に対して、確かな意見を持つ映画だ(というか裏テーマだとすら思う)。そしてそれは、シンディの視点に絞って本作を見た時により明確になる。

 

 劇中を通して、シンディは「男らしさ」に関する明確な恐怖心を持っている。高圧的で暴力的なそれは、映画全編を通して彼女を侮辱し、萎縮させ、彼女の自由と尊厳を奪う。

 

 「男らしさ」を誇示するように、彼女やその周りに対し積極的に暴力的であろうとする彼ら。父親は高圧的な態度で彼女を怯えさせ、元彼は同意を得ない身勝手な行為で彼女の医学の未来を閉ざす

 

 そこに現れる「男らしさ」を誇示しないディーン。これまでに見てきた「男」とは明らかに違うディーン(だからこそシンディは彼に惚れたのだ)。そんなディーンも結局は「男らしさ」に取り憑かれていく。ちっぽけなプライドにしがみつき、ついには、かつて振るわれた暴力を、今度は自分が振るう側になってしまう(アクションが韻を踏んでいるシーンだ)。

 

 「男らしさ」の社会からどうしても逃げ出せないシンディ。そんな彼女に待つ、さらなる絶望。仕事に対する誇りや、挑戦、その全てを茶番にしてしまう、信頼していた医師からの想定外の提案。彼女は、絶え間なく現れる「男らしさ」から、ひたすら侮辱され続ける。

 

 最終的に彼女は、全てから距離を取ることになる。離婚と退職、おそらく彼女にはこれまで同様、さまざまな苦労や苦悩が待ち受けている。それでも、彼女にとってこれが「解放」であって欲しいと思ってしまう。身も心も疲れ果てた中で、それでも力強く、恐怖の象徴であった父親に向かって放った「I don't wanna take to you.」。おそらく、ありったけの勇気を振り絞ったであろうこの言葉が、彼女を自由にする言葉であってほしいと思ってしまう(被害を受けている側がこの状況に陥ることを、男の自分が「解放」と呼んでいいわけがないが、それでも、少しでも彼女が一息つければと思ってしまう)。

 

 過去にすでに原因があったことを示唆する演出のため、本作は現在の状況に対する解決の糸口を見つけにくい作りになっている(まあテーマ的にいっても、解決の糸口は観客それぞれに委ねられているのだが)。それでも、二人の関係性に変化のきっかけを与える明確なものがあると感じている(ここからの文章は、本作のテーマと明確に離れるため完全に蛇足だと思ってもらって構わない)。

 

 二人の状況が変化する一つきっかけになりうる可能性、それは酒だ。ディーンはとにかくまず酒をやめるべきだ。栄養学を専門にする人間として言うが、マジで朝から酒を飲むのはやめた方がいい(マジで)。特にシンディは医療従事者だ。過度な飲酒が及ぼす個人や周囲へ悪影響を絶対に理解しているはずだ。そして、それが習慣化してしまった人間が、自身の意思で酒を断てないことも、一般の人間よりは遥かに理解しているはずだ(習慣化した「朝から酒を飲む」という行為がどのような可能性を示唆しているかは絶対に知っているはずだ)。自身の限界が迫るよりもう少し早い段階で(またはパートナーへの愛情が残っていた段階で)、シンディは、福祉や周りの力を使ってでも、ディーンを酒から遠ざけるべきだったのではとは思う(シンディの責任だと言いたいわけではないが、医療従事者として出来ることはあっただろとは思う)。

 

 気になる部分も無くはない。いくつかのシーンでは、そのシーン単位の主観に統一性がなく、文法的にすこし散らかっている印象を受けた。「なぜ今こいつのショットが挿まるんだ」と驚いてしまう瞬間もあった。また、必要性を感じとれないアクションも複数存在した。その中でも、個人的に、かなり居心地の悪さを感じてしまったのが、娘のランキーに対してのカメラポジションだ。大林宣彦映画然り、未成年を守るべき立場にある大人が、本人達を危険に晒す可能性がある演出することに関しては「無責任だしふつーに気持ちわるいからマジでやめてくんねーかな」とは思った(ぶっちゃけ無くても成立するだろってゆう)。

 

 文句めいたことも書いてしまったが、それでも本作が素晴らしいことに変わりはない。特にラスト、主人公二人が別々の方向に歩き出す少し前、オープニングとエンディングで対になるアクションが繰り返される。この作り手の鋭い視線に思わずハッとしてしまった。

 ラスト、オープニングと同じように、夫婦二人以外の「誰か」が大切なものを求めて叫ぶ。円観構造的な演出で作り手が訴えているのは「これは二人だけの問題ではない」ということだと思う。

 

 観客の経験と記憶に絶えず揺さぶりをかける本作は、見る側にとってどこまでもパーソナルな映画になる。個人的には「ディーンだけが悪いとは思わないが、どっちもどっちというには、あまりにもシンディが多くを背負わされている」とは思ってしまう。ともあれ、人によっては「生涯の一本」になりうる映画だと思った。傑作。

 

 

※シンディが医者の道を諦めた理由に関して。

 もちろん、彼女が看護師を目指したのは明確な理由があり、それは劇中で伏線として回収されている。ただ、それでも医者の道を諦めたのは「看護師になりたかったから」ではないはずだ。また、彼女が本来の夢を諦めざる得なくなったのは、彼女自身の「決断」のせいでも、「出産」のせいでも、「子育て」のせいでもない。一方的に彼女に決断を迫り、その決断に対し多くの可能性を用意しなかった男側とそれを中心に回る社会にこそ原因がある。

※本文中には書けなかったが、個人的にかなり唸ったのが、シンディの母親が映画からフェードアウトするタイミングだ。家に呼ばれたディーンが自身の母の身の上話をしたあと、カメラはシンディの母親を捉える。そしてその後母親は映画から姿を消す(自分の記憶違いでなければ、母親のその後は説明されてないはずだ、記憶違いならごめんなさい)。おそらく、彼女はディーンの母と同じ道を辿ったのではないかと思うような演出の余白だと思った。

※虹がかかるタイミングは素直にすごいと思った。

※ディーンが拾ったペンダントは、こうなれたかもしれない二人のもう一つの未来だ。

※酒もそうだが、ディーンは子供の前でタバコを吸うのもやめた方がいい。

※どうでもいいけど、タクシーでイチャつきだす二人には「こいつらふつーにダルいな」とは思った。他人がじぶんちでセックスするとかマジ勘弁だろ。

※シンディよりの文章になってしまったが、別にシンディがいい奴だとは思わない。そもそも過去の時点でシンディは「説明不足」なことがある気がしている。自身の中にある「確信めいたもの」を弄ぶのは自由だが、それを他人に察しろというのは無理がある(言いたくない事や言えない事は別として)。劇中で描かれる時間軸では確認しようがないが、もう少し早い時期の夫婦関係で、彼女が自身の欲求を口に出さず、それを察することが出来ないディーンに一方的に苛立っていた可能性も否定できないようなキャラ造形ではあると思う(もちろん言いたくない事や言えない事は別として)。

 

エンド・オブ・ザ・ワールド(2012)

 

エンド・オブ・ザ・ワールド

原題:Seeking a Friend for the End of the World

監督:ローリーン・スカファリア

脚本:ローリーン・スカファリア

出演:スティーヴ・カレルキーラ・ナイトレイ

撮影:ティム・オアー

音楽:ロブ・シモンセン、ジョナサン・サッドフ

 

 小惑星の衝突により21日後の滅亡が決定した地球。これまでの人生、他者との関わり合いの中で「一歩踏み出すこと」を出来ずに生きてきた保険会社で働く主人公のドッジは、地球滅亡が間近に迫るにも関わらず、日々のルーティンをこなそうと会社への出勤を繰り返していた。

 カウントダウンが進むにつれ徐々に治安が悪化していく街。妻に逃られたドッジは一人部屋の中で、初めての恋人であるオリヴィアの写真を眺めていた。そんな時、同じアパートの住人であるペニーが泣いているのを発見した彼。話を聞くとペニーは「飛行機に乗り遅れて家族と最後の日を過ごせなくなった」ことを大粒の涙と共に語りだす。

 

 これまで無数に作られてきた地球規模のディザスター映画の中で、多くの作り手達は“熱狂の渦”にカメラを向けてきた。奔走する科学者、死力を尽くす技術士、命を賭ける宇宙飛行士、策を巡らす政治家、そんな熱狂の渦と何かしらの繋がりがある主人公一家(と、渦の縁をウロウロする陰謀論者)。本作はそんな熱狂から距離を取り、その“外側にカメラを向けた”映画だ。

 括り的には「SF / ロマンティック・コメディ」に分類できるが、構造的には「ロードムービー」になっている本作。軽快なコメディとしての姿勢を崩さないため「軽い小品」といえるが、脚本や演出は非常に考え抜かれており、構造としては基礎のしっかりとした手堅い映画になっている。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 実際の旅がそうであるように、ロードムービーにも「事前準備」が大切になる。観客が抱く「なぜ旅に出るのか」という問いに対し、ある程度の強度を持った答えを“出発前”に提示できなければ、その映画はやがて失速する(全てのロードムービーがそうではないが)。言い換えればそれは、「世界の“ルール設定”と“ルール説明”を的確に行うこと」なわけだが、本作はこの部分が非常によく考えられている。

 

 隕石が衝突する事、それがすでに避けられない状況である事、全ての交通インフラが停止する事、本作はこれらの“ルール”を、冒頭約5分で、様々なメディアの「ニュース番組」を介して一気に主人公(=観客)に叩き込む。ニュース番組が発信する情報は、不自然な説明台詞よりも正確かつ自然に、世界のルールを説明する(それこそが「ニュース番組」だから)。この演出により、本作は「不自然な説明過多を回避しながらも、不自然な説明過多以上に多くの説明を自然に行う」ことに成功している。

 

 「ニュース番組によるルール説明」が及ぼす本作への作用は、それだけにとどまらない。

 

 主人公であるドッジはどこまでも慎重で受け身なキャラクターだが、「ニュース番組によるルール説明」は彼のキャラクター性を補強する機能も果たしている。なぜなら、それがどこまでも“受け身”な情報収集の手段だからだ。たとえば、もしドッジが世界の状況をインターネットを使用し自発的にキャッチしようとしていたら、彼の人物像にブレが生じてしまう。それでは彼の葛藤や躊躇に説得力を持たすことはできない。

 

人物像のブレは、本作から受け取る感動にも致命傷を与えかねない。

 

 本作を観た観客は“今際に訪れた新たな恋の成就”に感動を覚えるはずだが、それはドッジが受け身なキャラであることが大きな要因にある。「新たな一歩を踏み出せずにいた慎重な人間が勇気を振り絞り手にしたかけがえのない関係」だからこそ、本作はより感動的なのだ(ドッジが保険会社社員という設定なのもそのためだ)。

 

 作り手は「ルール説明」を的確に行うことで、不自然さを回避しつつ、映画に飲み込みやすさを与え、観客を最大限感動させることに成功している。

 

 「ルール説明」と同様に、本作は「ルール設定」も非常に気が利いている。

 

 分かりやすいところで言うと「公共インフラの機能停止」だ。もちろん、ディザスター映画はその性質上、いずれは全てのインフラが機能不全に陥るのだが、そのことを世界の前提条件として観客に提示する映画は実はそこまで多くない。本作はこの部分をしっかり強調し設定する。この初期設定のおかげで、主人公達は目指す場所が早い段階で決定し、二人きりで旅をすることにも説得力が生まれている(この設定はロードムービーのエンジンとしても、ゴールとしても機能している)。

 

 最も秀逸なのが地球滅亡を「避けられない事実」として設定したことだ。多くのディザスター映画は、起こる災害に対して滅亡回避の「可能性」を用意している(それこそが熱狂の渦の中心だ)。しかし、本作は既にその「可能性」がゼロになっているところから物語が始まる。これにより、観客はより主人公二人のロマンスに集中することになる(滅亡回避の「可能性」は二人の主観を離れた規模の大きいサスペンスに観客の意識をそらしてしまう)。さらに、この設定は二人の関係をより刹那的なものにしている。“あらかじめ終わりが決められた世界”で始まる恋は、どこまでも儚く、より強く観客の心を捉えていく。

 ドッジのキャラクター性と同様に、この設定もまた、観客を最大限感動させるのに一役買っている。

 

 時間軸とアクションが一方向に進むロードムービーは人生のメタファーとしての機能を持つ。旅が始まり、その道中で泣き、笑い、怒り、後悔し、成長し、そして旅は終わりを迎える。

 

 長い旅路の中で、ペニーの楽天主義に影響されたドッジは少しずつ成長していく。道中で繰り返される彼女からの質問の数々により、ドッジは過去と向き合わざる得なくなる。彼は過去から今に至るまでの選択の連続を言語化し、自分を批評することで、何が足りていなかったかを理解し始める(というか、うっすらと気づいていた事を言語化する事で確信に変えた感じ)。背中合わせになる檻の中、ドッジは他者との関係に“躊躇”してしまう自分の臆病さをペニーに吐露し、自分に必要なのが「一歩踏みだす勇気」だと言うこに気づいていく。

 このシーン以降、二人の役割は明らかに逆転していく。これまでの旅と違い、質問を投げかける役割はドッジが担うようになる。彼の方から軽口を叩き、気にかけ、レコードを一緒に聞こうと彼女を誘い、ワインと夕食を共にする。

 そして今度は彼の変化が彼女に影響していく。ドッジとは違うベクトルではあるが、彼同様に人と親密になることができないペニー(対照的な二人だが、実は似たもの同士であることが明かされる)。そんな彼女はドッジからの質問により、自分を見つめ直すことになる。過去を分析することで自分の現在を理解しよとする彼女。両親をモデルに自分を言語化する彼女の言葉から透けて見える、“変化する可能性がある人間関係”への恐れ。そこに投げかけられる「まだ出会えていないだけかも」という言葉。優しさに溢れた言葉は、彼女の“諦め”を取り払い、勇気を与えていく。

