ファントム・スレッド(2017)

『ファントム・スレッド』

原題:Phantom Thread

監督:ポール・トーマス・アンダーソン

脚本:ポール・トーマス・アンダーソン

出演:ダニエル・デイ=ルイス、ヴィッキー・クリープス、レスリー・マンヴィル

音楽:ジョニー・グリーンウッド

衣装:マーク・ブリッジス

 

 1950年代ロンドン。上流階級御用達のオートクチュールサロンでデザイナーをするレイノルズは、休養で訪れた田舎のレストランでアルマという女性に出会う。アルマを恋人としてロンドンの邸宅に迎えたレイノルズは、彼女を新たなミューズとして支配下に置こうとするが、二人の関係は思わぬ方向に進んでいく。

  

 巨匠ポール・トーマス・アンダーソン(以下、PTA)による、傑作メロドラマ。美しいドレスと呼応するように、美しい映像で切り取られた本作は、ひたすらに「優雅」で「繊細」だと言える。また、本作は「力強い」映画でもある。基礎的で堅実な演出を積み重ね、人間の業を見つめる本作には美しさだけでは表せな強さが宿っている。

 ただし、それと同時に感じるのが、決して「洗練」されてはいないという事だ。本作は「優雅」で「繊細」であるが「洗練」とは形容することは出来ない。なぜ、本作には「洗練」が欠けているのか。なぜPTAの作品からそれを感じることが出来ないのか。そういった部分も言語化できればと思う。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 撮影、衣装、美術、音楽、作品を構成する全ての要素が美しく優雅な本作だが、その完成度を支えているのは、派手な優雅さの外側にある基礎的で手堅い「小さな演出」の積み重ねだ(そういう意味では泥臭い映画だと言える)。本作の些細な演出の連続は、その人物に奥行きを与え、同時にその人以外にも影響していく(個人にあてられた演出が“他者”を語る仕掛けになっている)。

 

 例えばこんなシーンがある。

 

 序盤、夕食に誘われたアルマはレイノルズのエスコートにより車内へと招待される。ここで作り手は彼女に対し「到着した車に即座に手を伸ばす」という演出をつける。この些細なアクションにより、彼女が「エスコートの文化圏で育たなかった」ことが、そして二人の恋人の間に文化的な隔たりがあることが鮮やかに示される(この隔たりは本作の重要な要素だ)。

 

 または、伯爵夫人のドレスをめぐる一連のシーン。

 

 夫人の試着の途中、終始落ち着かないレイノルズに対し、椅子に腰掛け微動だにしない姉のシリル。職人として「過程」よりも「結果」にこだわる必要がある完璧主義者の弟と、裏方として現実的な「過程」の連続に意味を見出し、瞬間的な「結果」に執着しない合理主義者の姉。サロンにおける二人の役割がさりげなく示される(このサロンがどのように息を続けてきたのかが透けて見える演出になっている)。

 

 その後、夫人のドレスをお披露目する社交会のシーン。画面中央、“一人”ドレスの行末を見届けるシリルのショットは、そのままレイノルズの“不在”を表現する。「自身のコントロール下を離れた結果」を直視することが出来ないレイノルズの「弱さ」が、「その時々で表情を変えていく結果」を受け入れているシリルの「強さ」によって語られていく(シリルにつけられた演出がレイノルズの不在の“意味”とその先にある彼の内面を見事に語っている)。

 

 繊細な演出の積み重ねは、物語にも確かな奥行きと説得力を与えていく。

 

 本作はアルマがレイノルズを乗りこなすまでの道のりを描いた物語であり、同時にレイノルズがアルマを手懐けられないと認めるまでの物語だと言える。特殊な二人の関係とその分岐点は「秋のキノコ祭り」を中心に語られがちだが、あくまでそれは最後の一押しの「イベント」に過ぎない。二人の関係を形作るに至った「理由」は映画序盤から続く小さな演出の連続でゆっくりと語られている。

 

 レイノルズが女性に対して求めるものはどこまでも幼児的で歪だ。彼は「知性と教養を持ち、自身の作る芸術に見合う美女」こそが自分に相応しいと考えている。そしてそこには「自身の脅威にならない程度の」という必要不可欠な注釈がつく。にも関わらず「自分の不安を取り去り、叱り、甘えさせてくれる母性的で強い女性」へ強く惹かれてしまってもいる。そして彼は、自身の中にそのような欲求があることを認められないでもいる。そこにアルマが現れる。

 

 初めてレイノルズがアルマの体を採寸するシーン。レイノルズはアルマに対して「普通に立て」と要求する。「立ってます」と答えるアルマ。そこで彼は「真っ直ぐ」と言い直す。すかさず「最初からそう言って」と言い返すアルマ。彼女は“他者への甘えからくるレイノルズの曖昧さ”を強く拒否する。

 

 序盤、試着するドレスの生地が気に入らないと告げるアルマ。作品への批判が許せないレイノルズはすかさず反論する。しかし彼女は怯まない。小さな言い争いの後、アルマは「面倒は歓迎よ」と不的に笑う(ちなみに、ここで反論するのにいちいち他人の名前を出すあたりもレイノルズの性格が現れているよね)。

 

 アルマの芯の強さはレイノルズにも影響を及ぼし始める。

 

 得意先の結婚式に“行くしかなくなった”レイノルズは、そこで雑に扱われる自身の作品を目撃する。不快感を抑え、耐え難い状況を必死で乗り切ろうとするレイノルズ。しかし、アルマがそれを許さない。彼女は強い怒りを態度で示し、レイノルズに対しても「あなたの作品を守るべきだ」と訴えかける。帰り道、取り返したドレスと共にアルマにキスをし、感謝を述べるレイノルズ。二人の力関係は少しづつ変化していく。

 

 その他、運転を代ろうと提案するシーンしかり、その後の看病しかり、紅茶の言い合いしかり、アルマの強さはレイノルズ心の中にある“喪失”を、知らず知らずのうちに満たしていく。

 

 そもそも、アルマは初めから一貫している。美しい丘の上で「長いこと君を探していた気がする」と告げるレイノルズ。彼の甘い言葉に対しても冷静さを失わないアルマは「なら全てを慎重に進めて」と忠告する。レイノルズが飼い慣らすことができなかった彼女の強さは、キノコの毒では語ることはできない。彼女の強さは序盤から積み重ねられた演出によって淡々と画面上に現れていく(だからこそ二人の関係には強い説得力がある)。そしてレイノルズは、その強さに不可抗力的に飲み込まれていく。

 

 そんな彼女の強さを早い段階から見抜いていた人物がいる。それがレイノルズの姉シリルだ。

 

 シリルは知的かつ寡黙であり、強さと気品、確かな暖かさと合理性を携えている(正直、男でも彼女に憧れるよね)。彼女はアルマの強さをいち早く見抜き、さらには弟レイノルズがひた隠す甘ったれた欲求にも気づいている。彼女は冷静に二人の関係性を観察する。そして戦略的なアプローチで二人の力関係に確かな影響力を及ぼしていく(本作はアルマとレイノルズの物語だが、シリルの視点こそが非常に重要になってくる)。

 

 初対面の時から、シリルは常にアルマに鋭い視線を向けている。彼女の香りを確かめ、体つきを書き留め、意見に耳を傾け、感情の表出を観察する。そして彼女は確信する。「この娘なら弟と対等に渡り合える」と。確信を得た瞬間から、シリルの行動はその意味を大きく変えていく。これまでアルマの振る舞いにブレーキをかけてきた彼女は、今度は逆に、アルマに「主導権を握るための自由」を与え始める。

 

 中盤、朝食のシーン。音を立てずに食事するアルマを見つめ、優しく微笑みかけるシリル。自身の予感が確信に変わったと感じたシリルは、ついに聖域に揺さぶりをかけはじめる(結婚式行けよ?)。これまで弟のルーティンを守り、その絶対性をアルマに説いてきたシリルが、自らその不文律を破りにいく。明らかに動揺するレイノルズは強い口調で異を唱えるが、シリルはそれを全く意に介さない。意思決定はあくまであなたの中にあるとし、いとも簡単に弟を議論の外側へと追い出してしまう。

 

 なぜ、彼女はわざわざこの場で奇襲を仕掛けたのか。それはアルマに「どう振る舞うべきか」の手本を見せるためだ。不自由に見える世界の中で、どのように自由を見出していくのか、そのためには何が必要なのか。シリルによる「自由」の実演は、アルマに確かな手掛かりを与えていく。

 

 その後、アルマからサプライズの計画を相談されるシーン。ここでも彼女はアルマに自由を与える。弟の取扱説明書を丁寧に読み聞かせ、当然の結末を見越した上で、それでも彼女の意思を尊重する。

 

 シリルは自身が取るべき行動を完遂する。悲惨なサプライズの後日。二人きりの朝食の席。彼女は最後の奇襲を弟に仕掛ける。「好きにしたらいい。ただし、その尊厳だけは絶対に踏み躙るな」と(このシーンはマジ最高)。

 

 何度も言うが、本作はアルマとレイノルズ二人の物語だ。最終的には、シリルの予想を遥かに超えたアルマの強さが、レイノルズの幼児性を包み込むことで完結する。それでも、シリルの存在がなければ、その結末は違ったものになっていたはずだ。シリルが散りばめ続けたレイノルズを手中に収めるためのヒントが、アルマを目的の場所へと導いていく。

 

 小さな演出の積み重ねで地固めを続けた本作。喜怒哀楽がぶつかり合う二人の物語は、ついに決定的なシーンに辿り着く。そして作り手は、この最も大切に扱うべきシーンを究極的に映画的な表現で描き出す(ここは非常に素晴らしいシーンになっている)。

 

 母親の幻影を塗り替えるアルマを見つめ眠りについたレイノルズは、青白い光の中で眼を覚ます。アトリエへ降りる彼は、ソファで力尽きているアルマを見つける。ローアングルの構図。画面左に配置されるドレス、右のレイノルズ、そしてやや中央で眠るアルマ。レイノルズがアルマへと語りかける。彼女へ宛てられた言葉と共に、ゆっくりと前進を開始するカメラ。その視線は二人へと集中し、ついにはドレスを世界の外側へと追い出してしまう(文字通り追い出してしまう)。

 

 これまでレイノルズの人生の中心には常にドレスがあった(一つ前のショットの中心にあったのは何か)。その中心がアルマにとって代わる瞬間を、作り手はどこまでも映画的に表現してみせる。

 

 以上のように、小さな演出の積み重ねと確かな映画的表現が、本作を力強い作品にしている(レイノルズにあてられた演出についてはまあいいや)。

 

 全ての要素が高い水準を誇る本作だが、気になる部分もなくはない(というか正直かなり気になっている)。そしてそれはPTA作品の特徴(または彼の手癖)と関係している(なので、彼の作品を無条件で喜ぶ人には難癖のように感じるかもしれない)。

 

 先述した、PTA作品に「洗練」を感じない理由について、端的に言って、PTA作品は「引き算」が極端に少ない。彼は包み隠さず全てを画面上に広げてしまう。美しく撮られたそれらは、作品に欠かすことができない美しい要素のようにも思える。しかし、映画には省略話法というものが存在する。

 

