テイク・ディス・ワルツ(2011)

 

テイク・ディス・ワルツ

原題:Take This Waltz

監督:サラ・ポーリー

脚本:サラ・ポーリー

出演:ミシェル・ウィリアムズセス・ローゲン、ルーク・カービー、サラ・シルヴァーマン

 

 結婚生活5年目のマーゴ(ミシェル・ウィリアムズ)。夫のルー(セス・ローゲン)との関係も良好で、日々幸せに暮らしていた。そんなある日、仕事の取材先でダニエル(ルーク・カービー)という青年と出会う。ルーに対するときめきが薄れつつあることを感じていた彼女は、次第にダニエルに惹かれてしまい・・・。

 

 サラ・ポーリーは優しい。

 映画はこれまで、様々な関係性や状況下での「人を好きになるということ」を描いてきた。それは例えば、「容疑者と警察署長の娘が真犯人を探している道中」だったり、「犯罪心理学者がモデルの為に犯罪を隠蔽しようとするアパートの一室」だったり、「FAと国に帰れない男と空港」だったりするわけだが、それらのロマンスは置かれた状況によってジャンル分けされ、登場人物たちはそこで選ぶ行動や態度によって、作り手と観客から人間性をジャッジされてきた。

 一般的に初恋や一途な愛は「良いこと」とされ、浮気や不倫は「悪いこと」とされている。実際、後者は最も敬意を払うべき相手への尊敬の念を欠いた裏切り行為だ。今作の主人公・マーゴも配偶者がいる上で、心惹かれる男性との偶然を装ったデートを重ねており、限りなく「悪いこと」に近い行為をしている。しかし、本来「人を好きになるということ」は「良いこと」「悪いこと」の以前に「どうしようもないこと」のはずだ(正当な手順は踏めよとは思うが)。

 今作は何もジャッジしない。否定も断罪もなく、いけない事と分かりつつ、それでも揺らいでしまう主人公の心を丁寧に捉えていく。もちろん、決してそれらの行動に肯定的なわけではない。作り手は、「信頼」という繊細なものを雑に扱うマーゴに対し、それ相応の結末を用意する(サラ・ポーリーは厳しい)。それでも、「どうしよもないこと」を「どうしようもないこと」として認め、抗えない心の揺れをありのままに見つめるこの映画は優しさに溢れていると思った。

 

 ただ、本作は「恋愛映画」でもなければ「恋愛についての映画」でもない。確かに恋愛を描いた映画ではあるが、少なくとも、その側面のみに焦点を当てると、この映画が本来もつテーマ、その可能性や射程の範囲を見誤ることになる。

 これは「寂しさ」や「不安」についての、もしくはそれらに対する「対処方法」についての映画だ。「依存」についての映画とも言えるかもしれない。とにかく、この映画における恋愛は、あくまでもテーマに対する「手段」や「依存先」でしかないことだけは確かだ(その証拠に劇中には別の「依存先」を持つ登場人物が出てくる)。

 孤独に対する寂しさ、将来への漠然とした不安、年を重ねていく事への焦燥感(ミドルエイジ・クライシスのような描写もある)、今作はそれらに対する「もがき」の物語であり、もしそれらの感情を経験したことがあるなら、たとえ浮気や不倫、それに近いことを経験したことがなくても、この映画を楽しめるはずだ。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 冒頭、逆光の中でお菓子を焼いているマーゴ(黄金に輝く体毛は伏線として機能している)。体のパーツを映し出しながらフォーカスの調整を繰り返すカメラは、不安定で目の前のことに集中しきれていない彼女の内面そのものだ。フレームインしてくる恋人と、彼女の浮かない表情。「美しい陽に照らされながらお菓子を焼く新しい恋人との生活」字面上はどこまでもポジティブな状況だが、画面を支配しているのは「終わり」の予感だ。作り手は冒頭の数分間だけでこの映画が何についての物語なのかを説明しきってみせる。

 

  本作は非常に多層的な映画だ。各場面にテーマと何かしら関係があるような仕掛けが見られ、起こる出来事が登場人物の心情を表す作りになっている。

 

 例えば、取材のため訪れた離島で初めてダニエルと出会うまでのシーン。ここでマーゴが見つめる「教会の二人」と「ある見せ物」が、後に起こる展開と重ね合わされている(マーゴが罪人にムチを打つシーンは、罪状やその後に彼女が迎える結末を考えると、なかなかに意地悪な仕掛けだなと思った)。

 

 最も分かりやすいのが空港での乗り継ぎのシーンだ。係委員に誘導されるマーゴを不審に思うダニエル。それに対し彼女は「乗り継ぎが怖い」と言う。当然だがこれはマーゴが持つ、あることに対する「恐怖心」のメタファーだ(メタファーというには直接的すぎる気もするが)。

 そしてここで重要なのが、恐怖心の矛先が、乗り継ぎ前の機体を離れることや、乗り継ぎ先の居心地についてではなく、乗り遅れることで一人孤独になってしまうことに向けられている点だ。「何が怖い?」と尋ねるダニエルに「不安でいることが怖い、怖いと思うこと自体が怖い」と返すマーゴ。彼女にとって真の意味で「恋愛」が重要なのは、恋人と一緒に過ごせるからではなく、恋をすることで自身の感じる恐怖を消し去ることができるからだ。彼女は惚れっぽいわけでもないし、積極的に恋愛がしたいわけでもない。ただ、不安や恐怖から逃れる為には、誰かに惚れるしかないし、積極的に恋をしてときめき続けるしかないのだ(繰り返しになるが本作の恋愛は「手段」や「依存先」でしかない)。本作のキャッチコピーに「しあわせに鈍感なんじゃない。さみしさに敏感なだけ。」とあるが、まさにそれこそが彼女が抱える乗り越えるべき問題であり、対峙すべき葛藤なのだ(本作のテーマを的確に捉えた完璧なキャッチコピーだと思う)。

 

 遊園地でアトラクションに乗るマーゴとダニエル。アトラクションが動いている間、彼女は終始満たされたような表情をしている。光の演出に煌めく空間。流れる「Video Killed The Radio Star」と絶叫する二人。そしてそれが終わり、彼女は現実に引き戻される。これは彼女の心に作用する恋愛の効果を視覚化したシーンだ。光の空間、動くアトラクションはマーゴの「ときめき」や「胸の高鳴り」であり、それが持続している間だけ彼女は安定できるのだ。

 アトラクションが動いている間も、止まった後も、隣にはダニエルがいる。にも関わらず、マーゴの表情はその前後で明らかに違う。結局、彼女の心に安定をもたらすのは、「ときめく相手が誰か」ではなく「ときめいていること」それ自体だ。

 