 

 作り手は、ロードムービーの特性を理解し、それを活かす事で、時間をかけ丁寧にドッジとペニーの人生の変化を描いていく。

 

 以上のように、軽いコメディながらも基礎を積み重ねる本作だが、気になる部分もなくはない。

 

 例えば、中盤のヒッチハイクからの一連のシーン。二人を乗せた車を運転するグレンが、農場で銃殺されることになる。もちろんこれには前振りがある。

 映画冒頭で映される掲示板にあった「殺しの依頼受付中」のチラシ(キリスト教圏ならでは理由がそこにはある)。これの伏線回収がこのシーンでなされているわけだが、この前振りがあまりにもさりげなさすぎる(あのチラシ以降は一切出てこない情報だ)。また、その後の処理も、ドッジにグレンの動機を“推測”させるという、どうかと思うほどあっさりし過ぎたものになっており、はっきり言って、“主人公達が車を手に入れるために唐突に始まって唐突に終わったシーン”としての印象が強くなってしまっている。どころか、観客からすれば「新たなトラブルに巻き込まれたのでは」という、余計なサスペンスを生んでしまっており、そのサスペンスが何の波風も立てないまま二人の旅が続いていくため、「さっきのはマジでなに」と混乱してしまう(少なくとも初見時自分はそうだった)いくら説明過多を回避しているとは言え、前振りはもう少し観客の記憶に残るようにした方がいい気がする。

 

 ペニーに関しても、もう少し踏み込んだ演出が可能だった気がする。快活で裏表の無いようにみえる彼女は、終盤にかけてようやく映画から掘り下げられる。人との関わり方に対する自身の想いと苦悩をドッジに打ち明け、もがきをみせる彼女だが、そのもがきに割かれる時間はドッジのそれとは比重が大きく異なり、良くも悪くもドッジを成長させるために登場したキャラクターにも見えかねないバランスになってしまっている。もちろん、本作の中心はドッジなわけだが、それでも、もう少し彼女に時間を割いた展開を用意できなかったかと考えてしまう。

 この引っ掛かりはラストカットにも言える(完全に好みの問題だが)。本作のラストカットはどこまで行っても、ドッジの主観だ。ドッジのために用意された幸せの光景でしかない。これまでの旅路で二人の物語を見せられた側からすると、「結局そこの視点に戻るんかい」と若干納得しにくいカットになっている。例えば、最後にカメラが二人を離れ、観客のいない二人きりだけの瞬間を用意してもよかったはずだし、飛び道具ではあるが、画面をスプリットにして二人の表情とそれぞれの見る光景を映し出してもよかったはずだ。または、インスタックスで捉えた道中の二人の幸せな写真を用意し(例えばビーチのシーンでこのアクションを挟むとか)、そこにカメラが切り替わっても感動が目減りすることはなかったのではないかと思う(それこそ「ある日どこかで」のラストカットのように二人に平等な演出はできたはずだ)。

 

 もう一つ、これをロマンチック・コメディで言うのは野暮すぎるのだが、本作で登場人物から語られる観客へのポジティブなメッセージは恋愛至上主義のようにも捉えられてしまう。別に一人で最後を迎えようが、他者と深い関係を築けなかろうが、長続きしなかろうが、それだけでその人の人生の幸せを計れたりはしない。ドッジが最後まで一人保険会社に出勤し、ペニーが好きなレコードを聴きながら一人眠りにつき、それらを肯定的に捉えながら終わりを迎える映画も見てみたいと思ってしまった。

 

 文句めいたことも書いてしまったが、本作にはそれらを帳消しにするくらいの素晴らしいラストが待っている(だからこそ余計にラストカットが気になるのだが)。

 

 長い旅の果てにようやく結ばれる二人。ロマンティック・コメディとして、美しい砂浜に確かな着地を見せた本作。にも関わらず、作り手は徹底して、二人が「愛の言葉」を交わすことを許さない。そして本作は、この部分に対して非常に重層的な演出上の仕掛けを用意する(本作の感動を生む最大の仕掛けがここにある)。

 

 ラスト、これまで語られなかった言葉達が二人の間で交わされる。出会えなかった過去へ後悔と、訪れない未来への恐怖が語られる。それでも二人は今この瞬間に運命を見出す。語ることを許されず、塞き止められていた「愛の言葉」が二人の前に溢れ出す。溢れ出た言葉達は、二人の間に“降り注ぐ”。お互いのためだけに“文字通り”降り注ぐ。画面上で展開される重層的で鮮やか映画技法(=映画の魔法)が最悪の瞬間を最愛の瞬間に変えてみせる。傑作。

 

※気が利いているシーンは本当に多い。足りないと指摘された洗剤の結末や、「友達募集」のチラシのあとに用意される「フレンジー」、重要な二つの小道具に共通する色、散りばめられた些細な小ネタを伏線としてしっかり回収する律儀な映画だと思う。特に犬の名前である「sorry」の回収のされ方には、あまりにもシリアスな場面だったため爆笑してしまった。

※「事前準備」が的確だったとは言ったが、それでも出発までが若干長い気はした。

※人種配置や、特定のキャラ(特に女性)の描き方に、若干嫌な違和感を感じたのは確かだが、その違和感の言語化はできてはいない。

※最後、犬のソーリーもベッドにいたのは本当に良い演出だと思った。

 

 

劇映画 沖縄(1970)

 

『劇映画 沖縄』

原題:劇映画 沖縄

監督:武田敦

脚本:武田敦

撮影:瀬川浩

出演:地井武男佐々木愛加藤嘉中村翫右衛門飯田蝶子

 

〈第一部:一坪たりともわたすまい〉 

 昭和三十年代、「ウチナンチューの物を盗れば泥棒だが、アメリカーの物を盗るのは戦果だ」という信念のもと「戦果アギヤー」として米軍物資盗みをしていた主人公の三郎は、暗闇の中で米軍による平川村の土地強奪を目撃してしまう。当時、沖縄では米軍による土地の強制接収が行われており、生活の全てを奪われ農民たちは苦しんでいた。そんな中、接収された一族の土地に侵入し、畑仕事を再開した老女が米軍戦闘機の銃撃により殺されるという事件が起こる。我慢の限界を超えた三郎と農民たちは抗議のための行進を決意する。

 

〈第二部:怒りの島〉

 十年後、軍基地労働者として基地内で働いていた三郎は組合活動に目覚めていく。米軍政下での弾圧や日米地位協定により理不尽な状況にあった沖縄。ベトナム戦争長期化に伴い苛烈になっていく基地内労働に苦しむ日々の中、三郎は労働組合を通して、権利獲得と復帰運動のための戦いに進んでいく。

 

 戦後、沖縄の歴史は「闘争と分断の歴史」と形容することができる。

 

 沖縄の戦後史は「本土復帰」を一つの着地点に定め、県民“一致団結”の物語として語られる場合が多い。しかし、実際にはそうではない。植民地支配に積極的に加担し支配者と同化しようとする者、日和見的に傍観してしまう者、疲れ切って諦めてしまう者、それらを糾弾し最後まで必死に抵抗する者、沖縄のアイデンティティを平和主義に見出す者、それを資本主義に見出す者、様々な想いや政治的せめぎ合いの中、闘争と分断を繰り返すことで今日の沖縄は形作られてきた(そのため、戦後沖縄の物語は必然的に“民主主義についての物語”にもなっていく)。

 本作は、現在の主流になっている「単純化された戦後の語られ方」からでは見過ごされがちな「一枚岩だったわけではない沖縄」と、その中で生き抜こうとする人々の戦いの日々を垣間見ることができる。

 

 本作が公開された年が1970年というのも特筆すべき点だ。

 “戦後の語られ方”が単純化されて来たように、“戦中の語られ方”も現在に至るまでにある特徴的な変化がある。それは「誰の視点でどのような思惑のもと語られるのか」というイデオロギー的な変化だ。現在一般的になっているのは「戦争被害の壮絶な体験」や「反戦と平和の尊さ」を訴えるような、いわゆる「市民の視点」からの語りだが、これが形になり出したのは1970年代以降のことであり、それ以前の沖縄戦における戦争体験は「軍国主義的な視点」に則った殉国美談のものが主流だったとされている(そしてそれは観光産業の一部として利用されている)。

 時代を反映した末に本作が生まれたのか、または共鳴し合い同時多発的に発生した現象なのか(その可能性は限りなく低いと思うが)、リアルタイムで体験した訳ではない平成生まれの自分には判断しかねるが、本作が1970年という一つの時代の境目に公開されたことには大きな意味がある。

 

 もう一つ本作で重要なのが地理的な意味での沖縄の「圧縮」と、起こる出来事の時間軸の「整理」が行われていることだ。本作は戦後県内各地で実際に起こった“植民地支配下が故の暴力”を中心に物語が展開するが、それらが起こる場所はある程度の改変がなされている。登場人物が口にする地名や実際に画面に映る場所、土地ごとの位置関係にも若干の飛躍があり、明らかに「地理的な圧縮」が行われている。また、起こる出来事の時期には史実と若干のズレがあり「時間的な整理」がなされている。それらが及ぼす本作への影響・効果は後述するが、実際の出来事を採用しながらも、無数のそれらを地理的・時間的に束ね、一本の筋道を持つ物語にする本作は、沖縄という土地を文字通り“劇映画”化していると言える(タイトルはその宣言だともとれる)。

 

 様々な要素と映画演出が絡まり合う本作は非常に多層的だが、その中心にあるのは「アイデンティティを巡る物語」だ。もしくは「主体形成に関する物語」と言えるかもしれない。戦後から現在に至るまで、国際戦略の中でのみ存在価値を認められ、それを内面化するにまで至った沖縄(書いてて悔しくなるが)。常に客体化され続けた「太平洋の要石」の中で、それでも主体的に「生きていくこと」を掴み取ろうとした当時の県民と沖縄。それこそが本作のテーマだ。

 

 鑑賞後、強く感じたのは「今の視点で本作(または当時の沖縄)をどのように語れるか」または「どのように語り繋いでいくべきなのか」ということだった。本作公開当時の県民達も、そして本作の中で生きる人達も、今の沖縄を作り上げるために全力で闘い、未来へと平和を繋いだ先人達だ。その後に生まれ、訪れた平和を享受しているだけの自分としては感謝してもしきれない(たとえそれが仮初の平和だとしてもだ)。しかし、戦後沖縄には彼らよりもさらに周縁へと追い込まれた人たちがいたのも確かであり、そんな彼らを本作や自分を含めた沖縄県民、または沖縄の戦後史が見過ごし、差別的な扱いをして来たのも事実だ(そういった戦後沖縄で見過ごされた権力勾配を「ポストコロニアルフェミニズム」の視点から捉え、さらに先へと問い直したのが玉城福子著の「沖縄とセクシュアリティ社会学ポストコロニアルフェミニズムから問い直す沖縄戦・米軍基地・観光〜」だ)。そこを踏まえなければ、過去から受け取った平和を、本当の意味での「平和」として未来に繋いでいけるとは到底思えない

 1970年の時点で「全てを掬い取ることなど不可能である」ということ前提としつつ、それでも本作や本作の中で生きる人々、そして闘いを続けて来た先人達に対して、今の視点でどういった指摘が可能なのか、そしてそれを指摘する言葉(または権利)をその先の平和を生きているだけの自分が有しているのか、何を受け取り先へ繋ぐのか、そういったことも考えてしまう非常に強烈な映画体験だった。

 

(以下、ネタバレ有り)

 

 とにかく脚本がよく出来ている。先述した「地理の圧縮」と「時間軸の整理」に加え、登場人物の背景を繊細に設定することで、戦後沖縄が抱えた(または現在も抱えている)諸問題とその本質的な原因を浮かび上がらせ、最終的にはミクロな視点、マクロな視点、その両方から「沖縄のアイデンティティ獲得と主体形成を巡る物語」が重層的に展開される作りになっている。

 

 まず、本作第一部で起こる出来事が現実とどのようにリンクしてるのか、地理的・時間的にどのように圧縮・整理され、そこにどのような目的があるのか、それが映画にどのような効果をもたらしているのかを確認する。

 

 映画は主人公の三郎とその両親が平川地区を経由し“石屋”に向かう場面から始まる。

 ファーストカット、さとうきび畑の中に置かれたカメラは右へとパンし、一本道を歩く三郎達を捉える。舗装されていない荒れた道、左右に生い茂る背の高いサトウキビ、体力を奪う険しい暑さと鋭い日差し。過酷な状況下、重い荷物を載せた台車を押して移動を続ける彼らは、戦後ひたすら重荷を背負わされ歩き続けて来た沖縄の具体化でもある。

 

 歩き続ける三郎達。すると、どこからか半鐘の音と喧騒が聞こえる。音の先に向かう三郎。そこには土地使用要請(土地強奪のための視察と通達)のために訪れた米軍人とそれを取り囲む平川村の村民達がいた。理不尽な土地の接収に対し抗議の声を上げる村民達だが、その中心にいた男(古堅)の声によって徐々に冷静さを取り戻していく。

 

 本作の第一部である「一坪たりともわたすまい」は、主に伊江島の「土地闘争」をモデルにしている。

 

 終戦直後、苛烈な地上戦と空爆により焦土化した沖縄の土地を「ハーグ陸戦規則(第五十二条)」を拡大解釈することで一方的に奪い続けていた米国。しかし、1952年のサンフランシスコ講和条約発効により、それを根拠とした土地の使用が困難となってしまう。そこで米国側は「契約権(52年公布)」による土地の賃借契約という戦略に打って出る。新たな法的根拠をもとに使用権回復と接収拡大を目論む米国だが、20年という長期契約にも関わらず極度に低額な軍用地料しかもらえない不公平な契約に土地を開け渡す県民はほとんどおらず、これは失敗に終わる。

