
『ラ・ヨローナ〜彷徨う女〜』
原題:La Llorona
監督:ハイロ・ブスタマンテ
脚本:ハイロ・ブスタマンテ、リサンドロ・サンチェス
出演:マリア・メルセデス・コロイ、サブリナ・デ・ラ・ホス、マリア・テロン、マルガリタ・ケネフィック
撮影:ニコラス・ウォン
音楽:パスカル・レイズ
グアテマラ軍事政権が起こした先住民の大虐殺から数十年。虐殺を指揮したとして裁判にかけられていた当時の将軍エンリケは、夜中自宅で女の「声」に悩まされる日々を送っていた。一度は有罪を受けたものの、判決の差し戻しにより刑を免れたエンリケ。事実上の勝利に安堵したエンリケ一家は新たな使用人の「マリア」を迎え入れるのだが……。
軍事作戦は、国防関係の諸機関の事前の完全な承認と参加・支援のうえで遂行された。陸軍及び空軍ならびにその他の地域から動員された部隊が、非戦闘員を対象に暴力を行使していった。攻撃パターンはジェノサイドを特徴づけるものである。まず共同体の指導者を公の場で拷問のうえ殺害し、集団の抵抗力を奪った。絶滅・大量破壊作戦では、女性・子供・老人も含まれ、拷問と集団的レイプの行使ののちに殺害が執行され、避難民への追撃が空爆を伴う形で行われ、集団メンバー間の社会凝集性が根本から破壊された。さらに、集団の社会構造の再建のあらゆる可能性を打ち砕く試みが行われた(CEH Tomo Ⅲ.417)
上記の文章は「三田学会雑誌 94巻 4号」に掲載されていた狐崎知己の「グアテマラにおける真実と正義に関する一考察 −癒しと和解に向けて−」からの抜粋だ(さらに言えば、狐崎が真相究明委員会から提出された報告書を翻訳したものだ)。
1961年から1996年の間、グアテマラは内戦状態にあった。死者・行方不明者20万人以上、国内避難民150万人、国外難民15万人、600を超える村落が地上から消滅した。死者・行方不明者の80%以上がマヤ先住民族、非戦闘員90%、そして加害責任の90%以上がラディーノ(非先住民族)を中心とする国家機関(軍、治安維持期間、自警団)にあると認定された(軍に強制されたマヤ人によるマヤ人殺戮も常態化した)。政府の言い分は「対ゲリラ作戦」だった。その真意はどうあれ、大量虐殺の場にもなった北部横断地帯には石油などの資源が豊富にあったことが確認されている。政府とURNG(グアテマラ革命民族連合)の和平協定の後、ジェノサイドの最高指揮官であったリオス・モントは禁固80年の有罪判決を受ける。その後、手続き不備を理由に判決は差し戻され、訴訟を率いた検事総長は当時の政府関係者からの圧力により亡命するに至る。裁判の進展はなく、2018年にリオス・モントは法の下に裁かれないまま心筋梗塞により自宅で死亡している。彼が本作の中心にいる将軍エンリケのモデルでもある。
本作は現実では成し遂げられなかった多くの“せめてもの達成”を試みる作品だ。記憶をなぞることすら叶わないほどの忌まわしい過去。形容できる言葉を見つけられないほどの悲惨な過去。癒しなど到底存在しないほどの痛ましい過去。その過去の延長線上でかろうじて記憶を繋ぎ続ける被害者達。真の意味での救済などあり得ないほどの圧倒的な現実の中で、それでも「せめてフィクションの中だけでも」犠牲者や遺族の痛み、苦しみ、勇気、怒り、魂の救済が達成されて欲しいという願いが本作には溢れている。
(以下、ネタバレあり)
ラディーノの囁くような声と祈りの儀式から本作は始まる。終盤、儀式は役割と意味を変え、今度はマヤの声と言葉としてもう一度繰り返される。作り手が本作に託した全てがここに詰まっている(これは後述する)。
無罪を勝ち取るための祈りの後、廊下の先にある玄関で別れを惜しむ支配者達。カットが変わり、同ショットで時間経過が示された後、マヤ民族の使用人達が灯りを消し、屋敷は夜を迎える。このショットはグアテマラ社会の縮図と歴史の一端を映し出している。
この演出が示す通り、本作は寡黙でありながら非常に雄弁な映画だ。長いショット(または少ないカット)の中で起こる登場人物の行動(と、その変化)や感情の揺らぎを捉え、説明的なセリフを排し、その背後にある語るべき物語を“構図”で語る(人によっては構図に頼りすぎだと感じるかもしれない)。