 今作は、マーゴの恐怖心や不安、焦燥感を常に煽り続ける。

 

 プール教室後のシャワーをあびるシーンがある。ここでの会話の重要性もさることながら、本作はこのシーンで生身の肉体を対比させた「老い」の視覚化とその実感を試みている。その視線の先に何を感じるかは人それぞれだが、マーゴと他二人の表情には本人たちですら掴み取りきれない「焦り」にも似た感情が見てとれ、使われる音楽は時の流れという抗いようのないものに対する「諦観」を表している気がした。その他、初めてダニエルの家に入ったシーンでの会話や、料理に集中する夫のルー、恋が愛に変わりつつある夫婦生活、様々な出来事がマーゴの恐怖心を煽り、焦燥感を加速させ、次の乗り継ぎへと導くことになる。

 

 本作で最も重要な人物の一人が義姉のジェリー(サラ・シルヴァーマン)だ。アルコール依存症の治療中であるジェリーはマーゴの鏡像であり、いわば「依存先が恋愛じゃなかったマーゴ」と言える。

 

 離婚後、義姪のトニーに呼ばれ再びルーの元に訪れたマーゴはジェリーの行方が分からなくなっていることを知る。ポーチで彼女の行方を案じていると、蛇行する車が道向かいのゴミ箱に突っ込んで停止し、中から泥酔したジェリーが現れる。ここから交わされる二人の会話は、まさにこの映画の核心に迫るものだ(今作で最も重要なシーンだ)。マーゴに放った言葉が、自分にもそっくり返ってくることを自覚しているジェリー。そこで交わされるのは「恋愛」についてではなく、「不安」や「寂しさ」とそれに対する「対処方法」、そしてそれが実生活にもたらす「副作用」についての話だ。

 このシーン、さらに素晴らしいのがマーゴが退場するまでの動線にある。ジェリーが警察に連行された後、ルーと二人きりになったマーゴは、この関係が終わっていることを再確認する(勝手な話だが)。様々な感情がない混ぜの中、涙を堪えその場を去る彼女。ここで作り手は、彼女にわざわざ道を渡らせ、車が放置された側の歩道を歩かせる。クラッシュした車と同一ショットで捉えられたマーゴ。車は彼女の内面や状況の具体化だ。

 役者の表情、動線、周辺の美術、画面に映る全てを完璧にコントロールしているからこそ作り出せる、非常に映画的で素晴らしシーンとなっている。

 

 印象深かったのが、マーゴがルーに対し、ダニエルへの想いを打ち明けてからの一連のシーン。窓越しの別れの後、涙を流しながらもダニエルの下へと走り出すマーゴ。このシーンに作り手のスタンスがはっきりと現れている。おそらく凡百の映画ならここで、泣く彼女を引きの画で捉え、皮肉な音楽を流し、彼女の行動を“批評”するはずだ。

 今作はマーゴに寄り添うことを選択する。一瞬の涙の後、徐々に足早になる彼女。走る彼女を横からのショットで捉え続けるカメラ。彼女のアクションに呼応するように鳴り出したビートと逆再生の素材も加わり高揚感と浮遊感が漂う音楽。それら演出の全てが彼女を「好きな人へ会いたい」という感情に集中させる。映画は「どうしようもなく誰かを求めてしまう心」を大切に扱う。

 

 これは2度目以降の鑑賞で強く感じたのだが、マーゴが恋人へ愛を伝える時、それらの態度や言葉は彼女自身にも投げかけられているような気がした。彼女は、相手へ「愛している」と伝えることで「私はこの人を愛しているはずだ」と自分に言い聞かせ、抱き寄せることで意図的にときめきを錯覚しようとしているように見える。冒頭流れるCorinna Rose & The Rusty Horse BandのGreen Mountain State(マジ最高)。当然これは、歌詞のシンクロ具合も含め、物語への導入が目的の挿入曲だが、実はマーゴの脳内にも流れていて、彼女は歌詞に自身を投影させることで、無理やり安定を得ようとしているのではないか、と思ってしまった。そのため、彼女が相手へと起こすアクションの全てが「息が詰まるほどの不安」に対する必死の抵抗のように見えて仕方がなかった。

 

 先述したシャワー室のシーンについて、少し注意が必要な気がした(なかなかシビアなバランスの上の成り立っている気がする)。繰り返しになるが、このシーンは「老い」やそれへの「焦燥感」を映画的に演出している。ただ、この演出が、このような映画で効果的に機能してしまっているのは「女性の価値を若さに見出す」という差別的な視線が、無意識レベルで社会全体に共有されてしまっているからだ(もちろん男性に対してもこのような差別はあるが、特に女性に対して強いのは間違いない)。

 もちろん、老いることをどう思いたいか、どう感じたいかは個人の自由だ(実生活に支障がない範囲にした方がいい気はするが)。若い自分を取り戻す為に努力することは差別的ではないし、その努力の仕方を他者からとやかく言われる筋合いもない。ただ、その評価基準を自分の外側に向けるのは絶対に間違っている。

 この映画が、差別的だと言いたいわけではない。多分それはサラ・ポーリーのバランス感覚が天才的に優れている為だ。ただ、この優れた演出がより効果的になり得たのは「若さを基準に女性を品定めしようとする社会の共通認識」のおかげだ。そして、そこに対し何かしらの批評性があるわけではない本作は、その影響下からは逃れられていないと思う(という指摘をしている自分は男であり、そういった差別的視線に晒されにくい立場にいることもわきまえる必要がある)。

 

 誰にでもある「不安」や「焦燥感」(ジェリーの言葉を借りるなら「物足りなさ」)。もしそれを人一倍敏感に感じとってしまう傾向にあったら。息が詰まるほどの強い恐怖として感じてしまったら。手元にある唯一の対抗手段が周囲を確実に傷つけてしまうものだったら。本作は間違いや失敗とされる出来事や、それを犯してしまった人たちの、表面上は確認しにくい苦しみに焦点を当てた作品だと思った。傑作。

 

 

※ルー周りの演出やルーに関して思ったこと

・ルーがダニエルへの想いを聞かされ、打ちのめされるシーン。このシーン、作り手は映画の主観であったマーゴを画面の外に追いやり、ルーのみに集中する。傷ついた人間に寄り添い、傷つけた人間(たとえそれが主役であっても)に弁解の余地を与えないこの演出は、非常にフェアだと思った。

・シャワーのイタズラについては「これが80まで続くとか普通にダルいだろ」とは思った。

・ルーは優しくて、最高にいいやつだとは思うが、会話がしたいマーゴに対して「君のことは全て知っている」と言ったのは傲慢だと思った。例えどんなに長く連れ添っていようが、どんなに愛し合って深い関係性であろうが、親子であろうが、他者の全て知ることは不可能だ。だからこそ、お互いに会話を重ね居心地の良い空間を作る努力をするわけで。他者を同一視するようなこのセリフは、はっきり言って相手を軽んじている。たとえ比喩的な愛情表現の一つだったとしても、そんな失礼なことは言うべきじゃないと思った。