 例えば、とあるビルでの会議の予定が登場人物によって語られたとする。次のショットでビルが映れば、それこそが目的のビルになりうる。さらに、そのビルの前で車を停車させ、次のショットで会議室が映り、登場人物がそこで議論を交わせば、そのシーンは事前に語られた会議を意味することが出来る。しかし、厳密にはこの会議室が目的のビルだという証拠は何もない(なぜならカットを割り、その隙間にあったはずのアクションを省いているからだ)。それどころか登場人物がこのビルに入ったという証拠も存在しない(当然カットを割っているからだ)。確かなのは登場人物が会議を行ったという事実だけだ。それでも、観客はその場所が目的のビルであり、目的の会議室だと認識する。なぜなら、観客は映画というメディアが長い時間をかけて培ってきた省略表現を前提に物語に集中するからだ(だからこそ映画はそれを逆手に取り“嘘をつく”ことが出来るのだ)。

 

 朝食のパンを真上から捉えなくても、観客はそれが何かを認識できる。車から降りる伯爵夫人をアップにしなくても、観客は停車した車とゲストを繋ぐことができる。道中を複数のショットで繋ぎ、運転席にカメラを回さなくとも、観客はその道のりが別荘へ続くことを、運転しているのがレイノルズであることを知っている。次に起こる出来事やアクションがすでに観客に伝わっているにも関わらず、PTAはそれらを全て後追いで「説明」してしまう(彼の作品にはこのようなシーンが本当に多い)。

 

 例えば、本作が参考にしたヒッチコックの「レベッカ」。「レベッカ」には多くの物語的な要素が詰まっている。サスペンス、法廷劇、アクション、それら全てが主人公二人のラブストーリーへと還元され、多層的な物語へとなっていく。この多層性は「ファントム・スレッド」には存在しない。にも関わらず、「ファントム・スレッド」の上映時間は「レベッカ」と同じなのだ(別に「レベッカ」が完璧な作品だとは全く思っていないし、「ファントム・スレッド」が薄い物語だと言っているわけでもない)。言うまでもなく、その原因は先述した全てを説明してしまう語り口にある。おそらくヒッチコックがメガホンを取れば、「ファントム・スレッド」は上映時間90分前後の作品になっているはずだ。

 

 上映時間の長い作品がダメだと言っているわけではない。長い上映時間にこそ意味がある映画は無数に存在する。それこそ同監督作品の大傑作「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」はまさにそのような映画だ(オールタイム・ベスト!)。シンクレアの傑作プロレタリア文学「石油!」を原作とする本作は、怪物ダニエルの視点を通して、一労働者が見る景色と、資本主義というシステムから見える光景を描いている(あとそれを非難しながらも寄生する勢力ね)。ダニエルが体現する資本主義の暴力性は、この世界を平面に捉え、許可なく他人の財産を押収する(だからPlainviewな訳だ)。全てを見たままにしか解釈できないダニエルの人生(または時代)を描くには、全てを見せるカメラと、全てを記録する時間が必要になる(何度も言うけどPlainviewだからね)。だからこそ、必然的に「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」は、あのような語り口と、あのような上映時間になる。

 

 しかし、「ファントム・スレッド」はそのような作品ではないはずだ。ウッドコックのドレスや、アルマとレイノルズの関係に必要なのは、雄大な時間の流れではなく、一瞬の儚さだ(それこそ、レイノルズは本作の語り口を「too much」と批判するはずだ)。

 

 全てを美しく切り取ってしまうPTAは、その美しい全てを手放すことができない。彼の語りは「美しさ」に誘惑され、その集中力を保つことができない。「洗練」は失われ、作品の主観は主題を離れていく。その結果、上映時間だけが必要以上に伸びていってしまう(言葉を選ばずに言うと、PTAの作品は「映画」というより「ミュージック・ビデオ」と感じてしまう瞬間がある)。

 

 ともあれ、本作が素晴らしいのは言うまでもない。特に終盤、アルマがドレスの内側に見つけた、レイノルズのメッセージ。その行く末を語らない演出には、劇中のドレスのような「気品」を感じた(こういう「引き算」はするのよね)。誰にも理解できない二人だけの世界。誰にも知ることができない二人だけの世界。誰にも見ることができない幻の糸が、二人の確かな関係を繋いでいく。傑作。

 

※「レベッカ」の人物配置と本作のそれは非常に酷似しているが(特にシリルはまんまベアトリスだし、ダンヴァースは夫人はブラックウッドだ)、それ以上に感じたのが、レイノルズ自身が「ヒッチコック」なのではということだ(それこそ「ウッドコック」だしね)。詳しくは省くが、両者が女性に対して抱えている歪な幻想には多くの共通点がある気がする(もしかしたら既に言及されているのかもしれないけど)。

※シリルを演じたレスリー・マンヴィルは本当に素晴らしい役者だと思った。

※正直、思ったより文章が長くなった(人の作品をなげーって批評しているのに)。

※上映時間について、「レベッカのオマージュだ」と反論されたことがあるが、上映時時間をオマージュされても……っていうね。

 

怪談蚊喰鳥(1961)

『怪談蚊喰鳥』

原題:怪談蚊喰鳥

監督:森一生

脚本:国弘威雄

出演:船越英二、中田康子、小林勝彦、丹波又三郎

撮影:本多省三

音楽:倉嶋暢

美術:西岡善信

 

 寺の墓地裏にある小さな家屋で常磐津の師匠として生計を立てる菊次。孝次郎という若い愛人を囲っている彼女は、いつものように贔屓にしている按摩師の辰の市の施術を受けていた。気付かぬうちに寝入っていた菊次。そこに徳の市という、辰の市と瓜二つの按摩師が尋ねてくる。辰の市と弟だと話す徳の市に対し、先ほどまで施術を受けていたことを告げる菊次。しかし、そんな菊次に徳の市は「兄貴は三日前にあなたに恋焦がれて死にました」と話し始める。

 

 宇野信夫原作、森一生監督による傑作怪談映画。寺の墓地裏で欲望のままに物語が展開する本作(非常に皮肉の効いたシチュエーションだと言える)。作り手は、夜に紛れて他人の生き血を啜り、渇きを癒そうとする蝙蝠達の生態を、確かな映画言語で捉えてみせる。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 手堅く完成度の高い本作の中で、最も重要な働きをしているのが“撮影”だ。本作は「何を映すか」を明確に管理することで、画面上の解釈の余白を奪う。それぞれのシーンが誤認される事のないように、非常に緻密な計算の下、観客が何を見るのか(または、何を感じるのか)を強制し、作り手の「意図」に導こうとする(ソーシャル・ネットワーク以降のデヴィッド・フィンチャーの余白の無さをイメージしてもらえればわかりやすいかもしれない)。

 

 序盤、ヒモの孝次郎が去った部屋で一人になる菊次。彼女を“小さく”捉えるために、手前に置かれるカメラ。左右を黒塗りにするほどの部屋の灯りは画面上の彼女の居場所を“限定”する。これにより彼女が「この空間に一人きり」であることが強調される。次にカメラは蚊帳の中で寝入る菊次を真上から見下ろす。このショットで彼女が「無防備な状態」であることが観客に伝えられる。風鈴が風に揺らぐ。美しい音色はカットを跨ぎ、移動するカメラが開きっぱなし襖の部屋と、その先で風鈴と同じように揺れる植物を捉える。尚もカメラは動きを止めず、閉じた戸口の土間を後退りする。一連のトラッキングにより「何かが侵入した」ことが示される(ぶっちゃけ襖と戸口のショットは順序が逆だと思う)。風が部屋の中心へと迫り、暖簾と蚊帳を揺らす。何かが彼女に“到達”する。

 

 作り手はこの一連のシーンが“恐ろしい”ものであると観客に受け取らせ、緊張感を持ってもらいたいと考えている。だからこそ、菊次が暗い部屋で一人無防備であることを強調する。作り手は視認できないはずの“何か”を観客に感じ取らせたいと考えている。だからこそ、風に揺れる物体をカメラに収め、被写体のないトラッキングを採用し“カメラに映らないという現象”を映し出す。当然、観客はその映らない“何か”を意識することになる(カット尻が不自然に長いのも同様の目的と効果がある)。結果、観客は作り手の狙い通りに、緊張感を持ってこの恐ろしいシーンに臨むことになる。

 

 この「何を映すか」を徹底する本作の撮影が非常に強い効果を発揮するシーンが中盤に用意されている。

 

 徳の市の留守中に菊次を尋ねる孝次郎。嫉妬まじりの会話の中で、孝次郎は菊次に徳の市との生活を終えるようさりげなく提案する(この辺の孝次郎のプライドの高さが表に出る台詞回しと演技が素晴らしい)。すると菊次は「そうはいかないね」とその要求を却下する。ここから主導権は菊次に渡る。ある程度二人を対等に扱っていたカメラは、菊次をアップで捉える。「私はね、まとまったものは掴んで土地を売るんだよ」、このセリフ以降、カメラは孝次郎に切り返すことなく、菊次を優先し続ける。菊次の策はその後の物語を引っ張る役割がある。作り手はこの重要な策を観客に見落とさせないために菊次に主導権を渡す。

 

 徳の市が帰ってくる。ここから主導権は目まぐるしく移り変わることになる。

 

 部屋へ上がる徳の市を追うカメラ。孝次郎に気づいた徳の市は、菊次との関係性を誇示しようと、あえて孝次郎の前で菊次を丁寧に扱う。戸惑う菊次と苦虫を噛む孝次郎。菊次というトロフィーの背を中央にして、左手前に“大きく”映る徳の市と右奥に“小さく”置かれる孝次郎。画面上の力関係が徳の市に傾き始める。カットが変わり、カメラは徳の市と菊次を“正面”から捉える。またしても画面の“隅へ”と追いやられる孝次郎。ここから先、稽古の終了を告げられた孝次郎が反抗するまで、シーンは徳の市が支配することなる。

 

 徳の市の一方的な提案に我慢の限界を迎えた孝次郎はついに反撃に出る(ここでの菊次の表情の移ろいが本当に素晴らしい)。つかみ合いの後、投げ飛ばされる徳の市。カメラは先回りし、舞台から弾かれる彼を迎え入れる。「もう芝居はごめんだ」というセリフと共に、今度は孝次郎と菊次が正面になる構図が出来上がる。二人を“見上げる”徳の市、そんな彼を“見下す”孝次郎と菊次。主導権が逆転する。

 

 菊次の裏切りに驚きを隠せない徳の市は、彼女に縋ろうとし、まんまと転ばされてしまう。またしてもカメラは先回りし、転ぶ徳の市を迎える。先程までとは打って変わり、ここからカメラは画面内の人間模様ではなく、家に残ろうとするもの、追い出そうとするもの、その二人の“アクション”に集中し始める。

 徳の市を上から押さえつける孝次郎。それを真っ直ぐ捉えるカメラ。そこに菊次が左からフレームインする。徳の市の着物を箪笥から取り出そうとする菊次。しかし、カメラは彼女のアクションには見向きもせず、つかみ合う男達に集中し続ける(菊次の顔は見切れている)。またしても舞台の外に追いやられる徳の市と、そこに追い討ちをかけにいく孝次郎。カメラは菊次を部屋に残し二人を追いかける。数回のもみ合いの後、畳に大の字になる徳の市。カットが変わり、徳の市のアップになる。そして彼が不気味に笑い出す。カメラが切り返され、不気味な笑い声に慄く二人が捉えられる。そこに下からフレームインする徳の市。力関係が再び変化の兆しを見せる。が、カットが変わることはなく、見下す幸次郎が徳の市を画面手前に追い詰めることで、ついに徳の市は部屋から退場してしまう。