 次に米国がとった行動は「土地収用令(53年公布)」による“法的根拠を持った土地の強奪”だった。収用の告知後30日以内に土地を譲渡するか否かを判断させ、合意がなければ強制的に土地を収用できるこの布令によって米国は沖縄における軍用地課題を「合法的」に克服してみせる。

 当時、伊江島で土地の収容告知を受けた人たちの多くは農民だった。農家が土地を受け渡すことは「死」を意味する(実際、土地の強制接収後、伊江島真謝地区では栄養失調者が増加し死者も出ている)。当然、多くの人たちが抵抗した。しかし1953年3月11日、必死の抵抗虚しく、島民は米軍の「銃剣とブルドーザー」によって、土地、畑、家、墓、そこにあった文化、それら全てを根こそぎ奪われてしまう。それから2年後、全てを奪われた島民たちによる沖縄本島縦断の「乞食行進(行脚や口説による非暴力の抗議活動)」が始まる。全県民に「共同体としての自覚を訴える」この行進は、後の一大事件である「島ぐるみ闘争」に繋がる命をかけた行進になっていく。

 

 かなり簡略化したが、これが本作第一部のモデルになった「伊江島土地闘争」に至るまでの流れになる。これを踏まえた上で本作の流れを確認する。

 

 平川村の村民達と米軍の間に立ち、「平川村土地を守る会」で決めた約束を守ることを訴えかける古堅は、行動方針として「短気を起こさないこと」「手を肩より上には上げないこと」「必ず座って話をすること」「挨拶をすること」などの実践を呼びかける。

 

 この「平川村土地を守る会」はおそらく(というかほぼ間違いなく)「伊江島土地を守る会」を元にしている。実際の「伊江島土地を守る会」自体は劇中より後の1961年に結成されているため、ここでは先述した「時間軸の整理」が行われている。また、劇中で古堅が呼びかけた行動方針は「陳情規定」という実際に定められ、実践されていたものである。以下はその内容になる。

 

 一、反米的にならないこと

 一、怒ったり悪口をいわないこと

 一、必要なこと以外はみだりに米軍にしゃべらないこと。正しい行動をとること。ウソ偽りは絶対語らないこと

 一、会談の時は必ず坐ること。

 一、集合し、米軍に応対する時は、モッコ、鎌、棒切れその他を手に持たないこと。

 一、耳より上に手を上げないこと。(米軍はわれわれが手を上げると暴力をふるったといって写真をとる。)

 一、大きな声を出さず、静かに話す。

 一、人道、道徳、宗教の精神と態度で折衝し、布令・布告など誤った法規にとらわれす、通りを通して訴えること。

 一、軍を恐れてはならない。

 一、人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に勝っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること。

 一、このお願いを通すための規定を最後まで守ること。

 

 以上が、土地を接収されることになった伊江島真謝・西崎地区の全地主の署名押印をもって1954年に実際に発行された「陳情規定」の内容だ。非暴力抵抗を徹底するこの陳情をもとにした行動は「おとなしすぎる」と批判されることもあった。会の主要人物の一人である阿波根昌鴻(おそらく劇中の古堅のモデルとなった人物)は「かならずしもすぐれた闘いとは思わない。だが、支援団体も、新聞記者も、見る人も聞く人もいないとき、この離れた小島の伊江島で殺されたらおしまいだ。これ以外の方法はない」と語っており、この陳情の性質それ自体が、当時米軍に抵抗することがいかに命懸けであったかの証拠となっている。

 

 場面は変わって夜の浜辺。米軍作業員としての採用に断られ、腹いせの「戦果あげ」の後、夜のもあしびー(野遊び)に興じる三郎と朋子(今作のヒロイン)、弟分の清、そして若者達。

 モノクロの世界で白く燃える炎、それによる陰影、歌と踊り、酒と笑い声。当時を生きる若者達の束の間を刹那的に捉え、その生命力をフィルムに焼き付けた非常に力強く美しいシーン。ここで歌われている「海のチンボーラー」という歌は、沖縄本島にある遊郭を茶化した県民なら誰もが知っているような民謡だが、実はこれ自体は替え歌であり、元は「前海スィンボーラー」という伊江島で歌われていたものだ。

 

 悲しい疑心暗鬼によるいざこざの末、もあしびーを離れ別の浜で寝ていた三郎と清は重機のキャタピラーの音で目を覚ます。叫び声と銃声、重機の可動音。音の先にある平川村へ向かう二人。そこでは「銃剣とブルドーザー」による土地の強制接収が繰り広げられていた。抵抗虚しく、生活、文化、過去と未来、その全てを奪われ、軍事演習基地へ回収されてしまった村民達はタスキを掛け口説とともに「行進」を始めることになる。命懸けの行進は止まることなく沖縄を縦断していく。

 

 以上のように本作の第一部は「伊江島土地闘争」の流れをなぞり、また何らかの形で伊江島とリンクするように展開していくことが確認できる。ただ、本作が伊江島という土地で進行している物語かというと必ずしもそうではない(この部分が「地理的な圧縮」が行われている部分)。

 

 例えば三郎と清が軍作業員を基地へと申請しに行くシーン。シナリオ上でこの基地は「中原キャンプ・ゲート前」と書かれている。この中原とは現在の普天間基地の中にある地区のことであり、主題の現場となった伊江島とは離れた場所にある。

 その後、断られた二人が戦果あげをするシーン。二人が歩く後ろに「HANSEN GATE 1」の文字が見える。これは本島中東部の金武町にある米軍基地の名前であり、その後の追いかけっこが繰り広げられる町(路地には伊江島との連携を訴える張り紙が至る所に貼られている)はおそらく金武町内の新開地だ思われる(ちなみに、この金武町ではハンセン基地軍用地料を巡る「金武杣山訴訟」と呼ばれる女性差別を告発する裁判が行われていた。また新開地に関しては、当時の資料や村会議員の辺野古視察などから、米兵による性暴力を町内に広げず一定地区に封じ込める狙いをもとに作られたのではないかという考察が桐山節子によってなされている。両者とも非常に植民地主義と家父長制的な色が濃く、本作のテーマとも共通するものがあるが勉強不足なので今回は割愛する)。

 

 このように、劇中の“地理的な整合性”は本作では優先されておらず、限りなく圧縮・抽象化されている。また「土地を守る会」の結成年でも確認したが時間軸も整理されている。そしてこれらは「映画」という芸術形式の本作に対し効果的に機能している。

 

 例えば、会の結成を早めた時間軸の整理についてだが、「平川土地を守る会」という目的と進行方向がはっきりとしている強い組織名は、そのまま映画全体の“矢印”として機能する。もちろん史実通りに会の結成を「乞食行進(1955)」以降の1961年に持ってきても問題はない。しかし各地で散発的に起こる悲劇の数々を羅列するだけのストーリーテリングは映画に混乱を与え、観客の集中力を奪ってしまう場合がある。

 「平川土地を守る会(=伊江島土地を守る会)」の結成を史実より早め、物語の中心に据えたことで、「この映画がどこに向かっているのか」「何の話をしているのか」または「観客がどこに集中すればいいのか」という部分に対しての明確な“目印”ができる。このように時間軸を整理することで、本作は映画と観客が混乱するのを防ぐことに成功している。

 

 地理の圧縮は分散する視点の統一につながり、物語をよりタイトにし、そのテーマをより明確にしてみせる。この手法により観客は県内各地に分散していた差別的暴力の数々を主人公一人の視点で追体験することになり、差別される側の苦しみと怒り、そしてこの島が持つ問題の本質をより明確に捉えることが可能になる。

 

 地理と時間の「編集」は映画制作における基本作業だ。本作の第一部は沖縄の1950〜60年代前半を劇映画化することで、沖縄史で呼ばれるところの「暗黒時代」の一端と、その問題の本質を描こうとしている。

 

 ちなみに、史実として、実際の沖縄はこの映画よりさらに悲惨な状況へ置かれていた。「プライス勧告」の裏切りとそれによる絶望、県民同士を内側から分断させるオフリミッツの宣言(セリフでの言及あり)、米軍兵士による暴力事件(特に有名なのが1955年の6歳児幼女暴行殺害事件だ)そういったディティールを省いているという意味では、本作は沖縄県の反基地・反戦運動、民主主義に積極的な県民性をよく思わない人達にとってはある程度口当たりのよい安心できる作品になっているとも言える(それらを描いたからといって本作がよくなるとも思わないし、そもそもそういう人たちが本作を観るとはとても思えないが)。

 

 第二部「怒りの島」は、1968年に起こった全軍労(基地内労働組合の総称)初の24時間ストである「10割年休闘争」に至るまでの道のりを物語の主軸にし、「戦略的政治政策により米国支配がある程度安定してしまった沖縄での抵抗の日々」を描こうとしている。

 

 少し注意が必要なのは、この第二部が第一部に比べて“作り手の願望”や“物語の単純化”がより顕著になっており、結果として「こうであって欲しい戦後沖縄の民主主義」が画面上で展開してしまっていることだ。特にクライマックスはそこで被さるナレーションと感傷的な音楽も相まって、それまで語られてきた一筋縄ではいかないはずの戦後沖縄の怒りが、全て「反基地」や「平和主義」に回収されてしまっているように感じる。

 基地内外の労働者の戦いの日々を中心に話が進むこの第二部だが、彼らの怒りや熱狂が実際には何に基づいていたのか、何によって鎮静化されていったのかについては、本作から受け取ることのできるカタルシスやメッセージとは少し距離を置き、冷静に考える必要がある。背景にある1950年代後半の国際自由労連を加えた沖縄統治方式の一大転換とその成果、また復帰後の彼らの運動がどのように変化していったかを踏まえなければ、この時代の沖縄が作り手によって理想化されるだけになってしまう

 第二部は第一部に比べて群像劇色が強く、どこに力点を置き観賞すべきか迷ってしまう作劇だが、作り手の試みはあくまでも「権力に翻弄される労働者達の民主主義的な労働闘争と本土復帰闘争を、反基地・反戦を中心にした平和主義に結びつけ、アイデンティティを巡る物語に仕立て上げること」だ(それはある意味で入門的沖縄戦後史が行なってきた単純化でもあるわけだが)。劇中で起こる様々な要素は一旦置き、当時の沖縄の「労働」という局面で何が起こっていたのかを確認しながらこの第二部を観ていく(古波藏契の「ポスト島ぐるみの沖縄戦後史」が資料として非常に参考になった)。

 

 冒頭、県内の高校でサッカーネット一式がアメリカ軍から寄贈されたことを祝うシーン。校庭に整列する三郎達の次の世代達。第二部の主要人物である山城朝憲の紹介で壇上に上がる米兵中将。見下ろす側と見上げる側、支配する側と支配される側が上下の構図として視覚化される非常に映画的で素晴らしいシーン。作り手はこの構図を冒頭に持ってくることで、これから展開される第二部のテーマを簡潔に伝えてみせる。

 

 第一部からの十年後、三郎は当時年齢を理由に採用を断られた米軍基地労働者として、土地を奪われた平川村の人たちと共に米軍基地内の兵器工場で働いていた。

 工場内、スムーズな移動ショットと簡潔なカット割りで人の手を渡っていく兵器、それと並行するように人から人へと密かに手渡されていく労働組合の案内。兵器とチラシを同一ショットに収めることで、暴力的な植民地主義と非暴力を貫く民主主義のせめぎ合いを映画的表現する素晴らしいシーンになっている。

 暑さと違法な長時間労働疲労困憊の労働者達。そんな地獄のような現場で組合への参加を積極的に促している知念という名の男。しかし、三郎を含めた労働者の一部はそんな知念に渋い顔で対応する。平川村で挫折や、極限の疲労状態、基地管理者の監視の目に晒されていた三郎たちは権利のために声を上げることに限界を感じており、抑圧への抵抗に諦めの姿勢をみせていた。

 そんなある日、疲労により爆弾の取り扱いを誤ってしまった三郎の父とそれを庇い労働環境に異議を唱えた二人の労働者がパスポートを剥奪され解雇されてしまう。

 

 戦後、強権的に県民の土地を接収し、財産も人権も強奪し続けた米国は、「島ぐるみ闘争(1956)」という“行き止まり”に到着してしまう(第一部の行進の後の出来事)。プライス勧告において沖縄県民を「好戦的民族主義運動が存在しない(つまりゴリ押しできる)」と評していた米国は、この島ぐるみで起きた土地を守るための「総攻撃」に驚きを隠せず、軍事優先主義に根ざした統治方法には限界があると感じるようになっていった。ここから米国は沖縄の統治法を軍事圧力的なものから、経済主義的なものに転換していく。

 軍事主義的なものから経済主義的なものへと姿を変えていった沖縄の統治方式。そこで大きな役割を担ったのが国際自由労連だ。強権的な沖縄統治体制により県民のむき出しの怒りを買った米国民政府(米国政府の沖縄行政機構)は、国際自由労連の介入という不本意を受け入れ、沖縄の労働環境改善と経済発展を促すことで県民からの反米感情を抑える策に出る。また、1950年より存在していた「国民指導員制度」という新米エリートを育成するための渡米プログラムにも国際自由労連の介入以降、労組代表が選ばれることが増えていくことになる。米国民政府下において労働組合も労働運動も弾圧の対象となり、悪化の一途を辿っていた沖縄の労働環境は、国際自由労連の介入により急速に改善していく。この“労働者を味方につける統治方式“は、故郷や人としての尊厳を奪われた怒りから来ていた「反基地」「反米」の感情を、より経済的要求を根源とするものに少しづつスライドさせる効果を果たしていった(県民の怒りの捌け口に資本主義を利用したといえる)。