 

 

しわ(2011)

 

『しわ』

原題:Arrugas

監督:イグナシオ・フェレーラス

原作:パコ・ロカ

脚本:パコ・ロカ、イグナシオ・フェレーラス、ロザンナ・チェッキーニ

   アンヘル・デ・ラ・クルス

出演:アルバロ・ゲバラ、タコ・ゴンザレス、マベル・リベラ



 認知症の症状が見られるようになった元銀行員の主人公・エミリオ。息子夫婦に連れられ施設へと入所することになった彼は、戸惑いつつも同室のミゲルやその他の入所者、職員のおかげで少しづつ新しい生活に馴染んでいく。しかし、症状は徐々に進行していき・・・。

 

 誰しもに等しく訪れる「死」。そこに至るまでに道のりに、もし「認知症」が待ち受けていたら・・・。認知症のある人と家族、入所施設、実際の症状とその進行、本作は認知症を患った主人公の主観を中心に、ときに客観的視点を挟みながら、「認知症」というテーマを包括的に描いていく。

 

 老健施設における認知症ケアはその病の特性上、常に綱渡り的だ。「人権」と「生命」を天秤にかけず、その両方を最重要項目に掲げる。せん妄などが起因となる他害行為や、身体機能低下からの転倒や誤嚥、その他様々な生命に関わる危険行動をとってしまう認知症のある人に対し、決して身体拘束はせず、高圧的な態度を取らず、個人の自由意志と尊厳を最大限守りながら、施設生活の中にあるリスクを減らし続けていく。「完治」が存在しない以上、当然ゴールも存在しない(仮に存在するとすればそれは施設からの退所もしくは「死」だ)。

 そもそも認知症は病名ではなく共通する症状の総称だ(いわば「状態」のことだ)。そして起因となる病がいくつか存在し(「アルツハイマー型」「前頭側頭型」「レビー小体」「血管性」など)、さらに個人によってその症状や進行速度が大幅に異なってくる。そのため万人に当てはめることが可能なケアのメソッドは存在しない(もちろん症状ごとに傾向と対策はあるが)。「この人の場合こういう症状でこれが危険だからこうしよう、けどこの場合なぜかこうなるからその場合はこっち。けど、そうすると同室の人に不利益が出ないか。じゃあダメか。それじゃこっちは。それだと職員の数が足りないから他の部分でリスクが上がってしまう。それなら........」集団生活を踏まえた各個人のケアプランは、必然的に妥協案の集積で出来上がる(ベストはなく、ベターを選択し続ける)。

 自分は管理栄養士として認知症のある人と接することがあるが、栄養計画にもベストな選択は存在しない。「この人は認知症からくる嚥下障害によって咽せ症状が出やすくなっている。誤嚥性肺炎の既往歴もあって溜め込みもあるから食形態を落としたい。しかし本人はこんなもの食べたくないと怒っている。けど嚥下テストしたら咽せが激しくて吸引が必要な可能性もある。けど食形態を落として食べなくなったら低栄養リスクは上がる。ならこうするか。いやそれだと他の部分が疎かになって、別の危険がでる。では、これは。いや、それは.......、今回はこれで様子を見ていきましょう」まさに妥協案だ。

 

 「どのように症状と向き合うべきか」これは実際に認知症を患った当人とその身近な存在の人たちに常に付き纏う命題だが、本作はこれを当人、家族、施設職員と立場を細分化し、それぞれにある問題点やジレンマを描くことで、実際に日々この世界で認知症と向き合う人たちの負担を少しでも軽くできないか、何かしらのベターを提示できないかと試みている(原作は未読だが、そもそも原作に織り込まれたエッセンスかもしれない)。

 

(以下、ネタバレ有り)

 

 オープニングの演出が非常に優れている。本作のテーマやトーン、後の展開の暗示、そして作り手の狙いがこの数分の間に凝縮されていると思う。

 職場のオフィス、スーツ姿でデスクに座り融資の依頼を断る銀行員のエミリオ。断られた依頼者は「何度も“繰り返し”でうんざりだ」と激昂し詰め寄る。冷静に対処しようとするエミリオ。そんな彼に対し「お父さん、ここは銀行じゃないんだ」という予想外の言葉が発せられる。カメラがデスクへとパンダウンすると、そこにあったはずの書類は消え、代わりに食事が並んでいる。カットが変わると先程までオフィスだった場所は自室となり、切り返したカメラには白髪のエミリオが映る。

 認知症を患う人にとって目の前の世界は、輪郭のぼやけた曖昧なものである場合が多い。過去と現在の境目は薄れ、複数の時間軸を一つの現実として行き来する(そういった症状が現れやすく、「回帰型」と呼ばれたりする)。主人公と観客に対し、同じ順序で開示される「現実」という情報。この演出によって観客は、認知症のある人が捉えている世界のあり方(認識の仕方)を本人の目線で追体験することになる。本作の狙いはここにある。

 「なぜ忘れるんだ」「さっきも言ったぞ」「しっかりしてくれ」これらの言葉は認知症のある人たちを現実に留めようと投げかけられがちなものだが、では「現実」とは何なのか。自分たちは、その場にいる複数の人間の知覚で整合性がとれ、ある程度収まりのいい範囲を「現実」と呼んでいる。しかし、その知覚も結局はそれぞれの主観だ(現に世界の色も音も個人によって違うはずだ)。認知症のある人にとって、複数の時間軸がシームレスに現れるなら、それこそがその人にとっての「現在」だ。他者から見れば「忘れていただけで実際に行っていた行動」も、本人の主観でそれが認識できなくなるなら、それは「実際にはまだ行っていない行動」であり、それこそが他でもない「現実」だ(イスタンブール行きの座席こそが現実なのだ)。

 この映画は認知症の症状が当人の努力や意志の強さでどうにかなるものではないことを効果的に伝えてみせる(もちろんこれらは「記憶障害」や「見当識障害」からくるもので、介護士などのプロはそれに対する専門的な知識と対処法をもとにケアをしている)。

 

 本作は「雲」に特別な意味を持たせている。繰り返し映される空に浮かぶ雲。はっきりとした輪郭がなく、フワフワと浮かび、今にも消えてしまいそうで曖昧なそれは明らかに「記憶」の隠喩だ。 

 