 

 このように、作り手は観客が映画の“どの部分”に集中するべきなのかを(または“誰”に注意を払うべきかを)カメラを使って指定し続けている。観客を物語の“核”に迫らせたい時には、複雑な人間関係を優先したカメラになり、物語の“進行”に目を向けて欲しい時には、単純なアクションを優先する(つまり「何を映すか」を徹底しているわけだ)。

 

 本作は欲望を燃料として生きる人間達の小さな物語だ。寺の墓地裏とそこに建つ小屋という箱庭の中で、登場人物の全てが自身の利益を優先し、そのための策を巡らす。黒く薄汚れたそれらは観客の感情移入を悉く妨げ、画面上の主導権を目まぐるしく塗り替えていく(ここでの主導権とは必ずしも登場人物たちの力関係のことではない)。言い換えればそれは「限定された空間での感情移入や共感がしにくい登場人物たちのパワーゲーム」となる訳だが、これを観客に最後まで集中して見てもらうのは中々に至難の業だ。

 限定された空間は視覚的なマンネリを産み観客の集中力を奪いやすい。同様に、目まぐるしい主導権の入れ替わりも、物語の道筋を見えにくくし、観客の集中力や興味を削いでしまう危険性がある。さらにその主導権の奪い合いをしているのが、全く感情移入できない人間だとすれば尚更だ。しかし、本作を観た観客は、物語の道筋を見失うことなく、最後まで集中できたはずだ。それは、このような「何を映すか」の優先順位を徹底する本作の撮影が、移り変わりる主導権や物語の道筋を明確に捉え続けるからだ(例えば、この一連のシーンが“中途半端な作品”にありがちなマスターと中距離からのショットを多用した手持ちで構成でされていたら、目も当てられないことになっていなはずだ………断言するけど100%飽きる)。

 

 この視線を強制(または誘導)するような撮影はコメディ的な側面でも機能している(むしろこの側面の方が「何を映すか」の部分をわかりやすく示しているかもしれない)。

 

 五十両の取引を成立させ、もう一度菊次との生活を掴み取った徳の市は、昼間から酒を浴び、大イビキをかます。縁側辺りを向いていたカメラは、イビキに合わせてパンダウンし、だらしない徳の市を捉える。カットが変わり、カメラは常磐津の鳴る隣の部屋へ移る。カメラはイビキの原因を襖越しに映し、そのままうんざりする菊次へ向かう。そしてさらに、その状況を笑うお弟子さんたちの方に首を振り、一度引きで全体を映す。さらに最後、もう一度菊次へと寄り、彼女から稽古の中断が告げられる(ここまでワンカット)。作り手はフリとオチの正しい順番をカメラを使って知らせることで、観客の“この状況の受け取り方”をコントロールしている訳だ(後半の「ナマズの鍋」のシーンでも同様にオチとフリを順序立てるカメラワークが見られる)。

 

 「映画なんだから“狙い”のために緻密で意図的な撮影を積み重ねるのは当然」と思われるかもしれないが、世界中に溢れている映画達は意外とそんなことはなかったりする。構図やショットの繋がり、演者の動線に重きを置かない作品は無数に存在する。ただ被写体を動かし、それを追うだけで、どこにカメラを向けるか(つまりは「何を映すか」)を意識していないと思われる作品は挙げればキリがない程に存在している。それでも作り手の狙いは“ある程度”成立したりする。なぜなら映画は「総合芸術」だからだ。たとえ稚拙でボンヤリとした撮影だったとしても、その曖昧さを劇伴や演技などがある程度補ってしまう。本作は「ぼんやりとであっても全てをある程度整えてしまう」ことが可能な映画というメディアの利便性に依存することなく、丁寧な映画言語を積み重ねていく。

 

 気になる部分もある。本作はあまりにも陰影が濃すぎて、照明さんの位置が浮かび上がってしまっている(「ここに裏方がいるんだな」というような余計な人間や機材の存在を感じてしまう)。もちろんこの演出は、本作の空気感やサスペンス性を高めるためのものな訳だが、それでも若干の難がある気がする。個人的に明確な問題点があるのだが、うまく言語化できないので割愛する(うまくは言えないが「内面の具現化とするには光の演出がシームレスでアクションに寄り過ぎている気がするし、シームレスな演出にしては陰影が濃すぎて繋ぎ目が見えてしまっている」といった感じがする……うまく言えてるつもりはない)。

 

 もう一つ気になったのが、ラストの教訓めいたセリフだ。はっきり言ってこのセリフは、本作を見た人間全員が「そんなこと言われなくても知ってるよ」と言うしかないレベルの超蛇足なわけだが、おそらくこれは一億人が見て一億人が同じことを思うはずなので、ぜひ直接確認してほしい。

 

 自身の渇きを満たすことだけを考えて生きた三人は、最終的に「欲望」という名の“底なしの穴”に落ちていく。道筋は違えど、全員が“枯れた”井戸で再会するのは非常に皮肉が効いていて綺麗なオチだなと思った。個人的には、菊次の死因が「見ていけない物も見てしまったから」というものになっていたが素晴らしいと思う。サスペンス風味が強い本作をしっかりとホラーに引き戻す演出だと感じた。

 

 とにかく素晴らしい作品だったし、勉強になる作品だった(ここには書ききれないほどのカメラによる“視線の誘導”が本作にはまだまだ溢れている)。「何を映すか」という“映画のある側面における本質”に意識的な作品は、ここまでスリリングになるのかと感動してしまった。傑作。

 

※中盤、追い出された徳の市が、すぐにヘラヘラして家に上がろうとした時、幸次郎が思わず「いやいやいや」と素なセリフを言うところが一番爆笑した。

※菊次のキャラクター造形は「スカーレット・ストリート」のキティに非常に似ていると思った。自身の欲望のためなら、愛するヒモに対しても一歩も引かない主体性を見せる彼女は、1961年にしては非常に現代的なキャラクターだと思った(そもそも本作は「スカーレット・ストリート」感が強い気がする)。

※音楽はちょっとうるさすぎると思った。

 

女が階段を上る時(1960)

『女が階段を上る時』

原題:女が階段を上る時

監督:成瀬巳喜男

脚本:菊島隆三

出演:高峰秀子、森雅之、仲代達矢、加藤大介、淡路恵子、団令子

撮影:玉井正夫

音楽:黛敏郎

衣装:高峰秀子

 

 最愛の夫の死後、銀座のクラブで雇われママとしては働く圭子は、先行きが不透明な自身の生き方に限界を覚え始めていた。女を「商品」としてしか見ようとしない者たちへの接待、オーナーからの叱咤、同業者の自殺、どこまで付き纏う男達の「呪い」に懸命に立ち向かう彼女だったが、元同僚の“不慮の事故”をきっかけに、心身ともに徐々に追い詰められていく……。

 

 「女性映画の巨匠」成瀬巳喜男の傑作ドラマ(あんまこの括り方は好きじゃないけど)。抑制の効いた演出と、非常に静的なカメラが映し出す、銀座の夜に生きる一人の女性の孤独な「抵抗」、華やかな世界の裏側にある真の権力関係、それに憤りを感じながらも、それらの再生産の枠組みに組み込まれることでしか生きることを許されない抑圧的社会構造。女性が一人で生きるということの困難さを見つめる本作は、非常に現代的な作品だと言える。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 オーナーとの話し合いを終え、結婚した元従業員を外の世界へ送り出し、髪を整えたあと、階段を上がるという「儀式的」なアクションから物語は動き出す。足元を狙った象徴的なショットは、男性中心に回るこの世界を自身の意思で主体的に歩もうとする圭子のあり方を表している。

 

 本作は、成瀬作品の中でも静的だといえる。カメラの躍動が生み出す映画的なダイナミズムを拒否するかのように、最小限の動きと丁寧なカット割りで映画は進んでいく。正直、この禁欲的なカメラワークが「事務的」に感じてしまう瞬間や、その静けさが逆にカメラを意識させてしまう瞬間もなくはないが、本作にとってはこのカメラワークこそが重要になる(小津ほどとは言わないけどちょっとね)。

 

 主人公の圭子は人生の岐路に立たされている。齢三十となり、徐々に体力は衰え、仕事の勢いにも翳りが見え始める。「どこまでこの仕事を続けることができるのか」または「この仕事を抜け出すことが出来るのか」、彼女はこの二つの問いの間で踠きながら階段を上がり続ける。彼女の目の前にある“広がる気配のない世界”。この世界の“狭さ”を表現するためにこそカメラは消極的になる(意図がどうあれ結果的にそのような効果が生まれている)。

 

 登場人物の導線が左右に別れようとも、中々首を振ろうとしないカメラ。フレームアウト後も、カットが割られることですぐに画面の中央に戻される夜の女性達。そして、再び固定されるカメラ。世界の広がりを拒絶し、画面上の人物の逃げ場をなくすような静的で窮屈なカメラワークは、圭子やそこで生きる女性達の感じるこの世界の“窮屈さ”や“逃げ場のなさ”をそのまま表現することに成功している。

 

 作り手は圭子をどこまでも追い詰める。

 

 こちら側とあちら側を繋ぐために用意された「階段」。本来、圭子にとってそれは日常と夜の世界を隔てる“境界線”なわけだが、その線は映画が進むにつれて徐々に曖昧になっていく(というより、実は限りなく曖昧な線だったことが判明していく)。

 毎晩、圭子は階段を上がることで「覚悟」と共に“日常”に別れを告げる(有名なモノローグだ)。しかし、全てに耐え抜き階段を下りても「銀座の夜」は彼女を決して離さない。彼女の帰る“贅沢な部屋”は「夜の社交場」のための「アクセサリー」でしかなく、実家に戻っても「夜の報酬」を耐えず求められてしまう。

 境界線を跨いだにも関わらず、ひたすら彼女に付き纏う「銀座の夜」。彼女がどれだけの夜を抜けたとしても、その先にあるのは夜だけだ。それは「呪い」として彼女を追い詰めていく(逆に言うと、階段がもたらすはずだった本作への効果はタイトルにするほどの力を持てなくなったとも言える)。

 

 圭子はキャラクターとして非常に奥行きのある描かれ方をしている。もちろんそれは彼女の“主体性”を持った「アクション」であったり、直面する問題に対する繊細で多様な「リアクション」であったり、赤裸々なモノローグであったり、高峰秀子の素晴らしい演技力であったりがもたらすものなわけだが、決してそれだけではなく、「時間」を多層的に語る本作の語り口が重要になってくる(圭子につけられら“演出”だけが彼女を語るわけではない)。

 

 圭子の周辺には“彼女の代わりに彼女を語る”三人の登場人物が配置されている。それが自殺した別のクラブのママ、辞めた元従業員のユリ、そして圭子が自宅で世話をしている従業員の純子だ。彼女たちはそれぞれ“そうだったかもしれない圭子”の「過去・現在・未来」を担っている(この言い回しは少し適切でない気もする)。

 