例えばこんなシーンがある。
自宅で休息を取るエンリケ。カメラは彼の横顔を捉えながら徐々にズームアウトする。背後のカーテンが風に揺らぐ。“何か”が屋敷に入ってきたことが“構図”によって示される(次のシーンで屋敷に招かれるのは誰か)。
またはこんなシーンがある。
真夜中、とあることがきっかけで呆然と階段に佇む三世代の女性たち。世代ごとにそれぞれの行き先にフレームアウトし、取り残される“間”の世代。グアテマラに残る根強い男尊女卑とその社会で生きる過酷さが“構図”で示される(この三世代が階段に佇むことになった理由はなにか)。
映画というメディアはカットを割ることで、その場の空気や緊張感をリセットすることが可能だが、長いショットではそれが機能しにくい(作り手はそれを機能させないようにしている)。本作はカットを割るという行為を粘り強く我慢することで、その場の空気を捉える。そしてそれは、登場人物たちの無力感や、苦しみ、痛み、恐怖、またはホラー映画の側面としての緊迫感などをより強く作り出す効果を果たし、その結果、テーマはより鮮明に画面に現れる。
本作は用意周到な映画でもある。先述した冒頭の祈りがそうであるように、過去のアクションやカメラワークが意味を変え別の人物によって繰り返されるつくりになっている(そしてそれには明確な意図がある)。
冒頭の声の主とは異なる「囁き声」を聞いたエンリケは、銃を手に屋敷内を歩き回る。背後の気配を感じ咄嗟に発砲するエンリケだが、気配の先にいたのは妻のカルメンだった。このアクションは終盤でマリア(エンリケにはそう見えている)を標的にして繰り返される(カルメンとマリアの服装のデザインは明らかに寄せられており、孫娘のサラには「あんな服が着たい」というセリフが用意されている)。
場面が変わり裁判のシーン。冒頭の支配者達の「無罪のための祈り」と“全く同じカメラワーク”で、今度は被害者達の「記憶」が語られる。支配者達が保身のために垂れ流した流暢な祈りと違い、語ることすら強烈な痛みと恐怖を伴う過去を捉えた言葉達が、ゆっくりと慎重に小さく紡がれていく(おそらく、観客ができる最大限の想像すら遥かに飛び越してしまうほどの恐怖だと思う)。
マリアは水に顔を沈め、サラもその行動をなぞり、行方不明者のチラシは水面に揺れる。戦地で子供を連れ去った兵士は、屋敷の中で子供に連れ去られる。
違う人物によって重ねられる同じアクション。こういったアクションで韻を踏むような演出は映画において珍しいものではない。が、本作の場合はこの演出が作品の根幹に深く関わっている。その意図は終盤、カルメンの夢とエンリケの結末に託されて画面上に現れる。
自身が持つ「確信」に気づかないふりをし続けていたエンリケの妻カルメンは夢を見るようになる。そこでカルメンはマリアと同じ白い服を見に纏い、藪の中を子供二人の手を引いて必死に逃げ回る。必死の想いで小屋に逃げ込み、息を殺し身を潜める三人。しかし、カルメンは恐怖のあまり失禁と共に目を覚ます。夢は次の日も続く。小屋へ逃げた三人を引き剥がす政府軍の兵士。銃声と叫び声が響き渡り、彼女を現実に呼び戻す。涙を流すカルメン。彼女は遠ざけていた「確信」から逃げられなくなる。
黒い魔術が屋敷に侵入する。
真夜中、何かの気配を感じたエンリケはその跡を追いプールにたどり着く。水の中にいるマリア(エンリケにはそう見えている)に発砲するエンリケ。肩から血を流し、プールから助け出される孫娘のサラ(先述した通り、序盤のアクションが人物と意味を変えて繰り返されている)。無数の死者の魂が彼らを捉える。祈りの儀式が今度は「マヤ」の声と言葉で始まる(冒頭の反復だ)。儀式の最中、またしても夢を見るカルメン。彼女はマリアの見た景色の“全て”を追体験する。そして彼女は夫のエンリケを手にかける。おそらくは、史実と同じであろう光景に見守られながらエンリケの棺が運ばれていく。