 例えば、最初と最後で対になっているカメラワーク。冒頭、厚い曇が覆う空を捉えたカメラは下へと移動し、施設の門とタイトルを映し出す。これに対しラスト、エミリオのアップからオーバーラップした青空の中で、最後まで残っていた雲が消える。カメラは下へと移動し、輪郭のはっきりした建築物と街の人々を映し出す。空の雲は映画を通したエミリオの記憶の変遷だと言える。また最後に街の輪郭を捉えたのは、これは誰にでも起こりうる普遍的な話なのだというメッセージともとれる。

 

 最も象徴的なのがドローレスとモデストの回想だ。夫婦で施設に入所した二人だが、夫のモデストは認知症の症状がかなり進行しており、表情の変化すらほとんどない。しかし、彼は妻のドローレスがある言葉をつぶやく時だけ必ず笑みを見せる。彼女はその言葉の正体を明かすため「雲」にまつわる過去を語り始める、最も大切な愛の「記憶」として。

 愛する人のために掴んだ「雲」。その「記憶」だけは絶対に手放さない恋人達。テーマと演出が合致した非常に見事なシーンとなっている。雲がどの場面でどのように使われているか、そこに注目してこの映画を観ると色々な発見ができる。

 

 作り手はこの映画が過度に感傷的になることや、何となく「良い雰囲気」になることを意図的に避ける。何かしらポジティブなことが起こった後、ネガティブな何かが待っていたり、同じショットの中で心地よさと不穏さが同居していたりする。重要なのはそれらのアクションの変化が何の予兆もなく、ただ淡々と、単なる出来事の連続(または羅列)として演出されている点だ。なぜならそれこそが認知症の症状、そしてその介護の日々そのものだからだ。

 詩を誦じるアントニアに対し、楽しげに軽口を叩くミゲル。その隣でナイフとスプーンの区別がつかず「こんなナイフでは肉が切れない」と激昂するエミリオ。自分の状況を整理できずにいる彼は、スプーンに映る“逆さま”の自分を見る。そしてそのスプーンを表に返しもう一度そこに映る自分を見つめる(今度は別の反射で)。これは症状のスイッチの切り替わりを的確に表現した素晴らしいシーンだ。おそらくスプーンを返したあとのエミリオは数秒前の彼と比べて認知機能面が若干上向きだ(その証拠に理路整然とした質問を他者へ投げかける)。認知症の症状は本当に些細なことで、何の前触れもなく“落ち着く”ことがある(この表現が正しいかはわからない)。何かしらの予兆が入り込む隙間もない、スプーンを表に返すだけシーン。これだけで、認知症と向き合う日々、その一端を的確に表現している。

 

 個人的に考えてしまったのが、室内プールのシーンだ。このシーンでエミリオから発せられるセリフに施設での認知症ケアのあり方、そのジレンマが現れていると思った。

 施設生活を送る中で自身がアルツハイマー認知症だと悟ったエミリオは、その向き合い方についてミゲルと口論となる(“浮き沈み”の話のあとに映る、水たまりの落ち葉たちやプールの描写は見事だと思った)。ミゲルが隠し持つある保険(手段)に納得がいかないエミリオは、一人室内プールに飛び込む。エミリオが自死目的で飛び込んだと勘違いしたミゲルは慌てて彼を引き上げようとする。そこでエミリオは声を荒げて訴える。「私はまだ死んでいない。一年後がどうかは分からないが、今は生きている。そしてプールで泳ぎたいんだ。ただそれだけだ。」

 

 これは「自由意志」についてのセリフだ。先述した通り、介護施設では最大限「人権」を重んじるため身体拘束は行わない(少なくとも日本ではそうであり、もし止むを得ず行う場合は専用書類の作成がいる)。しかし施設全体では、抜け出すことがないよう入所者には解除できない施錠が行われている。施設によってはフロア毎にカードキーが設定されており、自由な行動範囲は居住フロアのみに限定されている場合もある。

 窓の外に広がる確かな世界。例えば、道を挟んだ公園に咲く桜。自分たちはそれを見たい時に外に出て、満足したら帰宅する。それが可能だ。しかし施設生活の高齢者ではそうはいかない。それを近くで見たいと思っても、彼らは自分の意思決定だけでそうすることは出来ない。目の前にある世界を自分の意思で自由に行き来きすることが許されない、そこには計り知れないストレスがあるはずだ。

  もちろん、だからといって施設外への出入りを自由にしたり、すべての行動の制限を解くわけにはいかない。言うまでもないが、施設への入所が必要なレベルの高齢者に対し、見守りのない自由行動を許し、その上で安全性を約束することは不可能だ。実際、今作はそれが行き着く先も描く(認知症を患う人たちの記憶のあり方のようにも見える途切れ途切れの道路中央線、それを辿った先にある乗り上げた車とその奥の暗闇は非常に象徴的だ)。それでも疾走する暴走車の中でミゲルの言う「俺たちは自由だ」というセリフは、祈りや心の叫びのようなものにも聞こえた。

 

 中盤、入所者による女性リハへの「セクハラ」がある。介護施設での職員へのセクハラ行為は、少なくない割合で起こる(男女問わず起こるが、そのほとんどが男性入所者から女性職員に対してだ)。この年代は「セクハラ」の概念が非常に薄く、注意を真剣にとらえないことも多い。本来このような場合、施設からの強制退所など強い処置が待っているが、中々そうは行かない現実がある。特に退所理由に「セクハラ」を持ち出すと、家族が納得せず、そこでも別の問題が発生する場合がある。また日々秒単位で利用者の行動リスクを観察する必要がある介護業務は、セクハラを注意することで新たなリスクを生んでしまう可能性が出てくる(例えば、セクハラを注意する間、他の利用者の転倒リスクは上がっている)。そのため職員の中には、セクハラ行為を軽くあしらい報告をしないものもいる(この映画の女性職員のように)。しかしそれでは安心して働ける職場環境には繋がっていかない。報告をしようが、無視をしようが結局そこには何かしらの面倒事が待っている(しかもセクハラ被害者にだ)。介護施設で起こるセクハラ行為は非常に重要な問題であり、もっと関心を持たれるべきものだ(本作はその描き方があまりにも短く軽すぎるため、そこをもって批判することは可能だ、個人的には「これに関してはあまり真剣じゃないな」と思ってしまった)。

 

 本作は、観客の視点をミゲルに集めようとしている(先述した「何かしらのベターの提示」を担っているのはおそらくミゲルだ)。 前半のミゲルが半端ない詐欺師なのは一旦置いとくとして、後半、彼のエミリオに対する接し方は、認知症のある人と日々を過ごしていく上で非常に有益なことを伝えている(特に、在宅介護している家族や、これからそういった日々が始まる人たち、所謂プロじゃない方達に対して良いお手本になる部分があると思う)。