 若く天真爛漫な純子は、圭子の「過去」の投影だといえる(圭子がまんまこういう人間だったという意味ではなく)。クラブで酔い潰れた純子を介抱した翌朝、二人は食卓で向かいあう。過去の恋、幼さゆえの苦労や失敗、それゆえに身についた処世術を純子に語る圭子。圭子は純子との会話の中で過去の自分を見つめ返す事になる(確信めいたセリフも用意されている)。

 

 元従業員のユリは圭子のもう一つの「現在」だ。圭子の店から独立したユリは強気な姿勢が災いし徐々に首が回らなくなっていく。喫茶店で話す二人。そこで圭子はユリが借金を解決するために狂言自殺を図っていることを聞かされる。順風満帆で苦労知らずな小娘だと思っていたユリの思わぬ事実を見た圭子は彼女に尊敬の姿勢を示し、互いに頑張ろうと乾杯をする。しかし、後日、ユリは狂言自殺に失敗し、本当に死んでしまう。独立を予定していた圭子は、同じ道の先にいたユリの死に、厳しい現実を見る事になる(そして占いに手を出してしまう)。

 

 序盤、セリフでしか登場しない自殺した別のクラブのママは、圭子の数ある「未来」の一つだ。客との色恋沙汰の末に自殺してしまった彼女はこの世界で働く女性の先行きの不透明さを表している。その後、このママが劇中で言及されることはないが、彼女の死は圭子の脳裏に残り続ける事になる(その証拠としての“占い”な訳だ)。

 

 観客は彼女たちの物語を通して、画面上に現れない圭子の物語の“名残のようなもの”を捉える事になる。幼かった過去、重くのしかかる現在、不透明な未来、三人の女性の人生がなぞる圭子という人物の輪郭。その結果、現れる彼女の確かな奥行き。本作は圭子の「現在」の視点で進むが、この重層的な「時間」の語り口によって、彼女の過去や未来を立ち上らせ、彼女の苦悩や葛藤、喜びや絶望に強い説得力を与える事に成功している。

 

 構成として上手い部分も非常に多い。色恋沙汰の末自殺したクラブのママのシーンの後、結婚し夜の世界を抜け出した元従業員を見送るシーンを配置したり、若さを武器に欲望のまま走る純子の後に、「若さがなくなってきた」と手鏡を見る圭子のショットを差し込んだり、圭子の店と真反対の立地にユリの店を配置し二人の対比的な関係を強めたり、圭子を苦しめる男たちを序盤で一堂に用意したりと、非常に基礎的だがテクニカルな作りになっている。

 

 その他、素晴らしいシーンは無数に存在しているが、特に圭子が自身の思いを言語化し他者に投げかけるシーンはその全てが素晴らしい出来になっているので、是非その目で確かめて欲しい(とにかくセリフと演技、そしてそこに至るまでの物語的な導きが素晴らしすぎる)。

 

 気になる部分も無くはない。それが圭子によるモノローグだ。本作は圭子に対しモノローグを付けることで、演出するには複雑すぎる感情や、簡単に済ませたい周辺情報を、手取り早く観客に伝えようとしている。もちろん、この手法自体は全く問題ではない。ただ、そのモノローグの中身にどうしても引っかかってしまう。

 

 本作は圭子のモノローグで、夜の世界で働く女性(または夜の職それ自体)を「批評」「定義」し「格付け」する。圭子の声色で語られるこれらの言葉は、一見すると夜を懸命に生き抜こうとする“当事者たちの声”のように錯覚してしまう。しかし、当然だがそれは違う。この声の主は“男性”脚本家である菊島隆三、そして“男性”の映画監督である成瀬に他ならない。

 

 「車で帰るのが一流」で「電車が二流」「客としけ込むのが最低」。仮にこの言葉が銀座の夜の真実だったとしても、それらの言葉を用意したのが、その世界を動かし続けている「男性」であり、それをあたかも自分達の言葉ではないかのように「女性」に語らせるという、本作の構造には違和感を覚えてしまう(男性の作り手達が女性の経験を代弁したように見せかけ、それらを理想化し、そこに自身の主張を巧みに忍ばせ、さらにその表現方法に女性の声を採用するという卑怯さ)。確かに本作は女性の主体性を捉えようとしている。男性社会で生きる女性の“生きづらさ”を描いている。しかし、それと同時に作り手達の「権力的」な立ち位置や、「差別的」な視線が透けて見えてしまっているのも事実だと思う(そしてそれらはいくつかのセリフによっても本作に現れてしまっている)。

 

 若干の希望的なニュアンスを含んだラストも気にならなくはない。

 

 最終的に圭子は、自分の足で階段を上がることを選択する。しかし、男達の欲望に嘘をつかれ、尊厳を踏み躙られ、裏切られ、人生を絡め取られた末に見せた彼女の抵抗は、演出や演技、劇伴が示すほど希望に溢れたものではない。彼女の固い決意や行動は一人の女性の主体的な選択のようで、その実、男性中心の抑圧的な社会構造の中で生きるために「そうせざるを得なかった」結果の選択だ。圭子に休息の場は与えられない。彼女の男性への奉仕はこれからも続く。少なくとも、彼女の置かれた状況は「歩道の並木が新しい目を育てていく」のとは根本的に異なっている(彼女の選択は抑圧の再生産でしかないのに、呑気な男の作り手がそのことに気づけていない)。

 

 とはいえ、上記のような指摘を1960年の作品に行うのは若干後出しジャンケンがすぎるとも思う。そもそも、成瀬がどれだけ女性の主体性を見据えて映画を撮っていたとしても、フェミニズムを意識して自身の映画を作り上げていた訳ではないはずだ(ウーマンリブも確かこれより以降の流れよね)。自分で言うのもなんだが、おそらくこれらの指摘は、最も好きな映画作家の一人である成瀬の作品を理想化し、その全てを好意的に汲み取ろうとし続けてきた過去の自分への反論のような気もする(とはいえ、時代を超えてでも指摘できることはするべきよね)。

 

 諸々文句めいたことも書いたが、本作が素晴らしい作品であることに変わりはない。自分は成瀬作品のなかでもかなり好きだったりする(だからこそここまで書いたのかもしれない)。撮影、美術、演技、脚本、全てが一級品の素晴らしいものになっている。特に、全編を通して男たちが喜びそうなファンタジーとしての「女という嫉妬深い性による足の引っ張り合い」を描くことなく、互いに共助の精神を見せ合う「プロの現場」を描くことに徹底した本作は非常に上品でリアルな映画だと思う(シスターフッド的でもある)。傑作。

 

※成瀬のカメラワークについて、成瀬は作品の色によって撮影の方向性を変えるタイプだが(同じ方向性の作品は同じ撮影になりがちと言う意味でも)、人物(とその表情)をトラッキングで斜め前から迎えること関しては、たとえ作品の色に違いがあったとしても、徹底しているように思われる。まるで「歩く」というアクションの合間に行われる感情の揺らぎや思考の流れこそが、その人物の本質であると確信しているような執拗さであり、それを絶対にカメラに収めようとする様は、ある種の義務感に駆られているようにも見える。成瀬作品の核心がそこにあるかはわからないが、成瀬自身の核はそこにあるような気がする。

※カメラワークについてもう一つ、どこまでも静的なのには画角がワイドになったのも影響している気がする。

※衣装は全てが素晴らしかった。

 

The Garden(2026)

 

 草月流に所属する知人(高嶺一染)が関わった個展を観るために、六本木の「Atsuhiko Suematsu Gallery」という場所に行ってきた。

 

 今回の企画「The Garden」は、瀬戸市を拠点に活動する陶芸家 加藤巧の作品にいけばなを加えることで、加藤の作品に新たな意味や緊張感を見出そうとする試みがあるとのこと。

 

 正直、いけばなや陶芸に関しては知識が皆無のため、どのような見方が“正攻法”なのかは分からないが、分からないなりに面白い発見が沢山あった(途中から高嶺がギャラリーを案内してくれたので、それが補助線になった気がする)。

 

 全ての作品がそれぞれに興味深いものだったが、その中でも今回の個展のコンセプトに特に沿っていると思ったのが以下の作品。

 

 

 この作品を見て頭に浮かんだのは「記憶」または「二重性」だった。

 

 トルソーの形をした器に、頭部の代替えとしていけられた二種類の植物(構造上そうなっただけで、そこにそういう意図があったわけではないのかもしれないが)。片方は彩られ、もう片方はひたすら混沌としている。まるで、確かに手にしていたこれまでの「記憶」が、月日と共に“時系列”や“色”を失っていく様を表現しているようだった。記憶の消失という“目には見えぬ過程”を、この作品が“視覚化”しているように感じた。例えば「認知症」をテーマに何かしらの作品を表現した場合、このような造形物になっていくのではと思ってしまった(この例えが適切なのかは分からない)。

 または、二種類の植物は外面と内面の表れなのかもしれない(どちらがそれを担っているかはその時で変わる気がする)。よく知る人間の知らない一面を目にした時のあの感覚。限りなく近しい存在だと思っていた人間の他者性を思い知らされるあの瞬間。言い換えればそれは「他人の頭の中」という“曖昧さ”だったりするわけだが、そういった視認することのできない限りなく抽象的なものを、トルソーという器と「いけばな」を駆使して具象化しているようにも感じた。

 

 先述した通り、こういった感覚が頭をよぎったのはトルソーにいけられた花に頭部を見たからなわけだが、それだけが理由ではない気がする。トルソーという顔のない肉体は否応なしに「匿名性」を高くする。とある個人の“何か”ではなく、不特定多数の“誰か”を見出しやすい(つまり作品を他者化しやすい)。そういったことも合わさって、上記のような感覚でこの作品を見てしまったのかもしれない。

 

 

 もう一つ目を引いたのがこの作品だった。

 

 古墳状の壊れかけたオブジェを覆い隠すように自生する植物達。かつてそこに存在した人為的な何かが、時間と共に忘れ去られていく様子を表しているように感じた。“墓”状の構造物にいけられた花と、その側にアダンが実ることで、“命のせめぎ合い”を見ているようでもあった。強烈に連想したのが「ジェノサイドの丘〜ルワンダ虐殺の隠された真実〜」と「沖縄の歴史・地理」だった。

 

 「ジェノサイドの丘」の冒頭(p13〜14)にある強烈な文章の連なり。詳しくは省くが、そこで息づいていた多くの“現象”が事切れてしまい、時間の経過と共に「存在しなかったこと」にされてしまう忘却の無責任さと、そこにある種の美を見出してしまう人間の無責任さ(それらを恐れて本の著者は目の前の光景を書き留めるわけだが)。惨劇の後に流れる時間が作り出す命のせめぎ合い(とは表現してはいけないほどの一方的な暴力の結果なのだが)のようなものが、この作品にも感じられた。

 

 「沖縄の歴史・地理」を感じたのは、この作品の構造にある。古墳を思わせるオブジェは文字通り「墓」だ。かつて誰かのために存在し、そして忘れ去られた、誰かのための墓。時間と共にその存在は荒廃し、自然に還り、それでもそこにあった名残を残そうとする。そんな感覚。