作り手は、異なる者たちの意味を変えた同じアクションを執拗に描くことで、犠牲者たちの奪われた「尊厳」を取り返そうとしている。繰り返しの演出によって、現実では叶わなかったことを、せめてフィクションの中だけでも達成しようとする(そんなことは絶対に不可能だと知りつつ、それでもそれも試みている)。
自身の声と言葉では安息を得られないと知った支配者たちは、被支配者たちの声と言葉を借りそれを得ようとする。虐殺を無かったことにしようと祈りに勤しんでいた者たちが、虐殺された者たちの言葉と声で祈りはじめる。先住民族の存在を許さなかった者たちが、その存在に赦しを求める。先住民族を蔑み自分たちより劣った存在だと認識していた者達が、先住民族の声、言葉、儀式、歴史、それらを全て含めた「文化」に頼ろうとする。この構図それ自体が、先述した作り手の試みの一端だといえる(だからこそ、作り手はこの物語に「ラ・ジョローナ」を採用したのだ)。
繰り返されるアクションは、犠牲者たちを虐殺者たちと同じ地平に下ろすことなく(犠牲者たちの手を汚すことなく)、現実で叶わなかった復讐を代行してみせる(この見方が正しいかは正直わからない)。
暴力の矛先が自身に向けられることの恐ろしさ、それが自身の子供に向けられることの恐ろしさ、追われる恐ろしさ、家を焼かれる恐ろしさ、水に沈められる恐ろしさ、子供を目の前で殺される恐ろしさ、そして自分が殺される恐ろしさ、犠牲者が体験したその全てを、支配者たちは現実と夢の中その両方で、「自身の手で」追体験することを強いられる(意味と人物を変えた繰り返されるアクションがそれを支配者たちに強制する)。
他者から罪を糾弾されるのではなく、他者から同じような暴力を受けるのでもなく、「自身の手」でその暴力を経験する。そうすれば、自身が起こした非道に少しでも気づいてもらえるのではないか。現実では認めようとしなかった罪を認めてくれるのではないか。現実では持つことすらなかった罪の意識を、映画でなら持たせることが出来るのではないか。これを復讐と呼んでいいのかはわからないが、本作にはそのような意図がある気がしてならなかった。
本作はフェミニズム的な要素を多分に含んでいる。これは監督の前作である「火の山のマリア」から一貫しており、グアテマラ社会・文化の負の側面(というか世界中に存在する負の側面)を見つめる監督の姿勢が表れている部分でもある。ただ、個人的に、今回ばかりはこの部分をどう評価していいのかわからなくなってしまっている。
先述した階段での三世代のショット。その中心で最後までその場に残されることになったエンリケの娘であるナタリア。医者である彼女は作中の体勢側の人間の中でも良識派として描かれる。ナタリアは過去に深く足を踏み入れることは避けつつも、虐殺はなかったと言う父や母の主張に疑いを持っている。彼女は家父長的な父親の振る舞いに対し、知的で冷静に立ち振る舞う。相手の神経を逆撫ですることなく、強く批判することもなく、それでも自身の意見を普段の会話の中に滑り込ませる。彼女のこのキャラクター造形自体が、グアテマラで女性が主体性や意見を持って生きていくことの困難さを表しており、それと同時に、先の内戦の原因の一部に「マッチョイズム」を見た監督なりの社会批評でもある。個人的に監督のその社会批評は間違っていないと思ったりもする。
ただ、その批評をナタリアに託したのが、本作の評価をややこしいものにしている(俺の中で)。エンリケの娘であるナタリアのモデルは、リオス・モントの娘であるズリー・リオスだと思われるが、劇中のナタリアと違い、ズリー・リオスは積極的に極右活動を行っていた政治家であり、虐殺の存在を認めていない人間の一人だ。
果たして、本作においてナタリアのキャラクター造形は本当に可能だったのであろうか(もちろん可能ではあるのだがそう言う意味ではなく)。