 症状に「真剣に向き合うこと」と「正面から向き合うこと」は同じようで違う。ミゲルは常にエミリオの症状に対して真剣に向き合っているが、正面から向き合うべきことは取捨選択している。彼はエミリオが名前を間違えるのをわざわざ指摘しない。スプーンとナイフを間違えたエミリオのクレームを否定せず、同意と共に他の選択肢を提案する。

 エミリオがシャツを着られなくなるシーンがある。ミゲルは代わりにボタンを閉じるのだが、その間もエミリオに話し続ける。認知症のある人にとって「出来なくなっている」という事実に直面するのは非常にストレスがかかる。ミゲルは否定も非難もせず、ただ会話を続けることで、エミリオの意識を「出来なくなっている」という事実に集中させず、別の方向に誘導する。

 よくある「認知症の方との良い接し方」という文言とその内容。そこには「傾聴」「否定をしない」「叱らない」などがある。もちろんこれらは当事者の尊厳や心をケアするために大切なことだが、何も当事者だけに都合が良い「綺麗事」というわけではない。これらは症状に対する「適切なスキル」であり、これらの実践は当事者だけでなく、介護する側の肉体や精神も確実に守ってくれる。

 例えば「まだご飯を食べていない」という場面があったとする。ここで「さっき食べたでしょ」と叱ったり、強く反論しても平行線を辿ってしまう(繰り返しになるが、「事実」がどうであれ、食べていないことこそが「現実」だからだ)。このような場合、有効なのが「傾聴」や「否定をしない」ことだ。否定をせず「今作っているよ」や「何が食べたい」もしくは食事と全く関係ない質問などの言葉をかけ、「ご飯をまだ食べていない」という「現実」から本人の意識が外れるの待つのだ(それでも厳しければ、簡単な食事を出しても良い。冷食やレトルト、スナックなどそれ専用の品をストックしておけば、平行線を辿るよりよっぽど早く解決する)。

 自分の場合は、それこそ「記憶」に意識を誘導するようにしている。フロアやベットサイドへ食事調査に行くと、「コックさん、まだご飯食べさせてもらえてないです」と、食事を要求されることがある。その際、今から用意することを伝えた上で、「そういえば◯◯さん、ご出身はどちらだったでしょうか。当時の食事はどのようなものでしたか、勉強させてください。どのような遊びをしてたのですか。」などの質問をする。過去に意識が行くことで「ご飯を食べていない」という「現実」は次第に薄れていく(場合が多い)。

  後半ミゲルの態度はまさに「傾聴」「否定をしない」「叱らない」の実践だが、聞こえの悪い言い方をすればこれらは「諦め」とも言える。しかし、認知症のある人と関わる上で症状に対し「諦め」の日々を送ることは決して不誠実でも悪いことでもない。真正面から向き合った先にあるのが「消耗」だけなら、劇中のミゲルのように諦める事が、多少なりとも穏やかな日々を提供してくれるはずだ。

 

 本作が優れた映画であることは間違い無いが、気になる部分が無いわけでは無い(というか「少し一方的かも」と感じる描写や主張がある)。監督はインタビューで「中立」であることを意識したと言っており、映画はあらゆる方面に敬意を持って(または気を使って)作られている。ただ、家族についての描写(正確には家族が会いに来なくなる事についての描写)には注意が必要だと思った。前提として可能であれば家族は積極的に施設を訪問してあげたほうが良い。家族と会った時の入所者の表情は、日々の施設生活のそれと比べて段違いだ。ただ、会いに来ないのにはそれなりの理由がある(場合がある)。特に考慮しなければならない理由が「夫婦間にあったDVやモラハラ」だ。男尊女卑、男性中心主義にあぐらをかき、家庭内で何十年もの間ひたすらパートナーに高圧的に接してきた「一家の大黒柱(とかいわれている例のアレ)」。そしてそれが衰えを機に施設に入所する。「やっと解放された」と口にする人もいる。会いに来たいはずがないし、会いに来るはずもない(連絡すらつきにくい場合もあり、それはそれで施設としてはかなり困ることだが)。また、症状に他害行為や感情失禁、易怒性の傾向が強い人を介護していた家族も同様の場合がある。実際、家族は本当に疲弊し切っている。「会いに来ない」ことが批判されるべきことだけではないとは言っておきたい。

 

 ともあれ、印象的なシーンは多く、それを90分という短さでまとめる手際の良さは素晴らしいと思った。傑作。

 

※「傾聴」「否定をしない」の実践は非常に大切だが、家族と仕事では当事者に対する距離感が違いすぎるのも事実だ。他人ならいざ知らず、家族だとどうしてもイライラが募り高圧的になっしまう場合もある。そういう場合はお互いが崩れる前に積極的に施設を利用していくべきだと思う(が、その施設も空きがなく利用しにくくなっている現状もある)。

 

 

スリ(2008)

 

『スリ』

原題:文雀

監督:ジョニー・トー

脚本:チェン・キンチョン、フォン・チーチャン

撮影:チェン・チュウキョン、トー・フンモ

音楽:ザヴィエ・ジャモー、フレッド・アヴリル

出演:サイモン・ヤム、ケリー・リン、ラム・カートン、ロー・ウィンチョン、ケネス・チャン

          ロイ・ホーパン、ラム・シュー

 

 香港でスリ師として生きるケイ(サイモン・ヤム)、ボー(ラム・カートン)、サク(ロー・ウィンチョン)、マック(ケネス・チャン)の4人は、卓越した技術で自由気ままにスリ師としての生活を送っていた。ある時、そんな彼らの目の前に謎の美女チュンレイ(ケリー・リン)が現れる。4人を意のままに誘惑する彼女だが、実は囚われの身であり、彼らにある物を盗ませるという真の目的があった。自由になりたい彼女から助けを求められた4人は、危険なスリを働こうとするが.....。

 

 最も好きなジョニー・トー映画。90分という短い時間の中で、時にノワール、時にラブコメ、時にミュージカルと様々なジャンルを横断する本作は、4人のスリ師と1人の女の目を通して香港という街を表情豊かに捉えてみせる。監督が「失われゆく古き良き香港を映像に残す」ことを目的としたと話していることからも分かる通り、香港という“街”そのものが主役と言える作品だ。

 またサイレントの演出手法で撮られた作品でもあり、セリフによる説明過多な昨今の映画群とは一線を画す、非常にシンプルかつクラシカルな仕上がりとなっている(それこそ冒頭のシーンのみで、これから始まる物語の流れをあらかた暗示してしまう)。

 とにかくキュートで、美しく、繊細で楽しい、最高としか言いようがないノワール映画だ。

 

(以下、ネタバレ)

 