 ただ、基地内の労働環境に関しては必ずしも改善したとは言い難かった。国際自由労連が介入するよりさらに前、労働三法の影響で基地内の労働者が人権意識を持つことを恐れた米国民政府は、その影響から労働者達を引き離すため布令116号(53年)を発布する(劇中のセリフにも出てくる)。基地内労働者を労働三法適用外とするこの布令。これにより沖縄の軍労働者達は組合活動を規制され、最悪の労働環境下で抗議の声も上げることも、交渉の場を持つことも難しく、馬車馬のように働かされていた(この布令は国際自由労連の介入後も存続し、1968年まで影響力を持ち続けた)。違反者にはパスポートの剥奪や解雇が待ち受けており、土地を奪われ基地で働くしか経済的自立を達成できない農村出身の軍労働者達は、様々な不条理も受け入れるしかなかった。

 

 パスポートを取り返したい三郎は基地管理者と話し合いの場を設けるが、そこで見返りとして「スパイ」になり全軍労を内部から撹乱することを持ちかけられてしまう。それを断った三郎は怒りや悔しさの中、夜の街を彷徨い、改めて米国民政府の圧政に闘志を燃やすことになる。そんな時、知念から「10割休暇闘争が始まる」との知らせを受ける。闘争に向けて士気を高めていく三郎をはじめとする軍労働者。しかし、三郎の軍労働者への強い影響力を知る基地管理者は、彼の意中の人である朋子の逮捕をチラつかせ、闘争を内部から分裂させるよう彼に強い揺さぶりをかける。

 

 この「10割休暇闘争」とは、1968年4月に起こった「10割年休闘争」がモデルになっている。基地内での労働環境が最悪の状況であったことは先述したが、それに加え1960年代後半は、本土復帰の機運が高まったこともあり、軍労働者の大量解雇が断続的に発生していた。この理不尽な労働環境と大量解雇に対抗するために全軍労がとった行動が「10割年休闘争」だった。布令116号が発布されて以降、ストライキが禁止されていた全軍労は「年休」という言葉を使うことで、布令に抵触することを回避しようとした。全員参加という意味で使われた「10割」という言葉。総勢2万人が参加したとされるこの大規模な闘争は、全軍労初の24時間ストライキだった。

 

 米国民政府の揺さぶりに敗れ、全てを諦めた三郎は平川村に戻りキビ畑で農業を手伝っていた。そんな彼を再び闘争の場に押し戻そうとするかつての仲間達。組合の先頭に立っていた知念が逮捕されたことを知り、更には平川の組合小屋が焼き払われるのを目の前で目撃した三郎。小屋を焼く米兵に抵抗し逮捕されてしまう彼だが、怒りと共に再び立ち上がることを決意する。

 基地内、24時間ストを警戒していた米国民政府は先手を打っていた。各組合同士の連絡手段を断ち、その上で強制解雇をちらつかせる彼らに組合は揺らぎ始める。そこに現れた三郎。釈放寸前、変わり果てた知念の姿を見た三郎は彼の言葉と共に疑心暗鬼に陥る組合員達を鼓舞する。決意を固めた全軍労はついに24時間ストに突入することになる。

 

 以上のように第二部も戦後沖縄で実際に起きた出来事や当時の労働者達の状況がモデルとなっているのが確認できる。故郷を奪い尽くした相手に奉仕することでのみ約束される生活。屈辱の日々の中で労働運動という政治的抵抗手段を手にする三郎達。「自分たちにとって何が不当なのか」「自分たちが何に憤りを感じるのか」「自分たちが何を求めているのか」、そこにある理不尽な状況と、それを起因とする負の感情を自分たちの言葉と行動で訴える労働運動という抵抗手段は、一度失った自己を再び“言語化”し“規定”する手段でもあったはずだ。登場人物達が政治的抵抗の果てに「自分たちが何者であるか」を主体的に選択していくプロセスこそ、この第二部のテーマだと言える。

 

 第一部で土地を奪われた農民達が、その土地を奪回する闘争に自己を見出し、第二部では権利を奪われた労働者達がそれを獲得する闘争に自己を見出していく。これらの闘争は“共同体”を通して当時の沖縄に実際に起こった時代のうねりだ。作り手は戦後沖縄の“共同体を通した闘争”にマクロな視点からの「アイデンティティを巡る物語」を読み取り、本作を描いている。

 

 当時の苦しみの後に生まれた県民としては、画面上で展開される差別の連続に悔しさや怒りを感じずにはいられない。失った土地やそこに根付いた生活、歴史、文化、その全て結局は奪い返せなかったという史実は今も現実の問題として存在している。だからこそ、劇中後半のストが達成された瞬間の歓喜や、言論で立ち向かう人たちの姿に感動し勇気づけられもする。しかし、先述したように、本作の第二部が戦後沖縄の歪さを単純化し“理想化”しているのも事実であり、その部分も指摘しておかなければフェアとは言えない。

 

 本作の第二部は全軍労のストに向けた労働闘争を中心に話が展開していくが、終盤はそれに重ねるように沖縄の「本土復帰」に向けた時代の変化も描かれている。本作がアイデンティティ獲得をテーマの中心に据えてることを考えれば、「本土復帰」という当時の県民のアイデンティティ獲得の集大成を物語の終盤に用意したのは非常に正しい選択だと言える。そして、それは歴史的にも正統性がある。なぜなら「本土復帰」に向けて最も重要な存在だったのが全軍労を含め県内各地に存在した「労働組合」だったからだ。

 では、なぜ本作第二部の描かれ方に“理想化”を感じるのか。それは「本土復帰」に対する全軍労の立場や、その闘争の性質に史実と若干のズレを感じるからだ。本作の作り手達は、全軍労を中心とした労働組合の闘争と「本土復帰」の闘争に「反基地」「平和主義」の性質をかなり強く見出している(その証拠にナレーションでわざわざベトナム行きの爆撃機を停止させたと強調する。まるでこの闘争の果て勝ち取った平和の一つであるかのように)。確かに「本土復帰」のスローガンは「即時・無条件・全面返還」であり、その闘争の中には「戦争反対」の文字も掲げられていた。その意味においては本作後半の闘争の描かれ方は間違っていない。が、実際にはそんな単純な話ではない。もし仮に、当時の闘争が純粋な「反基地」「平和主義」の旗のもとに繰り広げられていたならば、「本土復帰」達成後の沖縄の現状に説明がつかなくなってしまう。何故なら、復帰を境に全面返還の運動は急速にその勢いを失い、広大な米軍基地は沖縄の土地に今なお存在し続けているからだ。

 

 沖縄の「反基地・反米」運動は時代と共にその性質を変化させてきた。たとえ同じ県民総動員の闘争といえど、本作第一部の先にある「島ぐるみ闘争」と、第二部の先にある「本土復帰闘争」を同じ性質の「反基地・反米」として語るには若干無理がある。しかし、本作はこの二つの闘争を主人公である三郎の人間臭くも最終的には労働者代表として振る舞う英雄的なキャラクター性を利用し同じように扱ってしまっている。

 

 ここで重要になるのが、先述した“当時の沖縄の「労働」の局面で何が起こっていたか”だ。第二部における沖縄の反基地・反米の姿勢が、国際自由労連介入や米国民政府の統治方式の転換、国民指導員制度による新米エリート育成によって穏健化され、その性質を経済要求的なものに少しづつ変化させられてきたのはすでに確認した通りだが、それに加えて、復帰が現実味を帯びてきた60年代後半は基地労働者の強制大量解雇が断続的に発生していた(本作の第二部はそのゴタゴタが「10割年休闘争」に発展するまでの物語だ)。この時期、全軍労は大規模な闘争を幾度か仕掛けるが、その原動力は「不当な労働環境を訴える」ことや「不当な解雇を訴える」という“経済的危機”に起因するものでもあり、必ずしも「反基地」「反戦」だけがテーマではなかった。そしてこれは全軍労だけではなく、当時の沖縄県全体に対しても指摘が可能な事実だ。当時、復帰運動の際に使用された「本土なみ」や「差別なき復帰」というスローガンは、不平等な基地負担や、命や尊厳を軽んじらている現状を不問にされる人種的差別(あえてこの言葉を使うが)に対してのみ発せられた訳ではなく、本土との賃金格差解消や経済成長率の改善など、経済的差別に対しても発せられていた。事実、1968年に行われた県民に対するヒアリングでは、80%近くの県民が復帰支持を表明しながらも、基地全面返還については「賛成34%、反対32%、わからない34%」という結果も確認されている(実際、オフリミッツ発令の後、基地からの利益に依存する県民側が反基地デモを行おうとした学生達を集団で取り囲んだという記録もある)。

 上記の内容だけでも、当時の怒りや熱狂を「反基地」「反戦」や「平和主義」のみから読み解くのは難しくなるはずだ。しかし、本作の作り手は経済的危機からも来ていた闘争の原動力を、クライマックスの熱狂に乗じて、純粋な「反基地」「反戦」に塗り直してしまう。少なくとも本土復帰のエネルギーは資本主義的な欲求に突き動かされていた側面があり、当時の熱狂に身を投じた人たちの中にも少なくない割合で基地共存を望んでいた者たちが居たことを見逃してはいけない(その是非が問いたいわけではなく、事実として「複雑」だったということ)。本作の全軍労も三郎も、その他の組合組織も、作り手の願望により少しヒロイックに描かれ過ぎているような気がする(もしくは作り手が望むヒーロー像に作り変えられている気がする)。

 

 第一部と第二部が当時の社会を劇映画化することでマクロな視点からの「沖縄のアイデンティティ獲得と主体形成を巡る物語」を展開させたように、本作は登場人物の的確な背景設定により、ミクロな視点からもそれらの実践が行われている。またそれぞれの登場人物は当時実際にあった出来事や制度に振り回された県民がモデルになっている。各登場人物を確認することそれ自体が、戦後沖縄を読み返すことにもつながる作りとなっている。

 

 例えば、主人公の三郎とヒロインの朋子はそれぞれ、「戦果アギヤー」「廃品回収業」で生計を立てるが、どちらも当時の沖縄で実際に行われていた「職業」だ。米国に土地を奪われ生計を立てる手段を失った人たちが、彼らの物資や廃品で生きるという不健全な依存のサイクルを端的に表すこれらの職業は、その存在自体が当時の沖縄の過酷な状況の証明となる。

 

 存在感は薄いが、三郎の弟分である清も「琉球政府計画移民」という実際にあった政策に振り回された人たちがモデルになっている。土地の接収や人口増加により発生した人口過密、そこから来る失業率の増加など、様々な社会問題を打破することを狙って実施されたこの移民計画だが、ボリビアを中心に南米各地へ渡った当時の県民は、移住先で非常に厳しい経験をすることになる。感染症や水害、移住を促進した米政府からの支援が途絶えたことなどにより、移住定着率は10%以下だったとされている。劇中の清の様に、海の向こうで全てを失い故郷に戻ってきた県民は数多くいた。

 

 “女性”教師の桃原は劇中最もロジカルな「本土復帰」を唱える人物だが、当時の教職員会は、多くの組合の中でも復帰運動の前線を担ったことで知られている。彼女の存在自体が、当時の沖縄の教育という場で起こった政治的せめぎ合いと、その中で子供たちの未来のために戦った教職員会の具体化でもある。

 

 アメリカ留学帰りの山城朝憲は、「国民指導員制度」で海を渡った新米エリート達がモデルになっている。金の匂いを真っ先に嗅ぎ取るハイエナ(ハイエナさんに失礼なのでゴミクズでも可)を父に持ち、理想と現実の間で揺れ動く彼は、物語の終盤まで「自分が何者なのか」を自問し続ける。その姿は、海を渡り自由の国の精神性にアイデンティティを見出したにも関わらず、持ち帰ったそれと故郷の現状に整合性をとれず、日和見的にどっちつかずな態度で振る舞うしかなかった実際の指導員達の姿と強く重なる(当時の指導員の中には、アメリカが語る理想が沖縄で実現できていないことの異議申し立てをする大城つるのような勇気のある人もいれば、米国に対して批判的な言動を行った同じ指導員を密告するという恥も外聞もない卑怯丸出しなヤツもいたと言う、しかもこいつ立法院議員な)。

 故郷の現状を憂いながらも、曖昧な立場と曖昧な言論、曖昧な行動で、未成年の教え子相手にも親譲りの卑怯さを発揮してしまう朝憲は“人間の内面の複雑さ”や“世界の多面性”を体現する非常に素晴らしいキャラクターだ(その意味では劇中最も泥臭い人間と言える)。また彼の揺れ動く内面それ自体が、「理想(平和)と現実(経済)」の間で揺れるしかなかった当時の沖縄の世論の具体化と読むこともできる(とはいえ、その現実も基地安定のために権力側が都合よく作り出した物であることは指摘しておきたいが)。

 

 アイデンティティを巡る物語」である本作のテーマを最も体現している登場人物がヒロイン朋子の弟である亘だ。アフリカンアメリカンの米兵と性産業で生計を立てる母との間に生まれた彼には常に差別の視線が付き纏う。敵意剥き出しの差別、悪意のない差別、そのどちらもが彼を苦しめる。米国、日本、沖縄、そのすべてから異端として扱われる彼は、周りの大人が与えてくれない“自分の居場所(または自分という存在)”を自分で掴み取らなければならなくなる。

 亘の人生は朝憲の物語と対になるように描かれている。有力者の息子として何不自由なく沖縄県民と認めてもらえる朝憲と、そうはならない亘。国民指導員制度を利用し米国からも沖縄からも期待をしてもらえる朝憲と、その両方から異端者扱いされる亘。社会から安全な居場所を与えてもらいながらも自身のアイデンティティに確信が持てない朝憲と、社会から周縁に追いやられてもそれでも高らかに「ウチナンチュ」を宣言する亘。他者の死によって初めて自己を確立する朝憲と、死ぬことで初めて他者から存在を認めてもらえる亘。教師と生徒という立場で再会し、自己を求めてもがく彼らの物語は、間違いなくこの映画の核だといえる。(だからこそ映画を観ている途中はひたすら朝憲が情けなくて呆れてしまうのだが)。