 戦後、沖縄では「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる土地の強制接収が起こった。米国の軍事基地利用の目的で、強奪された県民の土地。奪われた土地の中に先祖の墓が含まれていた人たちも存在した(そして二度とそこには足を踏みれることができなかった)。たとえば、かつて「中原」と呼ばれたあたりには、今もこのような場所があるのではないか、そんな感覚が生まれる作品だった(担当した高嶺はこの作品を「御嶽(うたき)」と表現しており、非常に納得した)。

 

 

 最後がこの作品(群)。

 

 壁掛けの輪も加藤の作品の一つだが、ひまわりがそこに顔を向けることで、太陽のようにも見えてくる(これは作品を設置した後に作家達が“気づいたこと”と高嶺が解説してくれた)。また、この構図によって左の“直立”する「いけばな」の“人工性”がより際立つ(人工物は太陽に一切の興味を持てない)。空間に置かれた作品が、他の作品と関わることでその意味を塗り重ねていく。まさに作り手の意図を超えて作品が意味を持ち出す瞬間だと思う(まさに今回の個展のコンセプトだと思う)。

 

 もう一つ思ったのが、加藤の一連の作品と、いけばなという行為の相性が良いということだ(恥ずかしながら他の作品を見たことがないので、この個展内の作品に限った話になるが)。

 

 今回、この個展に用意されていた加藤の作品はそのほとんどが、表面がざらついており、歪で荒々しく、「結果」よりも「過程」「素材」のイメージが先行する、非常にプリミティブな陶芸のように感じた(何度も言うが陶芸を芸術として鑑賞した経験がほぼゼロの人間の戯言だと思って欲しい)。

 成り立ちや歴史はさておき、いけばなという芸術は自然の美を人工的に再解釈し、それを再び自然的なものに「翻訳」しようとする行為だと言える(いけばなの一側面として)。意図的にプリミティブであろうとしているようにみえる加藤の表現が、いけばなという不自然な自然さを見つめる芸術と相性がいいのかもしれないと思った(両者とも自然から切り離し“人工物化”させたものに再び原初的な美のようなものを見出そうとしている言う意味で)。

 

 ギャラリーを案内してもらう途中で、高嶺からいけばなの歴史について「床間を抜け出す」という言葉を聞いた。以前、一度だけいけばなの展覧会に行く機会があったのだが、その時は作品を正面から見ることしかできなかった。ただ、今回の企画ではギャラリーの空間の広さも相まって、さまざまな角度から鑑賞することができた。その結果、以前の展覧会では感じなかった感動があった。長い歴史の中で、いけばなが「床間から抜け出した」のは必然だったのではないかと言う気がした。

 

 陶芸・いけばなの他の個展がどのようなものか分からないため、正確なことは書けないが、今回の個展で「特徴的なのかも?」と思ったのが、それぞれの作品に対して、何の説明書きもなかったことだった(もしかしたらどっかにあった?)。作品名、テーマ、注釈などがなく、「余白」を残した展示方法が結果的に作品を「能動的」に観察しようとする理由になったのかもしれないとかも思った(バックグラウンドの無さが逆に作品の意味づけを促している感じ)。

 

 長々と偉そうなことを書き連ねてしまったが、取り合えず、何も知らない素人の感想ということで(映画好きには陶芸といけばながこう見えた的な)。素人なりにとにかく楽しくて勉強になる個展でした。

 

※加藤の作品といけばなの相性についてもう少し付け足すと、加藤の作品も、いけばなも自然美と人工物の“境界線”を跨ぐ芸術(または境界線そのもの)のように感じた部分もあった。

※いけばなを、自然美から人工物化し再び自然の一部を見出す「翻訳」的な側面があると書いたが、高嶺が担当した白い筒状の作品に関して言うと、「翻訳」するという行為を拒絶し、人工物性を先鋭化させているようにも感じた(循環の流れを塞き止め新しい何かを見出そうとしている感じ)。

 

青い戦慄(1946)

 

『青い戦慄』

原題:The Blue Dahlia

監督:ジョージ・マーシャル

脚本:レイモンド・チャンドラー

出演:アラン・ラッド、ヴェロニカ・レイク、ウィリアム・ベンディック

撮影:ライオネル・リンドン

音楽:ヴィクター・ヤング

 

 復員した戦闘機パイロットのジョニーは、帰宅した先で妻ヘレンの不貞を目撃してしまう。口論の末に家を出たジョニー。しかし、その後ヘレンは何者かに射殺されてしまい、その容疑をかけられてしまう。逃亡を続けながらも真相に辿り着こうとするジョニーは、夜の雨の中、謎めいた美女に出会うのだが…。

 

  夜の街と暴力、退廃と欲望、光と影のコントラスト、ヴェロニカ・レイクのファーストショット、そしてひたすらの雨。どこをとっても「フィルム・ノワール」で溢れている本作。にも関わらず、観賞後に感じたのは「これはノワールなのか・・・」というものだった(もちろん正真正銘のノワール映画ではあるのだが)。そもそも、「フィルム・ノワール」というジャンルは後付けのものだ。また、その定義も非常に曖昧としている。もちろん、ある程度の括りは可能だが、そこに何を求めるかは強い個人差がある。本作を観ることで、自分がノワール映画の本質に“何”を見ているかが少し明確になった気がする。

 ノワールの記号で溢れる本作で、なぜノワールの匂いを感じないのか。暴力と欲望が画面を支配しているにも関わらず、なぜ健全に見えてしまうのか。なぜあらゆる側面で中途半端に感じてしまうのか。その違和感を言語化できればと思う。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 本作の特徴の一つとしてまず挙げられるのが「ファム・ファタールの不在」だ。嘘と美貌で欲望のままに物語を支配する「宿命の女」が本作には登場しない。

 

 ジョニーの妻であるヘレンは欲望と退廃の象徴だが、彼女の存在自体は本作においては取るに足らないものであり、彼女がついた大きな嘘も、あくまでこの世界の下準備としてしか機能しておらず、物語自体を牽引するわけではない(彼女はむしろ、戦後の消費社会に走ったアメリアの退廃の象徴として描かれているように見える)。

 ヴェロニカ・レイク演じるジョイスに関しても同様のことが言える。圧倒的な美貌と理知的な態度で、終始ミステリアスに演出される彼女だが、映画を通して判明するのは打算や裏切りのない誠実な人柄だけだ。彼女もヘレンと同様に本作の中では非常に小さな存在であり、この物語を支配することはない(支配“出来ない”と言った方が正確かもしれない)

 ファム・ファタールとしての役割もなく、そのイメージだけを丁寧に纏わされる二人。この微妙にピントのズレたキャラクター設定が、本作を中途半端なものにしている気がする(手のひらが痒いのに、それがどの部分なのか正確にはわからない時のあの感じ)

 

 とはいえ、この「宿命の不在」は本作に面白い効果をもたらしている。それは悲劇の「原因」に注目すると見えてくる。

 

 ノワール映画では、悲劇や悪夢、破滅の原因を女性に求めがちだ。「スカーレット・ストリート」しかり、「過去を逃れて」しかり、悲劇の中心には「宿命の女」が存在する。しかし、先述したとおり、本作はその特性上それが出来なくなっている。

 

 本作は悲劇の原因を女性ではなく、暴力を日常生活における交渉の手段と捉えてしまう男たちの「暴力性」に見出す(そうならざるえなかった男も含めて)。

 

 戦地から帰還した、主人公のジョニーとその仲間たち。帰宅する前に一杯やろうとバーに入るのだが、そこで早速喧嘩をしてしまう(もちろんそこにはのっぴきならない理由があるのだが、その理由の原因もまた暴力だ)。

 帰宅したジョニーは、痴情のもつれから大勢の前で暴力的な態度をとってしまう。そしてその後、最悪の真実をヘレンから聞かされ、彼女に銃を突き付ける(彼女には「暴力を覚えてきたのね」という確信犯的なセリフも用意されている)。そして、それを真犯人に見られてしまい、彼への不利な証拠として利用されてしまう。

 その他、事件が複雑化する理由も、最も怪しかった人物が犯人ではないと観客に明かされる瞬間も、新たな容疑者が生まれる原因も、その全てに男たちの中にある「暴力性」が関わっている。この、物語を支配し先へと進めるが「女の欲望」ではなく「男たちの暴力」という構造が、本作を戦後ノワール作品群のなかでも少し特異な作品にしている原因な気がする(ノワール映画を数多く観ている訳ではないので、自分の見識が甘いだけの可能性は大いにあるが)。

 

 少し脇道に逸れるが、本作の「ファム・ファタールの不在」に注目していて感じたのが、フィルム・ノワールというジャンルがどこまでも「逆恨み的」だということだった。

 

 ファム・ファタールの成り立ちは、第二次世界大戦が大きく関わっている(まさに本作のど真ん中だ)。戦時中、男手が足りなくなった社会を支えるために、残された女性たちは労働者として社会進出することになる。その結果、女性達は社会的地位の向上と、経済的自立、確かな主体性を手にするようになる。当然、戦後男社会はその勢いと崩れるジェンダーロールに脅威を感じるようになっていく。そして「宿命の女」が誕生する。

 この「経済的に自立し主体性を有するようになった女性の誕生に脅威を感じる」という男性社会の心理的な闇が「ファム・ファタール」を作り上げたとされている(これだけでもかなり身勝手な話だが)。つまり、「ファム・ファタール」とは戦後の女性労働者達に対する、男性側の嫉妬や恐怖の投影なわけだ。

 

 にも関わらず、フィルム・ノワールは主体性を有する女性達を“労働者”としては描かない(もちろん働いているシーンも無数に描かれているが“労働者”として描かれているとは言い難い)。フィルム・ノワールのファム・ファタールは働かない。現実の世界で“労働”によって手に入れたはず社会的地位は、その事実を剥ぎ取られ、男を騙すことで手に入れるものへとすり替えられてします。まさに身勝手な逆恨みだと思う(勿論「ミルドレッド・ピアース」のように退廃を次の世代に象徴させた映画もあるが)。

 

 本作最大の欠点は「登場人物が全員正直者」であることだ(と、思う)。そしてこの欠点は、単純に脚本上の不備というだけでなく、本作のノワールとしての根幹にも大きく関わってしまっている。

 

 本作に登場する人物は、とにかくみんな正直者だ(びっくりするくらい)。交渉や駆け引きなど一切なく自分が把握している情報を相手にペラペラと喋り続けてしまう(そのくせ肝心な時にはダンマリこいてしまう)。そのおかげで、登場人物たちは各々が窮地に陥り、挙げ句の果てにはあのラストを迎えてしまう。

 

 全てがそうだとは言わないが、基本的にノワール映画では登場人物が息をするように嘘を吐く。その嘘が物語を複雑化させ、先へと進める。誰も真実や本音を言わず、情報は断片化され、主人公は為す術もなく悪夢的な状況に飲み込まれていく。観客はその虚実に酩酊感を覚える。だからこそ、宿命論的なノワールの「闇」が成立する(と思っている)。

 

 しかし、先述したように、本作では全ての登場人物が、本音を語り真実を話す。宿命的な揺らぎはなく、ひたすらよく出来た偶然(段取り)だけが画面上で展開される。結果、観客は割と真っ直ぐな道筋の先で、“脚本に案内されるまま”真相に辿り着いてしまう。確かに本作は暴力と欲望に埋め尽くされているが、そこにノワール特有の「闇」は存在しない(画面は暗いんだけどね)。この「正直さ(言い換えれば嘘の無さ)」こそ、自分が本作に感じてしまった“健全さ”や“違和感”の正体だと思う。