 ジャンル映画を楽しむ方法の一つに「クリシェ(定型)をどのように表現するか」というものがある。ノワール映画におけるクリシェと言えば「主人公がファム・ファタール(宿命/運命の女)によって身を滅ぼす」だったりするわけだが、その過程である「どのようにファム・ファタールに落ちていくのか」という部分を作品ごとに注目すると、よりこのジャンルを楽しむことができる(ノワールには様々な恋模様がある)。

 逆にいうと、その部分をうまく表現しきれなかった映画は、終始説得力に欠ける映画となってしまう。なぜならその過程こそノワールにおける主人公の「動機」だからだ(そこが疎かになってしまうと、「なぜ主人公はこの人のためにここまで危険を犯すんだ?」となってしまう)。

 

 本作は“運命の女に落ちていく男”の過程を「一目惚れ」で表現する。

 

 軽やかな音色と共に、自転車に乗りながら香港の“顔”を写真に収めていく主人公(ケイ)。カットが変わり、そこには追われるように走る女の姿。女を捉えたままカメラは左へとパンし、路地で写真を撮ろうとしているケイを再び映し出す。沈みだす音楽。ファインダー越し、右方向から現れ、画面中央で振り向く運命の女。スローモーション。そしてシャッターが切られる。

 

 よく一目惚れの瞬間を「時が止まったようだった」と比喩的に表現することがあるが、ジョニー・トーは「フィルムに焼き付ける」というアクションを通して、本当に時を止めてみせる。

 

 残る3人にも印象的なシーンが用意されている。ボーがカジノで腕時計と一緒に“盗まれた”のは何か、エレベーターの中で風船と同時に“弾けた”のはサクの何だったのか、二人乗りのバイクと共にマックの何が“疾走”しだしたのか。

 

 これらは全て「抽象的な事柄をアクションとして具体化する」という、まさに映画ならではシーンだ。ジョニー・トーは過去作から一貫して、曖昧なことを曖昧なまま提示したりせず、実際のアクションで観客に伝えようとする(優れた監督は常に「抽象」を具象化させてみせる)。

 

 中盤、立て続けに身に覚えのない襲撃を受けた4人は、それぞれ偶然出会ったはずの美女が共通の人物であったことを知る。その後、真相を確かめるため謎の美女を追うことになるのだが、ここから追い詰められた女の独白に至るまでのシークエンスが非常に素晴らしいものになっている。

 

 女を見つけ出した4人は、最終的に街の雑居ビルに彼女を追い詰める。逃げ場を求めエレベーターに乗る女。屋内を抜け、屋上のさらにその上へと駆け上がるが、ついに行き場をなくしてしまう。説明を求める4人に対し、女は涙を浮かべ「自由になりたい」と吐露する。虚を突かれた4人の表情と画面に映り込む高層ビル群。

 

 「自由を求める」女が、屋内という閉鎖的空間を抜け、屋上に立つ。視界を遮るものが存在しないそこは、一瞬「自由」を体現した場所のようにも見える。しかし、カメラが彼女へ切り返されると、そこにはさらに高いビル群が聳え立っており、この場所でさえ、実は自由とは程遠い、巨大な柵に囲まれた場所だったことがわかる(香港という街自体が、彼女にとって巨大な鳥籠であることを表している)。

 男を惑わす美貌、有力者の愛人と、その立場から得る圧倒的な財力、何一つ不自由がないように見える彼女もまた、利用され、搾取される「囚われの身」でしかなかった。これらがセリフだけでなく、アクションと構図からも明示される、本当に見事なシークエンスだ。

 

 ジョニー・トーは「誰にどのような行動をとらすか」という部分に細心の注意を払うことで、セリフでは補えない空気を観客へ提示する。変装により騙し打ちを行った人間たちが逆に変装によって遅れをとり、3人で挑み1人残った戦いのあと、今度は逆に1人で挑み3人は残るという構図が取られる。自転車の4人乗りにも各々の性格が現れる。またこの物語の核心が語られる時、それまで話していた主人公は口を閉じ、実際にそれを望む人間の口からその意思が伝えられる。そしてそれは望んだ人間の手に直接渡される。

 特に凄まじいのが、黒幕の男が一度奪われかけた金庫の鍵と女を再び手中に収めるシーン。女を隣に座らせた車内、取り返した鍵をチェーンに繋ごうとするが苦戦する黒幕の男。見かねて、手を貸す女。いくらでもシンプルに処理できるこのシーン、作り手はわざわざ「男が細かい作業に苦戦する」ディティールを追加し、女にそれを手伝わせることで、「自由を求めた人間が自らの手で再び不自由に繋がれる」という残酷な流れを作り出している(しかもこの“手元がおぼつかない”という確かな老いが後の結末の伏線として機能している)。

 

 気になる部分がないわけではない。特にラスト近く、黒幕の男に涙を流させ、「彼もまた純粋に恋をしていた」とコメディ的に処理するシーン。この指摘をするのは無粋かもしれないが、どんな理由があろうと、どれだけ丁寧な態度を示そうと、他者の意思を超えてその人を縛ることを「純粋な恋」とは言わないはずだ(普通に犯罪な)。それこそ縛られた側は倍以上の時間をかけ、失った時間を取り戻さなければならない。初見時(高校生の時)は最高にキュートなシーンだと思っていたが、今見返すと「このシーンなんか引っかかるな」と感じてしまった(そういう映画だろって言われればそれまでですが)。

 

 ともあれ、最高に最高な作品であることは間違いない。ラストの「シェルブールの雨傘」を西部劇として処理したようなシーンの美しさは言わずもがな、各場面に魅力的なシーンが詰まった映画だ。傑作。

 

※これは穿ち過ぎかもしないが、エレベーター内でガラスの境界線越しに行われる会話に、特殊な政治的背景をもつ故郷に対して、監督ならではの思いがあるように感じた。

※襲撃された4人がそれぞれ怪我を負った場所に注目すると、まるで彼らは4人で1つだと示しているような感じで、ブロマンス的な関係性が好きな人も楽しめると思う。

 

肉の蝋人形(1953)

 

『肉の蝋人形』

原題:House of Wax

監督:アンドレ・ド・トス

脚本:クレーン・ウィルバー

出演:ヴィンセント・プライス、フィリス・カーク、キャロリン・ジョーンズ

   フランク・ラヴジョイ、ロイ・ロバーツ

 

 芸術としての蝋人形を愛する蝋人形職人の主人公ヘンリー・ジャロッド(ヴィンセント・プライス)。商業的成果を上げられないなか、それでも蝋人形造りに没頭していた彼だが、ある時、蝋人形館の経営状況をよく思わない出資者バーク(ロイ・ロバーツ)に、保険金目当ての偽装放火を持ちかけられてしまう。愛する蝋人形を守るため必死に抵抗するジャロッドだったが、ついに火は放たれ、炎は蝋人形もろとも館を飲み込んでしまう。重度の火傷を抱えながらも生還し、バークへの復讐を決意するジャロッドであったが、やがて復讐とは別の狂気に囚われていく。