本作は、実際の虐殺を扱っている。実際の痛み、苦しみ、悲しみを扱っている。実在する犠牲者・被害者・遺族の声を扱っている。つまり、本作を作り上げると言う行為それ自体が、現実の犠牲者・被害者・遺族に痛みを強いる、そうならざる得ない種類の作品だ(そうならざる得ない出来事を扱っているからだ)。その中で、ナタリアを(つまりはズリー・リオスを)あのようなキャラクターにすることは正しい判断だったのだろうか。内戦の背後に透けて見える社会的病理を批評的に捉えるために行なったフィクショナルな「改変」が犠牲者にさらなる苦しみを強いることになっていないか。この改変は誠実なものと言えるのか。そんなことをどうしても考えてしまった(自分が下駄を履かせてもらっている性別であることを踏まえた上で、それでも)。
ただ、もしナタリアをあのようなキャラクターとして描いていなければ、グアテマラ社会(ひいてはこの世界)の病理と虐殺を結びつけて批評することはできなかったかもしれない。または、これは完全に「たられば」だが、ナタリアをあの立場に配置するバランス感覚があったからこそ、本作はより商業的な「見やすさ」を獲得し、世界に届けらたのかもしれない。実際、この作品が存在し、ナタリアのキャラクター造形があのようなものだったからこそ、自分はグアテマラの内戦について勉強し、同国で女性が置かれている社会的・文化的立場を調べることにしたわけだ(恥ずかしながら本作に出会わなければグアテマラのことは知らないままだったろうと思う)。
これは、スピルバーグの「シンドラーのリスト」に対する問題意識にも似ている気がする。あの映画がホロコーストの存在をより世界に広めたのは事実だ。ただ、あの映画が犠牲者の痛みを小手先の「スペクタクル」で扱ってしまったのも紛れも無い事実だ(それでも個人的には「シンドラーのリスト」は見るべき映画だと思っている)。「シンドラーのリスト」に限らず、史実を扱った映画では大なり小なり、このような問題意識にぶつかってしまう。大枠での答えは出そうにないが、作品ごとに分けて、一つ一つ考えていくしかないと思った。
ともあれ、素晴らしい作品だったと思う。扱う題材やテーマもさることながら、映画としてのレベルも非常に高いものだった(この作品をこのような言葉で扱うことに躊躇はあるが)。間違いなく作り手は、真実と正義の先にある平和を願っている。傑作。
※グアテマラの内戦はアメリカが大きく関わっている。映画だけでは分かりにくいが、その外側ではユナイテッド・フルーツ・カンパニーというアメリカの大企業が、自社の利益のためにグアテマラの国力を弱め、国内の情勢悪化や混乱に一役買っていたことは指摘しておきたい(アメリカは当時の軍事政権も支援している)。
※先述した問題意識については「シンドラーのリスト」よりも「ミュンヘン」の方がより適切な例えだったかもしれない。「ミュンヘン」は非常にレベルの高い映画だ。暴力の野蛮さ、無意味さ、悲惨さを圧倒的な「映画術」で描き、その先の平和を願った素晴らしい映画だと言える。しかし、スピルバーグのような世界的影響力を持つ特権的な人間が、パレスチナとイスラエルの関係を、あのようなテクニックと結論で描くのは、例えあの映画が本当に平和を願った作品だったとしても、長い侵略の歴史の中にある問題の本質をぼかし、責任の所在を意図的(または映画的)に分配にする卑怯なやり方とも言える。しかし、あのように日和見で中途半端(または浅はか)な描き方だったからこそ、あの映画は成立し、全世界に発信することができたわけで、あの映画が公開されたからこそ、両国の歴史に触れようと思った人間も少なく無いはずだ。また、あの作品のあとのスピルバーグへのイスラエル側からの圧力は相当のものだったとされている(あの程度の描き方でも圧力があるわけだ)。引き受けることが可能なレベルのリスクを見極めた先に完成した映画を、リスクを負っていない人間がどのような言葉で批評すればいいのかと考えてしまったりもするが、やはり一つ一つ検討していくしか無いとも思った。
※ラディーノとは非先住民族のことだ。コンキスタドール(スペイン征服者)と現地人の混血のことでもある。ラディーノとは非インディヘナのことであり、非マヤ民族のことだ。ラディーノとはグアテマラにおける社会的・文化的または政治的支配階級のことだ。現在ラディーノを定義付けることは非常に困難だとされている(特に人種的な定義は不可能と考えられている)が、一つ言えるのは、ラディーノが虐殺された側ではないということだ。