 

 少し文句めいたことを書き連ねてしまったが、本作には素晴らしいシーンも沢山ある(クラシックとされている訳だから当然なんだが)。

 

 例えば、中盤の安宿のシーン。ジョニーは連絡のために宿の廊下にある電話を使用するのだが、その電話を宿のオーナーに盗聴されてしまう。このシーン、作り手はカットを割ることなく、同一ショット内でオーナーの盗聴を捉える。この演出によって、悪夢が“主人公の気付かぬうちに”迫ってきているという表現が成立している(フィックスで撮られた長いワンショットが世界の変化をよりはっきりと地続きなものとして捉えるからだ)。

 

 ヴェロニカ・レイクが登場しているシーンに関しては全てが素晴らしいので実際に観て確認して欲しいのだが、一つ例を挙げるとすると、中盤のホテル内にある海の見えるレストランでのシーンが素晴らしいものになっている。

 

 レストラン入り口から窓際の席へと案内されるジョーニー。カメラは右にパンしながら彼をワンショットで捉える。席に着くジョニー。ウェイターが画面右から現れる。ジョニーの注文を受けたウェイターは先ほどの動線をたどり画面外へはけようとする。ここでカメラはジョニーから離れ、このウェイターを追いかける。そのまま右へと移動するカメラ。その先でフレームインするヴェロニカ・レイクの後ろ姿(正確には半身)。手鏡を取り化粧の確認をする彼女。鏡に映るジョニーに気付き、笑顔で彼の方へ振り返る(彼女の表情がここで初めて画面上に現れる)。

 偶然の再会をワンショットで描き、かつ手鏡の反射というトリッキーな仕掛けを用意することで、二人の特別な関係性はより強く表現されることになる(長回しが繋がりを意識させる)。また、彼女の表情をショットの最後まで引っ張ることによって、その魅力もより強く増している。役者同士の関係性や魅力を最大限まで引き出す素晴らしいシーンだと思う。

 

 その他、役者、衣装、美術、それらを魅せる照明や撮影は本当に素晴らしい(あと、劇伴が必要以上に流れなかったのも、本作ではプラスに働いていると思う)。

 

 色々言ったが、結論としては、「瞬間を切り取る力が凄まじい、ルックだけでノワールを成立させしまった映画」という印象(まあ、でもノワールというより戦後社会派ハードボイルドだと思う)。手放しで褒められないが観て損はない映画だと思う。

 

※本作を「悲劇の原因に女性を採用していない」と言ったが、だからと言ってフェミニズム的だとするのは無理だと思う。また、ヘレンがあのキャラクターでなければ事件は起こっていないことを考えると、やはり本作も「女性」という属性に男の破滅の原因の一部を見ているとも言える(それっぽいセリフもあるしね)。

※ヴェロニカ・レイクの“何にも無さ”には正直驚かされた。あの写真の匂わせ方と登場の仕方を用意しといて、ここまで無味無臭なのは逆に新鮮だった。「この話めっちゃウケるんだけど」と自分でハードルを上げといて、普通につまらん話をしてくるヤツと同じ匂いがした。

※ヘレン役のドリス・ダウリングも非常に素晴らしかった。

※書いといてなんだが、後付けでジャンル分けしといて、物足りないと難癖つけられてしまう本作は可哀想だなとも思う。作り手が「普通に余計なお世話だろ」って思ってても全然おかしくない。

※本作はアカデミー脚本賞にノミネートされたらしいが、流石にそれは厳しいと思う。チャンドラーに気を使ったか、もしくはその年に公開された他の映画の脚本が壊滅的に悪かったかだと思う。

※この脚本は完成するまでにも凄まじいエピソードがある。チャンドラー自身が常に酩酊・絶食状態で執筆していたことや、それを制作会社側が了承したこと、また海軍からの横槍など、こっちの方がノワールな感じがするくらいだったりする。

※最初のバーの店員さんは可哀想だと思った

 

ターミナル(2004)

『ターミナル』

原題:The Terminal

監督:スティーブン・スピルバーグ

脚本:サーシャ・ガヴァシ、ジェフ・ナサンソン

出演:トム・ハンクス、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、スタンリー・トゥッチ

   バリー・シャバカ・ヘンリー、シャイ・マクブライド、ディエゴ・ルナ

   ゾーイ・ソルダナ、クマール・パラーナ

撮影:ヤヌス・カミンスキー

音楽:ジョン・ウィリアムズ

 

 父の夢であったジャズクラブへ向かうため、ニューヨークへ降り立ったビクター。しかし、フライトの途中で母国が内戦状態になり、パスポートは無効化、彼自身も無国籍状態に陥ってしまう。入国ビザの取り消しとともに、空港に取り残されてしまうことになったビクター。言葉もわからないまま、父の意思を繋ぐための空港暮らしが始まる。

 

 ヒッチコックがそうであるように、スピルバーグもまた「映画とは何か」という問いを追求し続ける。彼の映画では常に「セリフ」ではなく「映像」が先行する。劇中で何かが立ち上る瞬間、湧き上がる瞬間、加速する瞬間、沈み込む瞬間、彼は「セリフ」ではなく「映像」でそれらを語ろうとする(そして語り切ってしまう)。

 

 本作は所謂「箱庭映画」だ。空港が象徴しているのはアメリカだ。様々な人種が行き交い、その多様性に豊かさを見出す“はず”の理想のアメリカ。9.11以降、その疑心暗鬼から排外主義が加速する混沌のアメリカ。空港の中で起こる数々のアクシデントとその着地を確認していくことで、スピルバーグが自国に対して、または世界に対して何を求めているのかが見えてくる。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 稼働し始める各国の名前が表示された反転フラップ式案内表機。流れる場内アナウンス。並ぶ星条旗。雪崩れ込む“様々な人種”の人たち。多様性でごった返すJFK空港という名の「アメリカ」。ひたすら騒がし本作の中で、スピルバーグの「映画的」な表現は炸裂し続ける。

 

 序盤、法の隙間からトワイライトゾーンに落ちたビクターは別室で尋問を受けることになる。傲慢な態度で、ビクターが何も理解できないことを承知しながら、それでも一方的に全てを説明する国境警備局主任のディクソン。自国の状況を“未知の言語”で一方的に説明されるビクターは、何も理解できないまま、空港の乗り継ぎロビーへと放り出されてしまう。この一連のシーン、空間設計やアクション、カメラの動きは全てビクターの内面や状況とシンクロするようにコントロールされており、究極的に「映画的」なシーンになっている。

 

 “閉鎖的”な部屋での尋問の後、“薄暗い”廊下を歩かされるビクター(これらの空間は当然彼の内面と状況を表している)。廊下の扉の先に待ち構える乗り継ぎのロビー。カメラは後ろからビクターを捉え、カットを割ることなく、彼の周りを周りなが、空港全体を捉える。突然の広い空間の提示により、ビクターの“小ささ”が強調される。ビクターを周回するそのカメラワークは、彼の足を“止め”ながら、同時に“止まらない人たち”を捉えることになる。目的地が決まっている人と目的地を見失った人の対比。この対照的なアクションを同一ショットに収めることで、ビクターの“孤独な状況”が“視覚的”により強調されることになる。

 

 カットが変わり、テレビからのニュースがビクターの耳に届く。カメラはニュースが耳に届かない人たちと、ビクターを同時に捉える(この対比)。言語がわからないままテレビの前に立つビクター。しかし、ニュースは次の内容へと変わる。それに応じて彼は、別のテレビを探し始める。映像だけを手掛かりにテレビからテレビへと空港内を移動するビクター。“高まる”緊張。それと呼応するように彼も舞台上を“高く”駆け上がる。VIPラウンジの前に立つビクター。自動ドアの開閉により情報は文字通り“遮断”され、彼の視界も文字通り“ぼやける”ことになる。

 

 例えば、もしこの一連のシーンが廊下を歩かずに乗り継ぎロビーから始まっていても、ストーリー上は何も問題はない。カメラがロビーで説明を受けるビクターだけを捉えていても何も問題はない。ビクターが本屋のテレビだけを見て全てを理解し涙していたとしても何も問題はない。または、彼の高まる緊張を空港全体に渡るアクションで表現せず、彼自身にセリフで「私は緊張しています」と言わせても、やはりストーリー上は問題ない。

 しかし、もしそうだとしたら、本作の持つ緊迫感は絶対に生まれていない。少しづつ開示される状況とそれに応じて変化していくアクションや空間がこの状況に“緊張感”を与えている。だからこそ観客はビクターに共感し、彼の恐怖を理解し、彼の喜怒哀楽に共鳴し、その後の彼の物語に目が離せなくなる。

 観客に集中してもらう為には、観客自身を主人公の人生に乗り込ませなければならない(全ての映画がそうではないが)。スピルバーグは本作で最も重要なこのシーンを、どこまでも映画的な表現で丁寧に扱っていく。

 

 他者の内面という本来なら視認できない情報を、視覚的な映画術(アクション、美術、カメラワーク)で観客に視認させるスピルバーグの圧倒的な手腕は、このシーン以降も冴え渡り続ける。

 

 中盤、空港内でとあるハプニングが発生する。言語の違いによる無理解とそこから生じる恐怖心の結果、攻撃的になっていく警備員達(ほぼ全員が銃に手をかけている)。明らかに悪化していく事態。そこに現れる言葉を用いてコミュニケーションを取ろうとするビクター。彼は言葉という“武力以外”の方法で事態を解決して見せる。

 英雄になったビクター。トイレから出てきた彼は“フードコート”を歩く。そんな彼を親愛と尊敬の眼差しで見つめる“様々な人種”の人々。映画は“多様な人種が必然的に集まるフードコートという空間”を利用し、そこをビクターに歩かせることで、テーマの“視覚化”を試みる。

 無理解で高圧的な態度ではなく、余白と理解のある歩み寄りの態度こそ解決の糸口になる。そこに人種の隔たりは必要ない。恐怖心を克服した先で、他者に示す信頼と尊敬の態度。時には「規定よりも理念こそが真に世界を良くするのではないか」というスピルバーグ映画の核がこのシーンでは表されている。

 

 「テーマが“視覚的”に立ち上る瞬間」はラストにも用意されている。

 

 終盤、ニューヨーク行きを諦めることにしたビクター。そんな彼をもう一度奮い立たせる、空港内の様々な人種・職業の人たち。巨大なジャンボジェットを塞ぐグプタ(その象徴的な構図)。ビクターのニューヨーク行きに集まりだす日本食の店員、中華料理人、その他多くの出自を持つ人たち。彼の肩にコートをかけるアフリカンアメリカンのレイ。そしてタクシーの運転手。この一連のシーンは、人種や職業、その他様々な隔たりを持つ小さな個人の小さな勇気の集まりやその連帯が、やがて大きな力となり、圧倒的に巨大な不条理を止めることができることを“映像的”に表現している。

 

 非常に映画的な技術と、現代的で素晴らしいメッセージが込められている本作。ただ、どうしても納得いかない部分がある(スピルバーグの社会派路線映画には常に引っ掛かる部分があるのだが)。それには空港の立地が関わっている。

 