 亘の悲しすぎる結末は、泉崎という場所で実際に起こった轢殺事件がモデルになっている(その証拠に劇中で亘が事故に合うのも泉崎交差点になっている)。当時中学生だった国場秀夫さんが米兵の運転するトラクターに轢き殺されたこの事件は、劇中同様、最低の裁判のもとで最低の結末を迎える。この事件は、日米地位協定の理不尽さを知らしめる事件として象徴的な事件になっている。

 日米地位協定の問題点と戦後沖縄の社会の不安定さ、その両方を十数年という短い人生の中で一身に体現する亘は、本作において作り手から「最も背負わされた人物」だと言える。

 

 登場人物たちが、それぞれに背負った人生の中でもがき、苦しみ、泣き笑いする姿を捉えることで本作は戦後沖縄という一つの“時代”をミクロな視点から描くことに成功している。

 

 冒頭で述べた「今の視点で本作(または当時の沖縄)をどのように語れるか」「どのように語り繋いでいくべきなのか」という部分について、目の前の「平和」に何の疑問も持たないで済むような、“普通という贅沢”を与えられてきた自分としては非常に躊躇してしまうが、それでも本作が沖縄の加害者性を「漂白」してしまっていることは指摘しなければならない。

 

 例えば、本土復帰運動に通底した強烈なナショナリズムがもたらした他民族への差別意識だ。「沖縄人、朝鮮人お断り」という張り紙が本土の貸家に貼られていたという話にもあるように、戦後の沖縄県民は朝鮮に出自を持つ人々同様、差別の対象とみなされた。しかし、そんな彼らの中にも朝鮮人を見下す意識があり、「彼らとは区別されたい」という差別的意識が本土復帰の原動力の一部になっていたのも事実だ。実際、戦後の語りの中や、国や県による第二次大戦の被害者調査の中でも、朝鮮人被害者に焦点が当たることはほとんどなく、その存在は不可視化されていった。

 

 同様の不可視化はジェンダーの局面からも発生した現象だ。詳しくは先述した玉城福子の「沖縄とセクシュアリティ社会学」を是非読んで頂きたいのだが、沖縄戦後史が雄弁に語る“男達の英雄譚”の裏で、どれだけ多くの女性達の存在が無かったことにされたか、彼女達の主体性や、英雄達から受けた数多の性差別が無かったことにされたか、米兵相手の性産業に生きるしか無かった女性達が同じ県民からどのような扱いを受けていたか、という部分に関して今を生きる県民(特に自分を含めて特権的な性に位置する人間)はもう少し意識的であるべきだ。

 本作も、米兵相手の性産業に身を置くことで地獄を生き延びた、さわ子という名の女性が出てくるが、本作の彼女に対する視線は、一見するとフェアなように見えて、実際は非常に際どいバランスの上に成り立っている。劇中の彼女は常に他者から「批評」され続ける。息子である亘からの恨みの言葉、娘の朋子からの軽蔑の眼差し、世間や政策からの嘲笑と裏切り。様々な言葉と態度を尽くして彼女を批評し侮蔑する彼らだが、そんな彼らの言葉が本作から批評し返されることはない。それどころか、本作は彼女と朋子を対比的に描くことで、「米兵相手に性を売ることで生活費を稼いだ女」と「廃品回収で生活費を稼いだ自立した“強い”女」という対立構図を作り出してしまっている。確かに本作は彼女に理解を示すかのような“演出の余白”を設けている。しかし、悔しさと悲しさの果てに溢れた彼女の叫びと涙は、三郎と亘の間で飛び交う怒号にかき消され、朋子の憐れむような「優しい」視線でうやむやにされてしまう。結局、“戦後沖縄”という圧倒的男性優位社会の中、一人の女性が必死の思いで獲得した主体性と苦渋の選択の連続は、特権的な立場にいる男性映画監督から、映画表現という特権的な手法で一方的に批評されてしまう(ただ、それでも脚本段階より確実に彼女の描かれ方は複雑で多面的にはなっているし、そもそもそこを描くのが本作の目的ではないともいえる)。

 

 もっとも顕著な「漂白」が行われているのがラストのナレーションだ。先述したが、本作はベトナム行きの爆撃機がストにより機能不全に陥ったことを「沖縄県民が勝ち取った平和」のように表現している。当たり前だがそんなことは絶対にない。確かに、戦後沖縄ではベトナム戦争に対する反対のデモがいくつも起こった。しかし、それでも沖縄は「ベトナム特需」という甘い汁を啜っていた側だ。この事実からは絶対に逃れられない。本作も一度は主人公の口からベトナム戦への言及を行っているが、それでもその加害性に向き合うことなく、最終的にはベトナムの状況を憂いてるような姿勢を見せてしまっている。これは完全に欺瞞であり本作最大の欠点の一つだ。ベトナムにとって沖縄が「自分たちを殺す為の武器を作り、供給し、それで利益を得ていた“悪魔の島”だったこと」は、沖縄が向き合い続けなければならない負の歴史だ。

 

 正直、「こうするしかなかった」過去の選択の連続を、与えられた豊かさに浸かりながら今の視点で批評することに、ある種の傲慢さがあることは否定できない。しかし、差別をする側がさらなる差別を行うという“差別の再生産”が繰り返される限りは、例えそれが感謝し尊ぶべき人たちの行いであっても批判的に指摘しなければならない(そして、その批判の矛先は常に自分にも向けなければならない)。今を生きる自分たちのために過去から繋がれた営みの連続が、誰かの犠牲の上に成り立っていたなら、例えそれが感謝し尊ぶべき人たちの行いであっても批判的に指摘しなければならない(当然、その批判の矛先も常に自分にも向けなければならない)。

 あの日から今に至るまで、確かに沖縄は多くの被害を被った。逃れられない負の歴史も、圧倒的な力を持つ権力者達が、県民の命を人質にして押し付けたものだともいえる。それでも「漂白」の欲望には常に抗わなければならない。そうしなければ、過去から受け取った平和を、真の意味で未来に繋ぐことはできない。

 次に本作のような戦後の沖縄を描く映画が作られるならば、今度は沖縄戦後史から周縁に追いやられ、不可視化された人たちの視点から語られるべきだ。沖縄から飛び立った戦闘機で殺された人たちの視点も描くべきだ。千鳥足じゃないさわ子がこの島を歩き、飛び立った戦闘機の先にある焦土を描いた時、本作にも劣らない沖縄映画の新たな傑作が誕生する気がする。

 

 思い入れの強い土地を描いた映画であるため非常に長くなってしまった。受けた感動や作り手の理想的な沖縄像に水を差すような批判的内容も書いてしまったが、それでも間違いなくオールタイムベスト級の映画体験だった。この映画のように、あの地獄を生き延びた全ての人たち、もしくは今も沖縄で笑ったり、泣いたり、怒ったり、サーターアンダギーで咽せて焦ったり、白い息が出てテンション上がったり、台風でユニオンの状況を確認したり、二段階右折に迷ったり、お墓の前でブルーシートを敷いていたり、仕事に行ったり、家事をしたり、子供を寝かしつけたり、夫婦でゆっくりしたり、一人でまったりしながら生きている全ての人たち、本当にありがとうございます。傑作。

 

※参考資料の「ポスト島ぐるみの沖縄戦後史(著:古波藏契)」と「沖縄とセクシュアリティ社会学ポストコロニアルフェミニズムから問い直す沖縄戦・米軍基地・観光〜(著:玉城福子)」にはとにかく感銘を受けた。本当に勉強になったし、考えさせられもした。近い年代の人たちがこういった研究を読みやすい書物として外に提供してくれるのは素直に尊敬してしまうし、本当にありがたく感じる。沖縄県民には是非読んでほしいと思った。
ジェンダーに関する「漂白」の部分について、差別する側に属する自分が、被差別側に属する人間の行った研究のタイトルだけを記載し、「詳しくは読んで」で終わらそうとする姿勢は、それ自体が自分の位置性を見誤った非常に不誠実で失礼なものなわけだが、現状この本を読んで受けた衝撃を言語化できる能力が自分にはないので、本当に「詳しくは読んで」くださいって感じっす(ってことを書くこと自体が不誠実な言い訳でしかないんだけども)。

※沖縄史での国際自由労連の評価は二分されている。労働組合の育成や米国民政府からの弾圧の防波堤を果たした国際自由労連だが、彼らの本質はどのような言い回しをしようが「米軍基地を沖縄に定着させるための装置」でしかない(これは揺るがない事実だ)。この捻れをどう評価するかは、各個人が現在の沖縄の有り様をどう評価するかで変わってくる。個人的には、国際自由労連という組織が、自身を民主主義の体現者としながらも暴力で小さな島を横断してしまうアメリカの自己矛盾とそれによるジレンマの視覚化のように思えて興味深かった(もちろん国際自由労連は米国からは独立した国際組織であるが)。何にせよ、軍政を敷き全てを蹂躙できる圧倒的な軍事力を持ちながらも、そのジレンマにある種の自己批評(ここでは国際自由労連の介入)をするアメリカに、玉座のない超大国の歪な底力を感じた。

※本作の「上平川」と「下平川」は実際に沖永良部島にある地名だ。どういった意図があってこの地名を採用したかは不明だが、沖永良部島琉球の文化が根付いており、戦後アメリカ軍政下に置かれていたという意味では、ゆかりがあるとは言えなくもない。しかし、沖永良部島琉球よって支配されていた島だ(つまり琉球の加害の歴史の先にある島だ)。植民地支配の暴力性を暴く物語で、沖縄が武力支配していた沖永良部島の地名の一部を採用するのは、正直かなり無神経で欺瞞的な気がしてしまった(単なる思い込みなのかもしれないが、居心地が悪いのは確かだ)。

※本土にある米軍基地のほとんどが国有地だったのと違い、沖縄のそれは8割が元々民間の土地または県の土地だった。沖縄県民の反基地・反戦運動に対するカウンターとしてよく利用されるロジックの一つに「基地があるのは沖縄県だけではない」というものがあるが、上記から見てもわかるように「政治的スタンス」などという次元ではなく、根本的な基地の成り立ちとその性質が違うことは指摘しておきたい。また、本土の基地では「無し」だが、沖縄の基地でなら「有り」となった事が多くあったことも指摘しておく(核兵器の持ち込みとか)

※第一部のタイトルは昆布地区土地闘争の際に作られた歌のタイトルが元ネタとなっている。

※本作は、「沖縄料理」がほとんど出てこないが、この時代は「琉球料理」と「沖縄料理」の間の時期と言える。ポーク入りとそうでない白黒のゴーヤーチャンプルーを見てみたかった気はする。

 

 

ある日どこかで(1980)

 

ある日どこかで

原題:Somewhere in Time

監督:ヤノット・シュワルツ

脚本:リチャード・マシスン

出演:クリストファー・リーヴジェーン・シーモアクリストファー・プラマーテレサ・ライト

 

 1972年5月、母校ミルフィールド大学で自作舞台の初演を終えた若手劇作家リチャード・コリアー(クリストファー・リーヴ)は、目の前に現れた見知らぬ老女から金の懐中時計を手渡される。「私の元に帰って来て」そう言って彼の前から消える老女。それから8年後の1980年、訪れたホテルの写真に心奪われるリチャードだが、そこに写っていたのは、かつて目の前に現れた見知らぬ老女の若き日の姿だった。

 

 マシスン原作のSFファンタジー恋愛映画。マシスンの経験に基づいたとされる本作は、監督であるヤノット・シュワルツの確かな手腕と素晴らしい役者達の演技、音楽、そして原作のポテンシャルが最大限に発揮される映画という映像メディア、これらの化学反応によって非常に素晴らし作品に仕上がっている。

 

 劇作家と舞台女優の小さな恋物語。そこに立ちはだかる大きすぎる壁。その壁を力任せに押し通すフィクションだからこそ可能な究極のロマンチシズム。有り得ない出来事を有り得ないまま有りにしてしまう本作は、間違いなく映画の魔法が宿っている。

 

(以下、ネタバレ有り)

 

 冒頭、主人公のリチャードは、自身にこれから起こるであろう出来事を「すでに起こった未来の話」として、見知らぬ最愛の人から、切実な祈りと共に暗示的に知らされる。筋書き上、結果的にではあるが運命論的な見え方も出来る本作(ヒロインが待ち望んでいたのはまさに“運命”の男だ)。作り手はリチャードが恋に落ちる過程でその部分にかなり意識的な演出を施している。

 

 スランプに陥ったリチャードは、再び母校を訪れようとするが、その途中でグランド・ホテルに行き先を変更する。このシーン、最初からホテルを目的地にしてもストーリー上は不都合がないにも関わらず(スランプの脱出に場所を変えるなど誰にでもある話だ)、わざわざ一度ホテルを通り過ぎ、その後何かを思い立ったかのように引き返す演出がとられている(カメラは長回しで彼の行動と「グランド・ホテル」の看板を捉え続ける)。

 ホテルに着いた彼は食事のためレストランに行くが時間を理由に断られてしまう。暇を潰そうと服屋のショーケースを眺めつつ目線を移すとそこには「史料室」の文字(このシーン、着飾った人形の目線も史料室に向けられている)。展示物が置かれた部屋の中、一定の距離を保っていたカメラが彼に向かって動き始める。満を持して振り返る彼。目線の先にある光の筋に照らされたエリーズ(ジェーン・シーモア)の写真。

 予定していた行動がその度に変更になり、その結果として写真にたどり着く。主人公の意思を超えた先に出会いを用意することで、この出会いの運命性をより強調することに成功している(初めからグランド・ホテルに行き、史料室に向かっていたならこのような雰囲気は作り出せない)。

 