 

 非常にテンポが良く、丁寧な映画だ。冒頭約15分で蝋人形館は全焼するのだが、その時点で、この物語の核となる主人公の動機と、観客に「コイツなら“それ”をしかねないな」と思わせる狂気を描き切っている。

 画面設計や脚本も非常に綿密で、シーンとシーンが構図やアクション、セリフ的に“韻を踏む”様な演出がなされており、非常に多層的な映画になっていると思った(このような演出は「意思」や「皮肉」を更に強める効果がある)。特に2回目以降の鑑賞で、よりハッキリと掴めるのだが、前半で主人公が放った「人形を殺すくらいなら、自分が死ぬ」というセリフが、後半の彼の行動に対する“皮肉めいた伏線”になっていたのには思わず唸ってしまった。

 また、映画芸術に対する自己批評や、フェミニズム的な要素も含まれており、テーマ的にも多面性を持った映画でもある。

 上映時間は1933年版(こちらは表現主義的な画面設計もみられる傑作)に比べ少しばかり長くなっているが、人物関係やストーリーもより整理され、タイトで手堅い傑作になっている(1933年版は“テンポが良い”というよりは“タメがない”と表現したくなる作品)。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 バークへの復讐を済ませたジャロッドは再び蝋人形館をオープンさせるのだが、よりリアルで芸術的な蝋人形を造るために選んだ材料が“人間の死体”だ。死体から生まれる蝋人形に究極の美を見出したジャロッドは、かつて火事で失った「マリー・アントワネットの蝋人形」を蘇らせるため、ヒロインのスー(フィリス・カーク)を手に入れようとする。映画が公開されたのは1953年で、約70年前の作品ということになるのだが、この「作品のために他者を踏み躙る芸術家」という構図は現実の世界でも今なお存在しており、意図的にであれ、意図せずであれ、「時代を超えて様々なテーマを内包し提起してしまう」映画という芸術の多面性について改めて考えさせられた(そのため、彼が自身の芸術を誇らしげに語るシーンは不快でしょうがなかった)。

 

 リメイク物としてまず感心したのが、登場人物の再構成だ。1933年版には、フローレンス(新聞記者)と、シャーロット(焼失したマリー・アントワネットの蝋人形に似ていることで事件に巻き込まれてしまうフローレンスのルームメイト)、という2人のヒロインが登場する。映画は新聞記者のフローレンスが「美女の死体失踪事件」を調査していくうちに、やがて蝋人形館の秘密に行き着くという、ホラーというよりはミステリーに重きを置いた作りになっている(原題も「Mystery of the wax museum」だ)。フローレンスの「取材」が物語を引っ張り、シャーロットの「体験」がジャンル的空気を作り出す、そういう構成だ。

 本作1953年版はこの2人を、スーというキャラクター1人に集約している。また新たにキャシー(キャロリン・ジョーンズ)というルームメイト(親友でもある)を登場させ、彼女が殺されその遺体が失踪することが「美女の死体失踪事件」の代わりとなっている。さらに新聞記者という設定をバッサリと切ることで、蝋人形館の秘密に至るまでの道筋であった「新聞記者の取材と推理」が削れ、「奪われた親友の死体を取り戻そうと奔走するヒロインが、自身の美貌が元で事件に巻き込まれてしまう」という形に絞り込まれている。これによりミステリー的な映画の雰囲気がよりホラー的になり、また物語を引っ張る存在と、物語の雰囲気を作り出す存在の視点を統一させたことで、緊張感が持続する効果が生まれている(1933年版は語り口が散漫な印象がある)

 

---(1933年)----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

フローレンス:新聞記者

      「美女の死体失踪事件」を取材するうちに蝋人形館に行き着く。

シャーロット:フローレンスのルームメイト

       マリー・アントワネットに似ていることで事件に巻き込まれる。

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            ↓  ↓  ↓   

---(1953年)-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

  スー  :消えた親友(キャシー)の死体を探すうちに蝋人形館に行き着くが、マリー・アントワネットに似    

                         ていることで事件巻き込まれる。

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※蝋人形館に至るまでの視点が1人に統一されている。

※展開が「新聞記者の取材」から「友人の遺体を取り戻そうとしたところ、自身も蝋人形の材料として殺されそうになった」という、よりホラーに寄った内容に変更されている。

 

 もう一つ特筆すべき改変が蝋人形館に火を放った出資者バークの扱いだ。1933年版では蝋人形館を全焼させた後も、酒の密売人として登場し続けるのだが(これが物語に若干の混乱を生んでいる)、1953年版では早い段階でジャロッドに殺され、さらにその死体を作品の一つとして展示されることで「芸術を殺した者が芸術によって殺される」という完璧にオチのついた復讐を果たされてしまう。1933年版でも最終的には殺されてしまうわけだが、実際に手を下した描写はなく、死体として処理されるだけなので、この改変は主人公の復讐心と「芸術へ狂気」をより際立たせることに成功している。

 

 また、かなり穿った見方かもしれないが、冒頭の雨の街から蝋人形館が焼け落ちてしまうまでの一連のシーンが、まるで作り手自身のこの映画を作るにあたってのスタンスやジレンマ、映画論を表しているかのように感じた(自己言及的ですらあると思った)。

 降りしきる雨の中、蝋人形館にやってきた出資者は、主人公が作る「芸術としての蝋人形」を金にならないと切って捨てる。「ショックの方がいい、その方が金になる」とホラーを取り入れた他の蝋人形館が繁盛していることを訴えるが、主人公はそれに対し「くだらない好奇心だ」と相手にせず、館に訪れた評論家からの賛辞の言葉を誇らしげに受け取る(1933年版にも似た様なやり取りはあるが、そこまで踏み込んだ議論にはならない)。

 芸術としての蝋人形を愛する主人公、それ対し芸術だけでは儲からないことを説く出資者、そこに現れる評論家、そして燃やされてしまう作品たち(フィルムも可燃性だ)。

 

 さらにはこんなシーンもある。新しい蝋人形館のオープニング、雇われた「呼び込み男」が入り口で客寄せをするシーン。ここで男は通行人の注目を集める為に“あるアクション”を行い(完全に3Dの為“だけ”のシーン)、いきなりカメラに向かって「ポップコーンか?」と問いかけてくる(つまり「これは映画だ」と我々観客に向かって宣言しているわけだ)。そしてその直後、主人公と評論家による「呼び込みを雇ったのは失敗だった」「まるでサーカスだ」「客が入るまでの辛抱だ」という確信犯的な会話がなされる。