 至極単純な話、誰もが知っている歴史的事実として、この空港は他者から一方的に奪った土地に建てられている。この空港が立つ遥か昔、そこには本作の登場人物たちが当然の権利だと思って享受しているのと同じように、友と笑い合い、恋人と愛し合い、新しい命に巡り合い、他者とつながり喜び合うという、かけがえのない日常が繰り広げられていたはずだ。しかし、本作にはその面影はどこにも見られない(例えば、空港従業員の中に、通常の職員よりも弱い立場で権利を守られていない非正規雇用のキャラクターを登場させ、そのキャストにアメリカ先住民を採用しても、ストーリーの大枠を越えることなく物語は作れたはずだ)。人様から盗んだ土地で多様性と権利を謳いながら、その裏側にある部分はパテで綺麗に塗り隠す本作の作りはどれだけ素晴らしいメッセージを発していたとしても、どうしても違和感を覚えてしまう(ぶっちゃけ、ここに違和感を感じるなという方が無理がある)。

 

 この細部に宿ってしまうスピルバーグ映画特有の違和感。この違和感が極に達するのが次回作の「ミュンヘン」だったりするわけだが、素晴らしいメッセージを含む映画が取りこぼす部分をどのように見つめるのか、その部分をどのような言葉で批評するのか(もしくは単に見ないふりをするのか)、そういったことはどうしても考えてしまう。映画は作品単体だけでは成り立たない。出来あがった作品を、作り手の考えだけで「完成」と捉えるのではなく、その映画が取り巻く諸々が、どういう問題を孕んでいるのかということを、可能な限り観客も考えなければならないと思う(観客は映画を観るだけになってしまわない方がいいと思う)。

 

 女性の描き方にも問題がある気がする(もちろん本作が作られた時代的な理由もある)。キャサリン・ゼタ=ジョーンズ演じるアメリアはキャラクター的な“広がり”はあれど、“奥行き”は与えられてはいない。繊細に扱われてはいるが、丁寧に描かれてはいない。彼女は複雑で様々な表情をみせるが、本質的には物語を進めるための装置でしかなく、本作のテーマに関わることを許されてはいない。「ダメ男に弱い」典型的な女性。行動原理が「恋」にのみ由来する女性。そのことに自覚的だが、そこから抜け出せない女性。アメリアには“男性が批評可能で優位性を保つことができる”塩梅の「女性像」しか用意されていない。もちろん、そういう人間がいてもまったく問題ではない。そういう女性を描くことも問題ではない。しかし、本作はアメリアのそれを「個性」として描けてはいない。彼女の行動や表情の機微は「主体的な意志」と言うより、「受動的な反応」でしかない(アメリアはアメリア以外の人にも交換可能な存在だ)。比べる意味があるかは別として、この辺の描き方の質の違いはヴァーホーベンの映画と見比べると一目瞭然だと思う(こういう現在の視点で過去の限界を指摘するのは傲慢だが、それを自覚した上でもそれは行われるべきだと思う)。

 

 文句めいたことも書いてしまったが、それでも自分は本作が本当に大好きだったりする。もちろんそれは圧倒的な映画術や、魅力的な登場人物たち、大切なメッセージによるものが大きかったりするわけだが、それとは別にあるもう一つの理由が、ラストの映画的な“飛躍”だ。

 

 先述した通り、本作は「箱庭映画」だ。限定的な空間で物語が始まり、進行し、そして終わる。この一貫性のあるパッケージングが最も美しいのは言うまでもない。しかし、本作は空港から一歩踏み出したビクターをその後も追い続け、ついにはジャズクラブにたどり着いてしまう。映画的にいえばこれは間違いなく“無粋”だ。しかし、自分はこの演出に心打たれてしまう。

 過去から現在に至る作り手達の中で、スピルバーグは誰よりも映画を知り尽くしている。映画にとって何が最も美しい演出かも知り尽くしている。何が有効かも知り尽くしている。それでも彼がビクターをジャズクラブに導いたのは、映画の「完成度」よりも「ビクターの意志」を優先したからだ。このシーンは、登場人物を「駒」として扱うのではなく、そこで生きている「個人」と捉えるからこそ生まれるものだ。この誠実さこそ本作の最大の魅力だと思う。

 

 欠点はいくつもある。それでも本作は凄まじい。そんな感じ。傑作。

 

※現在進行形でこの映画の理想は敗れ続けている。

※序盤の中国人のシーンは、このテーマを考えるとどうかと思う。

※数少ない女性主要キャラのドロレスは、演じるゾーイ・サルダナの雰囲気も相待って「意思のある強い女性」のように見えるが、本質的には主体性の薄い“待ちのキャラクター”だと思う。彼女が受ける“好意”の連続ははっきり言ってハラスメントであり、今見ると「フツーにダルいし最悪だな」と思ってしまう。

※アメリアが尋問されるシーン。個室で男性二人に囲まれる一人の女性という構図は非常に危うさがあり、この状況に対する批評をアメリアが行なっていれば、もう少し彼女に奥行きが出たと思う。

※役者さんは全員素晴らしかった。

※国境警備局主任のディクソンに関して、初見時(たしか中学生)は彼の行動原理が弱すぎるため「こいつなんでこんな感じなん?メリットなくね?無理やり悪役にさせられてない?」と思っていたが、現在のアメリカの状況を考えると「プライドだけが行動原理」のディクソンのキャラクターに強いリアリティを感じてしまった。

※スピルバーグは映画を撮るのが上手すぎる。

 

 

ラ・ヨローナ〜彷徨う女〜(2018)

『ラ・ヨローナ〜彷徨う女〜』

原題:La Llorona

監督:ハイロ・ブスタマンテ

脚本:ハイロ・ブスタマンテ、リサンドロ・サンチェス

出演:マリア・メルセデス・コロイ、サブリナ・デ・ラ・ホス、マリア・テロン、マルガリタ・ケネフィック

撮影:ニコラス・ウォン

音楽:パスカル・レイズ

 

 グアテマラ軍事政権が起こした先住民の大虐殺から数十年。虐殺を指揮したとして裁判にかけられていた当時の将軍エンリケは、夜中自宅で女の「声」に悩まされる日々を送っていた。一度は有罪を受けたものの、判決の差し戻しにより刑を免れたエンリケ。事実上の勝利に安堵したエンリケ一家は新たな使用人の「マリア」を迎え入れるのだが……。

 

 軍事作戦は、国防関係の諸機関の事前の完全な承認と参加・支援のうえで遂行された。陸軍及び空軍ならびにその他の地域から動員された部隊が、非戦闘員を対象に暴力を行使していった。攻撃パターンはジェノサイドを特徴づけるものである。まず共同体の指導者を公の場で拷問のうえ殺害し、集団の抵抗力を奪った。絶滅・大量破壊作戦では、女性・子供・老人も含まれ、拷問と集団的レイプの行使ののちに殺害が執行され、避難民への追撃が空爆を伴う形で行われ、集団メンバー間の社会凝集性が根本から破壊された。さらに、集団の社会構造の再建のあらゆる可能性を打ち砕く試みが行われた(CEH Tomo Ⅲ.417)

 

 上記の文章は「三田学会雑誌 94巻 4号」に掲載されていた狐崎知己の「グアテマラにおける真実と正義に関する一考察 −癒しと和解に向けて−」からの抜粋だ(さらに言えば、狐崎が真相究明委員会から提出された報告書を翻訳したものだ)。

 

 1961年から1996年の間、グアテマラは内戦状態にあった。死者・行方不明者20万人以上、国内避難民150万人、国外難民15万人、600を超える村落が地上から消滅した。死者・行方不明者の80%以上がマヤ先住民族、非戦闘員90%、そして加害責任の90%以上がラディーノ(非先住民族)を中心とする国家機関(軍、治安維持期間、自警団)にあると認定された(軍に強制されたマヤ人によるマヤ人殺戮も常態化した)。政府の言い分は「対ゲリラ作戦」だった。その真意はどうあれ、大量虐殺の場にもなった北部横断地帯には石油などの資源が豊富にあったことが確認されている。政府とURNG(グアテマラ革命民族連合)の和平協定の後、ジェノサイドの最高指揮官であったリオス・モントは禁固80年の有罪判決を受ける。その後、手続き不備を理由に判決は差し戻され、訴訟を率いた検事総長は当時の政府関係者からの圧力により亡命するに至る。裁判の進展はなく、2018年にリオス・モントは法の下に裁かれないまま心筋梗塞により自宅で死亡している。彼が本作の中心にいる将軍エンリケのモデルでもある。

 

 本作は現実では成し遂げられなかった多くの“せめてもの達成”を試みる作品だ。記憶をなぞることすら叶わないほどの忌まわしい過去。形容できる言葉を見つけられないほどの悲惨な過去。癒しなど到底存在しないほどの痛ましい過去。その過去の延長線上でかろうじて記憶を繋ぎ続ける被害者達。真の意味での救済などあり得ないほどの圧倒的な現実の中で、それでも「せめてフィクションの中だけでも」犠牲者や遺族の痛み、苦しみ、勇気、怒り、魂の救済が達成されて欲しいという願いが本作には溢れている。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 ラディーノの囁くような声と祈りの儀式から本作は始まる。終盤、儀式は役割と意味を変え、今度はマヤの声と言葉としてもう一度繰り返される。作り手が本作に託した全てがここに詰まっている(これは後述する)。

 

 無罪を勝ち取るための祈りの後、廊下の先にある玄関で別れを惜しむ支配者達。カットが変わり、同ショットで時間経過が示された後、マヤ民族の使用人達が灯りを消し、屋敷は夜を迎える。このショットはグアテマラ社会の縮図と歴史の一端を映し出している。

 

 この演出が示す通り、本作は寡黙でありながら非常に雄弁な映画だ。長いショット(または少ないカット)の中で起こる登場人物の行動(と、その変化)や感情の揺らぎを捉え、説明的なセリフを排し、その背後にある語るべき物語を“構図”で語る(人によっては構図に頼りすぎだと感じるかもしれない)。

 

 例えばこんなシーンがある。

 

 自宅で休息を取るエンリケ。カメラは彼の横顔を捉えながら徐々にズームアウトする。背後のカーテンが風に揺らぐ。“何か”が屋敷に入ってきたことが“構図”によって示される(次のシーンで屋敷に招かれるのは誰か)。

 

 またはこんなシーンがある。

 

 真夜中、とあることがきっかけで呆然と階段に佇む三世代の女性たち。世代ごとにそれぞれの行き先にフレームアウトし、取り残される“間”の世代。グアテマラに残る根強い男尊女卑とその社会で生きる過酷さが“構図”で示される(この三世代が階段に佇むことになった理由はなにか)。

 

 映画というメディアはカットを割ることで、その場の空気や緊張感をリセットすることが可能だが、長いショットではそれが機能しにくい(作り手はそれを機能させないようにしている)。本作はカットを割るという行為を粘り強く我慢することで、その場の空気を捉える。そしてそれは、登場人物たちの無力感や、苦しみ、痛み、恐怖、またはホラー映画の側面としての緊迫感などをより強く作り出す効果を果たし、その結果、テーマはより鮮明に画面に現れる。

 

 本作は用意周到な映画でもある。先述した冒頭の祈りがそうであるように、過去のアクションやカメラワークが意味を変え別の人物によって繰り返されるつくりになっている(そしてそれには明確な意図がある)。