 恋愛映画(または映画内の恋愛)において重要な要素の一つが、その恋の障害となる“壁”の存在だ。登場人物達が出会い、惹かれ合い、ぶつかり合い、何らかの壁を互いに乗り越え(または乗り越えることなく)、エンドロールが流れる。ほとんどがこの道筋を辿るなかで、それでもこれまで作られた数々の恋愛映画とそこで右往左往する登場人物達の恋が個性的に感じられるのは、乗り越えるべき壁とその壁の乗り越え方が多種多様に存在するからだ。

 

 例えばその壁が“記憶”であった場合、登場人物達はそれを取り戻すためにに全力を注ぐ。記憶を取り戻せた者たちは喜びと共に再び愛を確かめ合い、そうはいかなかった者たちも、それぞれの形で(または解釈で)記憶という壁を乗り越えていく。

 互いに正面からぶつかり合う若い二人は、小さなクリニックで始まった記憶削除作業の最中、モントークでのゼロからの再会を約束する。施設で過ごす老夫婦は、共に過ごした記憶が失われゆくの中、最も大切な雲を“掴み”続ける。

 たとえ全てを忘れてしまっても“この人を愛したという事実”だけは揺らがない。かけがえのない日々と愛に対する絶対的な信頼が不可逆な喪失とそれによる絶望を凌駕していく。

 

 または、その壁が“人種(社会的構築物としての)”や“ジェンダー”であった場合(そんなことがあっては絶対にいけないので「あってしまった」というべきだが)、登場人物達は社会やその時代の価値観、つまりは世界と戦わなければならなくなる。世界の“基準”という巨大すぎる壁に挑む恋(または愛)は作品に強い“政治性”を浮かび上がらせる。そして何よりそこに政治性が浮かび上がってしまうこと自体が、この世界に存在する差別の証明となる。

 世界中から好奇の目と、敵意と、そして銃口を向けられながら、それでも歩を止めない恋人たちの意思は世界を変革していく(一方で、このような差別の歴史を恋物語として作品に落とし込み安全圏から“綺麗事”として眺める行為は、被差別者の苦しみをエンターテインメントとして“消費”しているとも言える。「感動」という一時的な快楽のために他者の痛みを“道具”として利用する行為は「搾取」でしかない。そして当然、この文章自体もそういった批判からは逃れられない。観客も作り手も(特に属している位置が特権的であればあるほど)そのことを自覚し、自身ができる範囲で映画の外側へと行動を起こしていく責任があると思う)。

 

 隕石が降り注ぐ中、恋人たちは今この瞬間に「運命」を見い出し、理性と本能の間で揺れた吸血鬼たちは互いに隣り合い朝日の中に消える。乗り越えるべき壁が物語に確かな個性を与えていく。

 

 本作における壁は「時間」だ。不可逆で抗いようのない巨大過ぎる壁は、本作を通して作り手が伝えたかった事を見事に反映している。

 

 運命の人が過去にしかいない事を知ったリチャードは時間を遡る事を決意するが、重要なのはその方法がタイムマシンなどの“一応の説得力”がある手段ではなく、催眠術という“祈り”に近いものであるということだ。本作が感動的になる最大の理由がここにある。

 身の回りの全ての物を特定の時代に合わせ、「自分は今過去にいる」という強烈な自己暗示をかけ時間を遡る。一見すると非常に滑稽でご都合主義的にも見えるこの方法は作品のトーンすら変えかねない非常にリスキーなものだ(一気にコメディに傾いてしまう危険性もある)。それでも、本作の主題を伝えるにはやはりこの方法しか存在しない。なぜなら作り手がここで真に語りたいのは、「時空を超えて愛する人に会いに行った」という“具体的行為”ではなく、「愛する気持ちは時空を越える」という“抽象的概念”だからだ。

 機械的な力などではなく、「この人に会いたい」という“愛の力”で時間を超越するからこそ本作はどこまでもロマンチックなのだ。

 

 個人的に感心したのが本作が要所でみせる演出の“タメ”だ。先述した写真を見るまでの一連のシーンもさることながら、本作は主人公がヒロインと邂逅を果たすシーンで、観客とリチャードに対してしっかりとした“タメ”を用意している。

 ホテルの外に出たリチャードはついにその視界にエリーズを捉えるが、観客が目にするのはガラスに映った後ろ姿の彼女だ。カットが変わり、リチャードの主観的ショット。ここでも彼女の姿は木々で見え隠れしている。音楽が盛り上がり、リチャードの目線が太い幹を過ぎた後、満を持して正面を向く彼女の姿がカメラに捉えられる。基礎的ではあるが、このような演出のタメが物語により強い感動を与えていく。

 

 他にも印象的なシーンはいくつかある。例えば中盤、エリーズが劇を通してリチャードに愛の告白をするシーン。現在と過去という二つの世界を跨ぎ会いに来たリチャードと同様に、彼女もまた虚構と現実という二つの世界を跨ぎ彼の愛に応える。

 またはエリーズの写真を撮影するシーン。リチャードが序盤で見た笑顔の理由が後になって明かされることで、彼女にとって彼が如何に大切な存在であるかがより強調される作りになっている(タイムトラベル映画の特性がうまく活かされたシーンだ)。またこのシーンが存在することで、序盤のリチャードがホテルで写真を見るシーンが、ヒロイン側もまた「過去から時間という壁を乗り越え、運命の人に会いに来た」シーンだったことになる。二人の行動が対をなすことで、その関係性がより特別なものになっている。

 

 時間という巨大な壁が乗り越えられた時、それはそのままこの愛の大きさの証拠となり、意図しない行動の数々は運命性を強める。無意識のうちに共鳴する行動は二人の絆を特別なものにし、演出のタメがエモーショナルをより掻き立てる。こうして本作は観客の心を捉えカルト化していく。

 

 映画の最後、客観的には悲劇に思える出来事が、当人の主観ではどこまでも幸福なものであったことが示される。映画は最後まで愛の力を証明し続ける。傑作。 

 

 

※本文中には書き切れなかったがクリストファー・プラマー演じるマネージャーのロビンソンも非常に素晴らしいキャラクターだった。ピグマリオン的な要素もある彼だが、父権的な態度でエリーズを縛り続ける彼の役割は、エリーズの自由意志を優先する若いリチャードと、世代間の価値観も含めた綺麗な対比になっている。

※ もちろん作られた時代がもたらす「今の感覚で観ると全然乗れないっすわ」と感じてしまうシーンもいくつか存在する。ただ、そのようなシーンへの批判は、その映画だけではなくそれを観ている現在の自分たちにも向けていくべきだ。

 

 

 

ヒックとドラゴン(2010)

 

ヒックとドラゴン

原題:How to Train Your Dragon

監督:ディーン・デュボア、クリス・サンダース

脚本:ディーン・デュボア、クリス・サンダース、ウィル・デイヴィス

出演:ジェイ・バルチェルジェラルド・バトラーアメリカ・フェレーラ

   クリスティン・ウィグ、ジョナ・ヒル、クレイグ・ファーガソン

 

 

 言わずと知れた傑作三部作の記念すべき一作目(正直作品ごとの出来不出来はあるが)。他者を知ることの重要性やマッチョイズムからの脱却など、大切なテーマを扱う本作は、計算された画面設計、優れた演出、脚本によって、「観客が考えずに楽しめる映画は作り手が考え抜いた映画である」という当たり前の事実を改めて強く意識させる(だからこそ「考えずに素直に純粋に楽しむべき」は芸術に対して若干不誠実な態度だと思う)。

 

 重たいテーマを子供向けのアニメーションとして軽やかに扱い、それでいて高い完成度を誇る本作の手つきは、同じドリームワークスの「クルードさんちのはじめての冒険(2013)」にも共通するものがある。本作を楽しめた人は是非「クルードさんちの〜」も見て欲しい(個人的には「クルードさんちの〜」の方が好み)。

 

 正直、2010年の作品のため、今の目で見ると少し引っかかってしまう描写も存在する。また、テーマに対してかなり詰めが甘いと感じてしまう部分もなくは無い(そのいくつか続編で補われてたりもするが)。それでも「自分らしく生きること」の大切さを力強く伝える本作が傑作であることには変わりない。

 

(以下、ネタバレ有り)

 

 最初に感じたのは“合理的で潔い映画”だということ。映画的な表現を積み重ね、アクションでストーリーを進行させる本作だが、シーンによっては効率性を優先し積極的に“説明的”であることを選択している。

 

 最も顕著なのが冒頭だ。「ドラゴンのいる世界に暮らす強いバイキングの父を持つ気弱な少年の物語」という何層にも設定が重なった世界観、そこでのドラゴン達の立ち位置や種類、各登場人物の特徴、さらにはテーマの核の部分を、本作は説明的なモノローグと説明的なセリフを使い、冒頭10分にも満たない時間で一気に説明してしまう(もちろんそこにアクションも付随してはいるが)。

 映画的な表現の積み重ねやそれによる重厚さよりも、ストーリー進行の速度と分かりやすさを優先したこの冒頭は、それこそイーストウッドシドニー・ルメットの映画などで見られる“巨匠がするめちゃくちゃ質の高い手抜き”に近い軽やかさを感じた(とりあえずここらへんはこれでい良いや感)。

 

 “合理的な潔さ”はドラゴンの造形にも現れている(そしてその潔さは“擬人化”や“ソフト化”という欺瞞的な戦略に対する一つの回答になっている)。

 

 現実の世界に存在しない異形や事象をもって、現実の世界に存在する諸問題を描く作品は無数に存在するが、そういった作品によくみられる手法が“擬人化”だ。確かに“擬人化”は寓話的な作品に“飲み込みやすさ”を付与する有効な手段だが(というかそれこそが寓話でもある)、この“擬人化”は「他者をこちら側の理論で勝手にこちら側に引き込む」という手法でもあり、で場合によってはかなり欺瞞的な見え方をしてしまう。

 もう一つのありがちな策が“ソフト化”だ。擬人化されていない剥き出しのドラゴンに対し、観客が“経験を基に共生をイメージする”ことは非常に難しい。「どれほどの危険性があるのか」「共生が可能なほど安全なのか」「そもそも共生うんぬんの問題ではなく、出来て共存なのではないか」、ドラゴンを何の策もなくドラゴンとして表現してしまうと、これらの不安や疑問は結末へ向かうにつれ大きくなっていってしまう。この問題はなるべく早期に解決しなければ、観客の物語への没入を著しく阻害してしまう(つまり、観客と主人公には他の登場人物達より先に、ドラゴンの安全性を共有させておく必要がある)。ドラゴンをソフト化、またはマスコット化することで、野生を“漂白”する。そして人に対する“脅威”や“攻撃性”を可能な限り削ぎ落とし、“安心して共生を許せる動物”に仕立て上げる。観客のドラゴンへの許容範囲は圧倒的に広がり、物語は劇的に飲み込みやすくなる。しかし、このような極度の“ソフト化”は“ぬるさ”として作品全体にも及んでしまう(そして擬人化同様に欺瞞性も含んでしまう)。 

 

「擬人化や極度のソフト化を避けつつ、ドラゴンとの共生を現実世界の諸問題とリンクさせていく」、本作は決して簡単では無いこの調整作業を、ドラゴンのモチーフに“人間が最も慣れ親しんだ動物達”を使用することで、シンプルに潔く解決する。トゥースはその挙動や目の形含めて明らかに猫がモチーフになっており、そのほかのドラゴンも猫もしくは犬が下敷きになっている。

 擬人化やソフト化抜きにはその寓意や“共生のイメージ”が難しいドラゴンを、観客にとって“説明不要なほど説明的”な動物達に置き換える。これによって本作は、観客が抱くドラゴンとの“共生のハードル”を下げ、確実な“共感”と物語への“没入”を勝ち取ることに成功している(それゆえの問題も起きてしまってはいるのだが)。

 

 必要とあらば、映画的であることより説明的であることを積極的に優先する、この潔く合理的な姿勢が本作の強みとなっている。

 

 もちろん本作は映画的にストーリーを前進させ、映画的にテーマを語ることにも注力している。

 

 ヒックがトゥースのいる巨大なと穴へ降りてからの一連のシーン。このシーンで作り手はコミュニケーションに対する彼らなりの考え方をアクションとして観客へ提示している。

 

 自身を守る盾と共に岩陰から穴の様子を伺っていたヒックは、さらなる前進を試みるも盾が岩の隙間に引っかかってしまう。身動きが取れなくなってしまった彼は、トゥースとの接触のため盾を手放すことを選択し、そしてついにトゥースと相対する。親愛の印に食べ物を差し出すヒックだが、依然として警戒を解かないトゥース。ヒックは慎重に懐のナイフを捨てることで“信頼への第一歩”を獲得する。

 ここで作り手は、身を守るはずの盾が時に他者を拒絶する道具になってしまい、護身用のナイフが他者への攻撃性を表現してしまうことを訴えている。目の前の相手の警戒心を解くには、まず自身が持つ警戒心を捨て、ありのままの姿で向き合う必要がある。

 映画は、その地形を利用しヒックに盾を手放すように仕向け、他者のリアクションを通してナイフを捨てさせる。身に纏う武器を捨て丸腰になったヒックは、アクションを通し身に纏う心の鎧も同様に脱ぎ捨てることで、初めてトゥースと向かい合うことを許される。

 

 ヒックの描く地面の絵に興味を示したトゥースはそれを真似る様に巨木で線を描き始める。見様見真似の線は縦横無尽に辺りを駆け巡り、それを見たヒックは驚きの表情を浮かべ、高揚感を表す音楽が流れ出す。そしてカメラが引き、その線がヒックを中心にして描れていたことが観客に示される。

 トゥースがヒックの行動をなぞることでお互いの距離が接近してきていることを表現したこのシーン、地面に描かれた線はトゥースなりの“他者に宛てた表現”であり、同時にヒックに対し張り巡らせた“警戒心の視覚化”でもある。