 

 冒頭の声の主とは異なる「囁き声」を聞いたエンリケは、銃を手に屋敷内を歩き回る。背後の気配を感じ咄嗟に発砲するエンリケだが、気配の先にいたのは妻のカルメンだった。このアクションは終盤でマリア(エンリケにはそう見えている)を標的にして繰り返される(カルメンとマリアの服装のデザインは明らかに寄せられており、孫娘のサラには「あんな服が着たい」というセリフが用意されている)。

 

 場面が変わり裁判のシーン。冒頭の支配者達の「無罪のための祈り」と“全く同じカメラワーク”で、今度は被害者達の「記憶」が語られる。支配者達が保身のために垂れ流した流暢な祈りと違い、語ることすら強烈な痛みと恐怖を伴う過去を捉えた言葉達が、ゆっくりと慎重に小さく紡がれていく(おそらく、観客ができる最大限の想像すら遥かに飛び越してしまうほどの恐怖だと思う)。

 

 マリアは水に顔を沈め、サラもその行動をなぞり、行方不明者のチラシは水面に揺れる。戦地で子供を連れ去った兵士は、屋敷の中で子供に連れ去られる。

 

 違う人物によって重ねられる同じアクション。こういったアクションで韻を踏むような演出は映画において珍しいものではない。が、本作の場合はこの演出が作品の根幹に深く関わっている。その意図は終盤、カルメンの夢とエンリケの結末に託されて画面上に現れる。

 

 自身が持つ「確信」に気づかないふりをし続けていたエンリケの妻カルメンは夢を見るようになる。そこでカルメンはマリアと同じ白い服を見に纏い、藪の中を子供二人の手を引いて必死に逃げ回る。必死の想いで小屋に逃げ込み、息を殺し身を潜める三人。しかし、カルメンは恐怖のあまり失禁と共に目を覚ます。夢は次の日も続く。小屋へ逃げた三人を引き剥がす政府軍の兵士。銃声と叫び声が響き渡り、彼女を現実に呼び戻す。涙を流すカルメン。彼女は遠ざけていた「確信」から逃げられなくなる。

 

 黒い魔術が屋敷に侵入する。

 

 真夜中、何かの気配を感じたエンリケはその跡を追いプールにたどり着く。水の中にいるマリア(エンリケにはそう見えている)に発砲するエンリケ。肩から血を流し、プールから助け出される孫娘のサラ(先述した通り、序盤のアクションが人物と意味を変えて繰り返されている)。無数の死者の魂が彼らを捉える。祈りの儀式が今度は「マヤ」の声と言葉で始まる(冒頭の反復だ)。儀式の最中、またしても夢を見るカルメン。彼女はマリアの見た景色の“全て”を追体験する。そして彼女は夫のエンリケを手にかける。おそらくは、史実と同じであろう光景に見守られながらエンリケの棺が運ばれていく。

 

 作り手は、異なる者たちの意味を変えた同じアクションを執拗に描くことで、犠牲者たちの奪われた「尊厳」を取り返そうとしている。繰り返しの演出によって、現実では叶わなかったことを、せめてフィクションの中だけでも達成しようとする(そんなことは絶対に不可能だと知りつつ、それでもそれも試みている)。

 

 自身の声と言葉では安息を得られないと知った支配者たちは、被支配者たちの声と言葉を借りそれを得ようとする。虐殺を無かったことにしようと祈りに勤しんでいた者たちが、虐殺された者たちの言葉と声で祈りはじめる。先住民族の存在を許さなかった者たちが、その存在に赦しを求める。先住民族を蔑み自分たちより劣った存在だと認識していた者達が、先住民族の声、言葉、儀式、歴史、それらを全て含めた「文化」に頼ろうとする。この構図それ自体が、先述した作り手の試みの一端だといえる(だからこそ、作り手はこの物語に「ラ・ジョローナ」を採用したのだ)。

 

 繰り返されるアクションは、犠牲者たちを虐殺者たちと同じ地平に下ろすことなく(犠牲者たちの手を汚すことなく)、現実で叶わなかった復讐を代行してみせる(この見方が正しいかは正直わからない)。

 

 暴力の矛先が自身に向けられることの恐ろしさ、それが自身の子供に向けられることの恐ろしさ、追われる恐ろしさ、家を焼かれる恐ろしさ、水に沈められる恐ろしさ、子供を目の前で殺される恐ろしさ、そして自分が殺される恐ろしさ、犠牲者が体験したその全てを、支配者たちは現実と夢の中その両方で、「自身の手で」追体験することを強いられる(意味と人物を変えた繰り返されるアクションがそれを支配者たちに強制する)。

 他者から罪を糾弾されるのではなく、他者から同じような暴力を受けるのでもなく、「自身の手」でその暴力を経験する。そうすれば、自身が起こした非道に少しでも気づいてもらえるのではないか。現実では認めようとしなかった罪を認めてくれるのではないか。現実では持つことすらなかった罪の意識を、映画でなら持たせることが出来るのではないか。これを復讐と呼んでいいのかはわからないが、本作にはそのような意図がある気がしてならなかった。

 

 本作はフェミニズム的な要素を多分に含んでいる。これは監督の前作である「火の山のマリア」から一貫しており、グアテマラ社会・文化の負の側面(というか世界中に存在する負の側面)を見つめる監督の姿勢が表れている部分でもある。ただ、個人的に、今回ばかりはこの部分をどう評価していいのかわからなくなってしまっている。

 

 先述した階段での三世代のショット。その中心で最後までその場に残されることになったエンリケの娘であるナタリア。医者である彼女は作中の体勢側の人間の中でも良識派として描かれる。ナタリアは過去に深く足を踏み入れることは避けつつも、虐殺はなかったと言う父や母の主張に疑いを持っている。彼女は家父長的な父親の振る舞いに対し、知的で冷静に立ち振る舞う。相手の神経を逆撫ですることなく、強く批判することもなく、それでも自身の意見を普段の会話の中に滑り込ませる。彼女のこのキャラクター造形自体が、グアテマラで女性が主体性や意見を持って生きていくことの困難さを表しており、それと同時に、先の内戦の原因の一部に「マッチョイズム」を見た監督なりの社会批評でもある。個人的に監督のその社会批評は間違っていないと思ったりもする。

 

 ただ、その批評をナタリアに託したのが、本作の評価をややこしいものにしている(俺の中で)。エンリケの娘であるナタリアのモデルは、リオス・モントの娘であるズリー・リオスだと思われるが、劇中のナタリアと違い、ズリー・リオスは積極的に極右活動を行っていた政治家であり、虐殺の存在を認めていない人間の一人だ。

 

 果たして、本作においてナタリアのキャラクター造形は本当に可能だったのであろうか(もちろん可能ではあるのだがそう言う意味ではなく)。

 本作は、実際の虐殺を扱っている。実際の痛み、苦しみ、悲しみを扱っている。実在する犠牲者・被害者・遺族の声を扱っている。つまり、本作を作り上げると言う行為それ自体が、現実の犠牲者・被害者・遺族に痛みを強いる、そうならざる得ない種類の作品だ(そうならざる得ない出来事を扱っているからだ)。その中で、ナタリアを(つまりはズリー・リオスを)あのようなキャラクターにすることは正しい判断だったのだろうか。内戦の背後に透けて見える社会的病理を批評的に捉えるために行なったフィクショナルな「改変」が犠牲者にさらなる苦しみを強いることになっていないか。この改変は誠実なものと言えるのか。そんなことをどうしても考えてしまった(自分が下駄を履かせてもらっている性別であることを踏まえた上で、それでも)。

 

 ただ、もしナタリアをあのようなキャラクターとして描いていなければ、グアテマラ社会(ひいてはこの世界)の病理と虐殺を結びつけて批評することはできなかったかもしれない。または、これは完全に「たられば」だが、ナタリアをあの立場に配置するバランス感覚があったからこそ、本作はより商業的な「見やすさ」を獲得し、世界に届けらたのかもしれない。実際、この作品が存在し、ナタリアのキャラクター造形があのようなものだったからこそ、自分はグアテマラの内戦について勉強し、同国で女性が置かれている社会的・文化的立場を調べることにしたわけだ(恥ずかしながら本作に出会わなければグアテマラのことは知らないままだったろうと思う)。

 これは、スピルバーグの「シンドラーのリスト」に対する問題意識にも似ている気がする。あの映画がホロコーストの存在をより世界に広めたのは事実だ。ただ、あの映画が犠牲者の痛みを小手先の「スペクタクル」で扱ってしまったのも紛れも無い事実だ(それでも個人的には「シンドラーのリスト」は見るべき映画だと思っている)。「シンドラーのリスト」に限らず、史実を扱った映画では大なり小なり、このような問題意識にぶつかってしまう。大枠での答えは出そうにないが、作品ごとに分けて、一つ一つ考えていくしかないと思った。

 

 ともあれ、素晴らしい作品だったと思う。扱う題材やテーマもさることながら、映画としてのレベルも非常に高いものだった(この作品をこのような言葉で扱うことに躊躇はあるが)。間違いなく作り手は、真実と正義の先にある平和を願っている。傑作。

 

※グアテマラの内戦はアメリカが大きく関わっている。映画だけでは分かりにくいが、その外側ではユナイテッド・フルーツ・カンパニーというアメリカの大企業が、自社の利益のためにグアテマラの国力を弱め、国内の情勢悪化や混乱に一役買っていたことは指摘しておきたい(アメリカは当時の軍事政権も支援している)。 

※先述した問題意識については「シンドラーのリスト」よりも「ミュンヘン」の方がより適切な例えだったかもしれない。「ミュンヘン」は非常にレベルの高い映画だ。暴力の野蛮さ、無意味さ、悲惨さを圧倒的な「映画術」で描き、その先の平和を願った素晴らしい映画だと言える。しかし、スピルバーグのような世界的影響力を持つ特権的な人間が、パレスチナとイスラエルの関係を、あのようなテクニックと結論で描くのは、例えあの映画が本当に平和を願った作品だったとしても、長い侵略の歴史の中にある問題の本質をぼかし、責任の所在を意図的(または映画的)に分配にする卑怯なやり方とも言える。しかし、あのように日和見で中途半端(または浅はか)な描き方だったからこそ、あの映画は成立し、全世界に発信することができたわけで、あの映画が公開されたからこそ、両国の歴史に触れようと思った人間も少なく無いはずだ。また、あの作品のあとのスピルバーグへのイスラエル側からの圧力は相当のものだったとされている(あの程度の描き方でも圧力があるわけだ)。引き受けることが可能なレベルのリスクを見極めた先に完成した映画を、リスクを負っていない人間がどのような言葉で批評すればいいのかと考えてしまったりもするが、やはり一つ一つ検討していくしか無いとも思った。

※ラディーノとは非先住民族のことだ。コンキスタドール(スペイン征服者)と現地人の混血のことでもある。ラディーノとは非インディヘナのことであり、非マヤ民族のことだ。ラディーノとはグアテマラにおける社会的・文化的または政治的支配階級のことだ。現在ラディーノを定義付けることは非常に困難だとされている(特に人種的な定義は不可能と考えられている)が、一つ言えるのは、ラディーノが虐殺された側ではないということだ。