 触れることで壊れてしまわぬように、一つ一つ慎重に線を跨くヒックは全ての線を抜けたその先、ついにトゥースとの接触を果たす。他者の“表現”を踏み躙らずしっかりとした敬意を示す、その姿勢こそが張り巡らされた警戒の糸を潜り抜けることに繋がる。映画は、コミュニケーションにおいて何が重要かを地面に描かれた線とそれを跨ぐ足元のアクションで完璧に表現してみせる。

 

  または、ヒロインのアスティとヒックがトゥースの背に乗り大空を舞うシーン。

 

 ヒロインであるアスティにトゥースの存在を知られてしまったヒックは彼女をトゥースの背中に乗せ空を飛び回る。自分の知らなかった世界の表情を目撃し、直接手に触れることで新たな可能性に気付いたアスティは、徐々に警戒心を解いていく。

 この一連のシーン、映画はアスティの価値観が反転していくプロセスを、昼夜を跨ぎ、空の上下が反転する束の間のランデヴーでどこまでも映画的に表現する。

 無数に散りばめられたアクションという名の”視覚化された語り”が、テーマをより直感的に観客に伝えていく。

 

 非映画的な演出の連続で映画の“ルール”を説明し、疑問を持たせない事で観客の集中力を高める。そして映画的な演出の連続で集中力の高まっている観客へ映画の“テーマ”をより直感的に叩き込む。このような作り手の試行錯誤の末、観客が“何も考えずに楽しめる映画“が完成されていく。

 

 すこし余談になるが、個人的に“面白い”と感じたのが、この作劇方法とそれが持つ観客への作用が、偶然にも、劇中のヒックとトゥースが空を飛べるようになるまでのプロセスとシンクロしている点だ。もちろん娯楽映画にとって、このような作劇方法は特に珍しいものではない(本作のそれが特筆すべきレベルの高さというだけであって)。それでも、晴れ渡る大空の中、カンペという“説明”書をもとに飛び始めた彼らが、次第に(というかトラブルが原因で)“直感的”に空を舞い、最終的に“何も考えずに”空を飛び回ることを楽しんでみせる姿は、非常に面白い偶然だなと思った。

 

 ヒックとトゥースの間に信頼関係が生まれ出して以降、映画は急速に核心へと迫っていく。そこで作り手は“他者を理解すること”や男らしさからの脱却し“自分らしく生きること”が世界をより豊かなものにしていくと宣言する。

 

 ヒックはトゥースを通しドラゴンを理解することで、男らしさや暴力を伴うことなく、次々と訓練を攻略していく。ナイフを草に持ち替え、拒絶のための盾は誘導の道具となる。他者を理解するという行為は、最良の形で現実に作用していく。そんな中、男らしさよる解決を達成できなかった旧世代の男達が帰還する。ここでヒックは新たな試練と向き合うことになる。

 ドラゴンとの間に新たな可能性を見出したとしても、ヒック自身はバイキングの長を父に持ち、その価値観にどっぷりと浸かっていた人間の一人だ。そして彼の属する社会にとって、ドラゴンは依然として“ペスト”でしかない(この冒頭で使われる“ペスト”という表現はラストの“ペット”と対になっている)。ヒックは帰還した“強い”父親と向き合うことで、教え込まれていた“価値観”と新たな可能性の間で揺らぎ始めるが、言い換えればそれは、家族や友人、大切な人たちが存在するこの世界に疑問を持つということだ。ヒックは自分たちが信じていたこれまでの世界を否定し、これからの世界の可能性を皆に証明するという試練に立ち向かっていく。

 

 新たな可能性の証明のためにヒックが選んだ舞台が、“立派なバイキング”として認めてもらうための最終試験だ(この辺も非常に皮肉が効いている)。トゥースと出会った時と同じように、武器を捨て丸腰であることを選ぶヒック。しかし、ドラゴンの特性を知らない父親の想定外の行動により、ヒックの試みは失敗してしまう(このシーン、新世代の代表者と、旧世代の代表者、その間にドラゴンがいる構図が取られており、この映画のテーマの一部が視覚的に表出したシーンになっている)。

 新たな可能性の証明に失敗したヒックは、トゥースを失い絶望的な状況に陥る。そんな彼を奮い立たせたのは新世代の仲間達だ。正念場での失敗により、世界を変えることを諦めようとするヒックだが、仲間達はこれまでの訓練の日々によってその可能性に気付いていたのだ。映画は小さな積み重ねの連続が、大きな変化を生むことを、日々の行動の中にも革命の種が宿っていることを力強く訴えかける。

 

 立ち上がったヒックは、再び新たな可能性の証明を目指す。災害級の超巨大ドラゴンに絶望する旧世代と、あたり一面に広がる灰色の世界。そこに遭わられる多種多様な色を持つドラゴンとそれに乗る新世代(非常に象徴的な色使いだ)。ヒックと仲間達はそれぞれの“特性”を活かし、それぞれの「自分らしさ」を武器にして革命のための戦いを繰り広げていく。

 「他者を理解すること」そして男らしさを捨て「自分らしさを大切にすること」、新しい価値観の“到来”がアクションとして視覚化されたこのシーン、ここで重要なのは、ヒックが“仲間と共に”現れ、そしてそれを旧世代がしっかりと目撃したことだ。世界をより良くするのに必要なのは一人の英雄の力ではなく皆の力だ。その事が如何に大切かを本作はしっかりと伝えている。 

 海に沈みゆくトゥースを助けようともがくヒック。力尽きかけたその時、彼らを助けたのは旧世代の代表者たる父親だ。父親は自身が縛られていた古い時代の鎖を、文字通り“引きちぎる”ことで新しい時代に応える(この辺も非常に上手い演出だと思った)。ヒックとトゥースは遂に世界の新たな可能性の証明に成功する。

 

  以上のように非常に優れた作品であることに間違いない本作だが、気になる部分がないわけではなかった。

 

 個人的に思ったのが「この寓話は我々の世界のどの範囲にまで当てはめることが可能なのか」または「どの範囲の問題に訴えかけているのか」ということだ。

 自分が読み間違えていなければ、本作のテーマの一つは「他者と共に生きること」だ。何度も言及しているが、本作の主張する「他者を理解すること」や「男らしさを抜け出し自分らしさを大切にすること」は非常に大切なことであり、作り手はそれらの主張をしっかりと作品に落とし込んだ上で、本作を非常に完成度の高いものにしている。しかし、この「他者と共に生きる」の部分に関しては、中々納得しにくい結論に落ち着いたのも確かだ。

 

 ドラゴンと人間の共生を実現させた本作だが、肝心の彼らの関係性には“主従関係”が成立してしまっている(これはナレーションで「ペット」という言葉が使われていることからも明らかだ)。そのため、この映画の主張と劇中の出来事を、現実の人間社会やその諸問題に置き換えた場合、本作の主張が主君をすげ替えただけの“暴力を伴わない植民地主義”であることを否定できない(はっきり言えば“丁寧な理論武装だけは怠らない”過去の傲慢なオリエンタリスト達が喜びそうなバランスの映画だなとすら思えた)。

 また、ヒック達がドラゴンの存在を認めたのは“安全”であると証明されたからだが、これは言い換えれば“安全でなければ殺しても良い”と言うことになってしまう。そもそも、他者の存在は“認める”ものではない。認めようが認めまいが厳然とそこに存在し、理解できることを前提にその存在の是非を問う権利は誰にもない。例え相互理解が成立しなかったとしても、互いに他者を侵害しないことこそが本当の意味での「他者と共に生きること」のはずだ。本作のこの「他者と共に生きること」というテーマに対する結論は、戦争を止めることができない植民地主義者達の主張の範囲を超えていくことは出来ていない。

 もちろん、このような疑問は本作を“現実にある人間社会の問題に置き換えた場合”の話だ。本作の狙いがそこにはなく、原題の「How to Train your Dragon」が示すように、ただの“ペットの取り扱い説明書”の範疇で「他者を理解しましょう」「暴力じゃなく知恵で工夫していきましょう」と主張している可能性もなくはないし、それならそれでも良い。ただそうなってしまうと、この寓話が持つメッセージの射程範囲は狭まってしまうし、なにより「ペットとの関係のみが有効範囲で人間に置き換える事ができない“他者との共生”というメッセージ」は一体誰に宛てた何なのかと若干困惑してしまう。やはりこの部分に関しては少し詰めが甘かったのではないかと感じてしまう。

 もちろん本作は前提として子供向けのアニメーションだ。また、映画とは多面的であり、この疑問も本作の一側面に対して感じたものに過ぎない。なにより本作はそれ以上に沢山の大切なことを万人にわかりやすく伝えている。おそらくこのような疑問が生まれてしまったのは、子供向けといって対象を限定するには勿体無いほどの完成度を本作が持っているからかも知れない。

 

 少しめんどくさい事も書いてしまったが、本作が素晴らしい作品であることには変わりない。本作が提示するメッセージの数々は確実に世界をより良くし、観客一人ひとりに生きやすさとその勇気を与えてくしてくれるはずだ。空と海を飛び回り自由を楽しむ二人の表情と圧倒的な疾走感は涙が出るほどに感動してしまった。傑作。

 

 

※本文には書ききれなかったが、トゥースの尾とヒックの足という欠損した身体を合わせ鏡にして、それによって発生する不都合を互いが協力して乗り越えるという演出はわかりやすくもの良い演出だと思った。また、義手のゲップとの交流も含めて、本作は欠点とされていた事を持って壁を乗り越えるという演出がなされており、その部分は「ダンボ」の影響なども感じた。

※ヒックが自分にバイキングの適性がないと自覚するのが、数々の失敗や自身の腕力ではなく「ドラゴンを殺せない」ことに関してなのは、テーマに対して非常に筋の通ったものだと思った。

※本作のヒロインであるアスティはもう少し掘り下げがあってもよかった気がする。知性と強い力、そして勇気を持ち合わせ同年代の先頭に立つ彼女は、一見して“新しい時代の女性”のような見え方もするが、結局のところヒックを勇気づけ彼の主体性を補強する役割に終始している(少なくとも本作での彼女は能動的であるように見せかけいるだけで、実はまともな主体性を有してはいない、もしくは物語が進むにつれ徐々にその主体性を剥ぎ取られていく)。最終的にヒックの後ろを歩くことになる彼女の演出は「フェミニズム的な部分を反映したキャラだと思っていたら単に監督が強い女が好きってだけだったっぽい」というキャメロンが描いてきた女性キャラの変遷に似た肩透かし感を感じた。個人的にアスティとヒックは恋人ではなくライバル関係に落ち着く方がよかった気がする。

トゥースの英語で名前はトゥースレスであり、これは「そうだと思っていた他者の二面性が見えた」からこそ生まれた名前だ。テーマと一致していた名前を「見たまんま」のものに変えるのはあまり良い訳だとは思えなかった。 

 

 

 

ザ・ウーマン 飼育された女(2011)

ザ・ウーマン 飼育された女』

原題:The Woman

監督:ラッキー・マッキー

脚本:ジャック・ケッチャムラッキー・マッキー

出演:ポリアナ・マッキントッシュ、ショーン・ブリジャース、アンジェラ・ベティス

     ローレン・アシュリー・カーター、ザック・ランド、カーリー・ベイカ

 

 ある日、趣味のハンティングから帰った弁護士の男(ショーン・ブリジャーズ)が獲物として連れて帰ってきたのは野生化した人間の女(ポリアナ・マッキントッシュ)だった。突然の出来事に困惑する家族。しかし、そんな家族を尻目に、男は捕らえた女を地下室に監禁し、「飼育する」と宣言する。

 

 共同脚本には言わずと知れた暴力小説の巨匠ジャック・ケッチャム。片田舎に佇む一軒家。そこで暮らす仲睦まじい夫婦と“2人”の子供たち。目の前に広がる緑豊かで大きな庭(そして地下室)。側から見れば何の問題もない「幸せな普通の家庭」。そこで繰り広げられる凄惨な暴力の連続。

 本作は限定された空間で物語が展開していく、所謂「箱庭映画」と言われるものだ。上映時間の大半を占める“広い庭と地下室”のある一軒家。その小さな宇宙の中で監督のラッキー・マッキーが描こうとしているのは植民地主義と男性原理主義で成り立つこの世界そのものだ。

 

 本作はフェミニズム的な要素を多分に含む映画だ。特に終盤、個人的にフェミニズムを扱う映画で度々感じていた言語化しにくい違和感、そこに対して割と納得のいく描き方がされており、本作を鑑賞したことで“自分が何に違和感を感じていたのか”が少し明瞭になった気がした。

 

 ただ、少し注意が必要な映画であるとも思った。考慮しなければいけないのが、監督であるマッキー自身の「セクシャリティ」と、それが持つテーマに対しての「立ち位置」だ(つまり「位置性(ポジショナリティ)」を踏まえて鑑賞する必要がある)。特に、劇中に登場する2人の女性の顛末とその描き方。果たして、「男」である彼がこのテーマを扱いながら、彼女たちの結末を“あの”演出方法で描くことが本当に「可能」だったのだろうか(もちろん可能ではあるのだが、そう言う文字通りの意味ではなく)。

 

 重たいテーマを軸に、複雑で印象的なショットが連続する本作は非常に意欲的な作品だが、画面内で起こる出来事だけでなく、その外側にある要素も含め考えるべき映画だとも思った(てゆーか社会的な営みの中で生まれる全ての芸術が「位置性」からは逃れられないのだが)。

 

 本作は続編に当たる。そのため、冒頭が前作からの続きのような作りになっている。が、その部分が無かったとしても、映画として特に問題はないので気にしないで良いと思う。

 

(以下、ネタバレ有り)

 

 序盤のホームパーティーの場面。広い芝生の庭と大きなプール、ハンバーガーとビール、はしゃぐ水着の男女。明らかに意図された「アメリカ的」な光景の中で、執拗に描写される「男達」の小さな小さな(と、本人達は思っている)暴力と圧力。

 青年はプールサイドの女の子を口説こうとし、失敗に終わればその相手に罵声を浴びせる。少年たちは少女を羽交締めにし、弁護士の男は助けを必要とする女性に支配的な態度をとる。日常の中に、目には見えない空気としての“マッチョイズム”を漂わせたこの冒頭は、夢が叶う自由の国としての側面と、あまりに暴力的な負の歴史の側面(そしてそれは現在進行形なわけだが)を併せ持つ超大国アメリカそのものを表現しているようでもある。

 

 本作は非常に緊張感の漂う映画だが、その理由の一つに要所要所で挿入される長回しの演出が挙げられる。もちろんこのような作品は無数に存在するが、本作のそれは少し特徴的で、長回しの中で起承転結があり、シーン自体が完結している。そして、さらにはそれがテーマと密接に結びついている(もちろんそういう映画も無数にあるが)。

 

 例えば、序盤の母親(アンジェラ・ベティス)が階段を降りるシーン。

 

 窓の外にある暴力の予感に不安を覚えた母親は、眠ることができず、逃げるように階段を下り、リビングへ向かう。電気をつける母親。するとその暗闇から椅子に一人佇む長女(ローレン・アシュリー・カーター)の姿が現れる。「眠れない」と呟く長女に対し、明日の学校に備えるように言う母親。椅子を離れリビングの電気を消す長女と、その椅子に座り暗闇に消える母親。

 暴力の予感を直視してしまう場所を離れ、暗闇に消える眠れない母親。そんな暗闇で息を潜め、暴力の予感を感じてしまう場所へ戻っていく眠れない娘。親子で反復されるこのシーンはまさに、家父長制、マッチョイズムという名の「暴力」が女性達を“世代を超えて”苦しめ続けており、それが支配する世界は逃げ場所でさえ暗闇でしかない事を見事に表現している。

 

 または、母親が「飼育」に対して恐怖に震えながらも、小さく異議を唱えるシーン。

 

 大きな化粧台の鏡が印象的なこのシーン。小さな抵抗も虚しく、強烈な張り手を喰らい、ベッドに戻っていく母親は画面上を横切りフレームアウトする。ここでカメラは彼女を追いかけるのではなく、鏡に映る彼女にフォーカスを合わせることで、彼女の動線が画面上では奥へと遠のいていくような、つまり“あちら側”へと行ってしまうような見せ方をしている。

 鏡を利用し、「こちら側」と「あちら側」の世界を作り、その上で母親を「あちら側」へ追いやるこの演出は、暴力から身を守るため「あちら側」につくしか無かった、もしくは「こちら側」に留まることが出来なかった多くの女性達の現実にあった苦渋に満ちた日々、その経験と歴史を視覚的に表しているようでもある。

 

 先述した通り、本作は「家」という空間使って、男性原理主義的な価値観が支配するこの世界を描いている。そしてそれがどのように再生産されていくのかという部分にも鋭い視点を向ける。

 

 実質的な主役である弁護士の父親は、家族や知人に対し常に支配的な態度を取り続けるマッチョイズムの権化だ。他者を自身の基準で一方的に野生と評価し、自身の基準での“文明化”を試みる。そして、それを正当化し、抵抗には銃を突きつける(映画で銃が象徴するものとは何か)。ひたすら“成功”と“勝つこと”に執着する彼のあり方は、圧倒的な暴力で国内外への実質的な植民地主義を正当化し、それに成功し続けたアメリカの負の歴史そのものだ。そして彼の執念は教育という形で子供に強い影響を及ぼす。その結果、息子(ザック・ランド)は当然のように“男らしさ”に取り憑かれることになる(この子が取る行動は「男が女に負けることは許されない」という歪んだ教育を受けてしまった結果だ)。

 

 父親周りの演出について、基礎的ではあるものの感心したのが、彼に対して小さくもしっかりとした“意見の対立”と“共同作業”の場を用意したことだ。この二つは“他者に対する反応”が必須になるため登場人物の特徴を説明的なセリフではなくアクションとして画面上に表すことができる。

 彼は事業の拡大とその危険性を“女性”秘書から意見されるが、食い気味にそれを一蹴する。また、捕まえた“獲物”を“飼育”する際、家族からの同意を得るという工程を省略する。タバコの一件に関しても同じようなことが言える。用意された巻きタバコを相手の同意を待たず、食い気味に奪い取る。まさに他者を見下しているからこそ取れる行動だ。そして、この“同意の省略”は自身の娘へと、最低最悪の形で向けられることになる(おそらくパートナーとの間にも起こっていた出来事のはずだ)。

 傲慢な態度と醜悪で歪んだ価値観を持つ人物。それをあからさまに用意された説明セリフではなく、自身への意見を許さず、同意を得るプロセスを一切省略するという“アクション”に落とし込み表現することで、より実在感と説得力のある人物を作ることに成功している。

 

 個人的に思ったのは、劇中に“彼の支配力が及ばない強い人間”を男女それぞれ登場させても良かったのではないかということ(無い物ねだりなのかもしれないが)。自分よりも強い人間に対して彼がどのような態度を取るのか、そしてそれが相手の性別の違いでどのような変化をみせるのか、その部分を描ければテーマに対し、より解像度の高い人物造形が出来たのではないかとも思う。

 

 先述した、フェミニズムを扱う映画として納得がいく描写がされていたという部分について、これは個人的に感じていたことのため的外れな意見なのかもしれないが、女性の社会進出を描く映画の一部には、結果的に女性の主体性を奪っている、もしくは無意識に女性を見下している映画が多数存在する気がしている。はっきり言うと「男に都合のいいフェミニズムだな」という感想と「誰のためのフェミニズムなのか」という疑問が湧き出る映画が少なくない気がしている。

 直近の例で言えば「ドリーム(原題:Hidden Figures)」が挙げられる。確かに「ドリーム」は優れた映画だ。NASAで実際にあった男尊女卑の歴史とそれに抵抗し戦った女性たちの歴史、それらをアクションを通して映画的に表現しており、鑑賞した人に勇気を与える素晴らしい映画だと思う。しかし、特に終盤、どうしても引っかかってしまう描き方がある。

 発射直前、計算の不具合を修正した主人公のキャサリンは、それを管制室まで報告しに行く。しかし管制室は男性の聖域だ。報告を終えた彼女は、室内へ入ることなく、踵を返し“自分たちがいるべき場所”へと帰ろうとする。その時、計算を依頼した男性上司が彼女を呼び止め、これから起こる出来事の一部始終を見届けるよう管制室に彼女を招き入れる。

 一見して感動的に見えるこのシーン、ここに至るまで様々な苦渋を味わった女性の才能と努力が実を結んだこの瞬間を、作り手はあたかも「これまでの出来事の“何か”が少しでも清算されるような素敵なシーン」として描いている。しかしそんなことは絶対にない。当たり前だが世界はこの出来事の後も男性を中心に回り続けている(そして、その恩恵を自分自身もしっかりと受けているわけだが)。それを踏まえると、このシーンから始まるラストに至るまでのトーンは中々に呑気に思えてしまう。

 さらに、このシーンはその演出によって、結果的に「理解力のある“男性”が、女性たちの社会進出への扉を開いた」という表現しかできていない。差別の苦しみも、それと戦うことを選んだ彼女たちの主体性も、最終的には“男の度量と理解力”という超曖昧な“何か”に回収されてしまう(誤解がないように言うが、本作が差別的だと言いたいわけではない、ただ、その描き方にあらゆる意味で自覚が足りない気がするということ)。

 

 「ザ・ウーマン」はこの一連の構造的な問題を見事に回避している。

 

 終盤、歯止めが効かなくなった暴力のエスカレーションの末、飼育されていた“女”がついに解放される。本作はこの一連の出来事の主体を決してすり替えたりはしない。本作で鎖に繋がれていた女性を助け、解き放つのは、同じように支配され、繋がれていた女性だ。そして解き放たれた強い意志は、自由を勝ち取るため、自らの手で扉をこじ開け、決してその主体を譲ることなく、自らの手でそれを手にして見せる。

 確かに本作は「ドリーム」にくらべ未熟な映画だ(実際「ドリーム」は本当によく出来ている)。ひたすら暴力的な描写が連続するという意味で行儀が良い映画でもない。それでもこの演出違いが、この問題を取り扱う上で、この作品に「ドリーム」とは決定的に異なる強度をもたらしているのは確かだ。

 

 以上のように、非常に意欲的で良く考えられた本作だが、飲み込みにくいシーンや演出も見られる。それは先述した“フェミニズムを扱う上で納得がいった”ことと裏表の問題意識なるのだが、鑑賞後、どうしても「女性教師(カーリー・ベイカー)と母親の結末をあのような描き方で、男性監督が描くことに何の疑問を持たなくてもいいのか」と思わずにはいられなかった。

 

 本作の母親は、男性が支配するこの世界に恐怖や疑問を強く持ちながらも最終的には従い、“生存”に注力し、“抵抗”をその先の世代に託すしかなかった、言ってみれば“間の世代”だ。ギリギリところで自己防衛を優先し、この差別的な世界を内面化するしかなかった彼女を、加害者と同じ、もしくは弱い人間として切り捨てるのは簡単だが、それでも彼女の“生存”がなければその先の“抵抗”は生まれはいない。実際、彼女はそのラインを意識しながら(つまり男の神経を逆撫でしないように細心の注意を払いながら)、それでも必死に、限界の限り娘達を守ろうとしていた(そしてそれは叶わなかったわけだが)。にもかかわらず、彼女はまるで“部外者”のように、“向こう側”の存在であるかのように、悲惨な最後を迎えてしまう(そして、それを描くのは男性の映画監督だ)。

 

 女性の教師にも同じようなことが言える(そもそもこの教師の描き方には作り手の差別意識と無理解、そして勉強不足が如実に現れてるのだが、特に初登場時に足元からのパンアップを選んだのは最低の選択だと思う)。

 生徒を助けるためにとった選択の全てが間違っていた彼女は、母親と同様に惨すぎる最後を迎える。このシーン、主観の手持ちカメラが地を這う演出がなされているが、それが何を想起させることを目的に選ばれたかは一目瞭然だ(そしてこの部分の是非も問うべきだし、自分はハッキリ言って完全に無しで最低最悪だと思う)。マイノリティである彼女もまた、この連帯から振るい落とされてしまう(そして、それを描くのは男性の映画監督だ)。

 

 なぜ彼女達は映画から断罪されることになったのか。何故、鎖を引きちぎり、扉をこじ開けるこの物語の連帯に(そして抵抗に)に、加わることが許されなかったのか。

 

 ここで問題になる(と自分が感じている)のは、“断罪”も“許し”も、その裁量も持つのが、この世界の差別構造の恩恵を受け続けている“男”の作り手であり、そのことに彼らが無自覚であるということだ。

 

  何度も言うが、誰が何をどのように表現しようがそれは作り手の自由だ。しかし、その“どのように”の部分について、作り手の“手つき”や“属する場所”によって、表現したものが作り手の意図と違う文脈や意味を持ってしまうのも紛れも無い事実だ(そしてそれは批評されるべきだし、作り手はそれを自覚するべきだ)。

 彼女達の痛みを扱いつつ、それでいて彼女達にこの連帯に加わることを許さなかった人間が、現実で彼女達のような人たちを苦しめている特権的な集団に属しているという紛れも無いは事実は、「差別を受けた経験を表像する術を持たない女性達の苦しみとその歴史を、それらを表像する手段を持つ特権的な立場の男達が、自身の芸術に落とし込み、名声を得る」と言い換えることが可能だ。そしてこれはどう言い訳しようと搾取でしかない。

 

 位置性を基にした批評に対して、「女性以外は女性の差別をテーマに取り上げることが出来ないのか」「当事者以外は表現する事を許されないのか」という反論が時折見られるが、そういうことが言いたいわけではない。そもそもこれは男女の間にだけ発生する問題ではない。この世界にはありとあらゆる権力勾配が存在する。ある集団と比べると弱い立場だった者が、他の集団からすれば特権的立場になることなどいくらでも起こる事象だ。重要なのは、取り扱う問題に対して、自分がどの立場に属しているかをしっかりと認識することだ。たとえ同じ方向を向いて、同じ問題に立ち向かおうとも、共闘しようとも、自分が行なっている芸術の試みが搾取であることからは逃れられない、そのことに自覚し、向き合った上で映画を作る必要が絶対にある(だからこそ自分は非常に曖昧で、問題の本質をぼやかしてしまう「当事者キャスティング」という言葉が好きになれない)。

 そこを考え抜くことができなかった映画は当然、その部分に対し強い批判を受けてしまうし、それは仕方のないことだ。他者の経験を利用し、名声と称賛を得ること、そのことに無自覚であることは、岡真里の著書を引用するなら、「記憶を横領する」ということだ(岡の著書を自分が本当の意味で理解できているとは思わないが)。作り手は常にそのことに意識を向けるべきだ。そしてこの「ザ・ウーマン」の作り手は、自身が行うその横領に関して無自覚で無神経だと言わざるを得ない(と言っている自分も特権的な立場にいる人間なのを自覚する必要がある)。

 

 色々と文句めいた事を書き連ねてしまったが、本作は意欲的で優れた作品だと思う。納得出来た部分も、納得できない部分も含めて個人的には好きな作品だ。傑作。 

 

 

※音楽の使い方は「ふつーにダサいな」と思ってしまった(完全に好みの問題)。

※「横領」と言う部分について、近年でいえば「最後の決闘裁判」なども割と無自覚な映画だと思ってしまうが、「ドリーム」のトイレのシーンが実はフィクションとして付け加えられたという件がまさに表像する側の特権性への無自覚さを表していると思う。また、日本で言えば、ゲイの役を演じ賞賛を得た俳優が「男に戻る」という発言をしたのもその延長線上にあるものだと思う。

※本文中には書ききれなかったが、本作はその顛末も含めて「母性神話」のようなものが見え隠れする。その部分も若干居心地わりーなと思ってしまった。

※役者さん達はとにかく全員素晴らしかった。