 

 本作が世界初の3D映画として撮られたこと。また、そのギミックを商業的に活かすため、物語のバランスを崩してまで「3Dの為のシーン」を捻じ込んだこと。これらのことを考えると、この2つシーンに、この映画に対する作り手なりの「複雑な想い」が込められている様な気がしてならなかった(もちろん、映画における“芸術性”がジャンルによって左右されるとは思わないですし、そもそも映画の“芸術性”と映画の“価値”はイコールではないと思っていますが)。

 

 本作がフェミニズム的(またはシスターフッド的)に解釈可能だと思えたのは、登場する女性たちの演出方法や、関係性の描き方、また主人公が囚われていた蝋人形達のモチーフにある。

 まずはスーとルームメトであるキャシーの関係性だ。真逆の生き方や価値観、性格を持つ2人だが、彼女らの会話や軽口の中には、「お互いを支え合う」という強い意思に基づいた固い友情がある。友情のあり方に性差など無いはずだが、とかく映画という“メディア”は、何故か女性同士の関係性に悪意のある表現を含ませがちだ。今作はそういった「女の友情は陰湿」というステレオタイプをものともしない。

 またキャシーというキャラクター自体にも作り手が愛情を持っていることが窺える。先述した通り、本作はホラーとしての純度を高める為、1933年版と異なり「美女の死体失踪事件」が「親友キャシーの死体失踪」に変更されている。つまり、ある意味で彼女は、設定の為に作られ、設定のためだけに殺される、「映画に都合よく使い捨てられる女」だ。しかし本作は、いくらでも薄っぺらく表現が可能なこのキャラクターを、意思を持つ“生きた人間”としてしっかり描いてみせる。

 登場からキャシーは一貫して男に依存することで幸せを掴もうとする。彼女と会話する男は “結婚相手には値しないが遊ぶにはちょうどいいバカな美人”として彼女を扱う。しかし、彼女はスーとの会話の中で、意中の相手を「お酒を飲まない時は紳士だ」と評し、自身については「男性といる時は飲みすぎないように注意している」と、目の前の相手を冷静に分析し、その上で自身の行動にも常に気を配っていることを明かす(ヴァーホーベンが演出しそうなバランスのキャラクターだとも思った)。

 そんな彼女をスーは「親友」と表現し、彼女の死と死体失踪に終始心を痛め続ける(なにより本作における彼女の行動原理は「親友の尊厳」を取り戻そうとする強い友情だ)。

 

 展示されている蝋人形達にも特徴が窺える。新しい蝋人形館のオープニングで、作品紹介を行うジャロッド。数ある蝋人形の中でも、彼が誇らしげに解説をするのは「自らの意志で”時代”と戦った女性達」の蝋人形だ(もしくは「戦うしかなかった」と表現する方が適切かもしれませんが)。

 

 また、最初のスーの悲鳴に対し、先頭になって様子を見に行くのも女性であれば、2度目の悲鳴に真っ先に駆けつけるのも女性だ(特に最初のシーンはわざわざ男側が物おじしている様に描いている)。

 

 正直、映画をフェミニズム的に解釈できるほど、学問としてのフェミニズムに知識があるわけではなく、また監督のフィルモグラフィや当時の発言等を参照しているわけでもないので、これが気のせいである可能性も大いにある(少し引っかかるシーンもあるにはある)。それでも、この映画が女性を男性より弱い存在として描いていないことだけは確かだ。

 

 先述した通り、互いに呼応し合っているシーンも多い。序盤、蝋人形館の灯りを消し火を放った人物が、自室の灯りを消され殺害される。蝋人形館と死体安置所の対比も同様。首がロープで絞められるシーンの次に映るのはコルセットがキツく締められるシーンだ。また、エレベーターでのアクションシーンも、ラスト地下工場でのシーンもアクションの構成が上から下へ落ちていくという“縦の構図”になっている。

 特に秀逸なのが、恋仲でもあったバークとキャシーのデートでの会話だ。バークはキャシーに対し「焼けた蝋人形館の男は親友だった」としらじらしく話す(キャシーは犯人がバークだとは知らない)。片や「金のために友情を焼き尽くす男」、片や「打算抜きに友情を大切にする女」。この2人の会話の中に「親友」というワードが出てくるのは偶然では無いはずだ。

 

 少し物足りない部分があるとすれば、ジャロッドが蝋人形の材料に死体を使用するに至るまでの描写だ。再び蝋人形職人として復活したジャロッドは既に死体から蝋人形を造るという凶行に及んでおり、観客にはどのタイミングで“そうなったのか”が明示されない。例えば「バークを殺した後、その死体を処理するために蝋人形にしてみたが、その完成度に完全に心を奪われてしまった」みたいなシーンがあれば、さらに禍々しい作品になった気もする。

 

 長くなったが、とにかく素晴らしい作品だった。各キャラクターに深みを与え、しっかりとした演出のタメがあり、簡潔でありながらも奥行きのあるストーリーを構成し、さらにそれらを90分以内に収める本作は非常に完成度が高く、何より勉強になる映画だと思った。傑作。

 

クルードさんちのはじめての冒険(2013)

 

『クルードさんちのはじめての冒険』

原題:The Croods

監督:カーク・デミッコ、クリス・サンダース

脚本:カーク・デミッコ、クリス・サンダース

出演:ニコラス・ケイジエマ・ストーンライアン・レイノルズキャサリン・キーナー

     クロリス・リーチマン、クラーク・デューク、ランディ・トム

 

 原始時代、「外の世界は危険」という父親グラグの考えのもと、洞窟の中で生活をしてきたクルードさん一家、そんな生活に娘のイープは日々嫌気がさしていた。ある日、突然の天変地異により住み慣れた洞窟が崩れてしまった一家は、外の世界へと放り出されてしまう。安全な場所を目指し、一家の初めての冒険が始まる。

 

 とにかく脚本がよく出来ている。ここまでよく出来た脚本の映画をあまり知らないというくらい。画面上で繰り広げられるアクションに次ぐアクションが全て独立した意味を持ち、それでいて伏線として機能している。 

 映画は本来、アクションの連続で成り立っている。それが“カフェでの何気ない会話シーン”であっても、“走る電車の上での格闘シーン”であっても、監督が「アクション!」と言い、撮影が始まるのが示すように、それらは等しくアクションだ。アクションが映画を語り、さらに先へと進める。しかし、アクションを「語り」の一部として機能させるには優れた脚本と、作り手の確かな手腕が必要になる。それらを欠いた映画は、遅かれ早かれ、作り手の意図しない失速を見せる(派手な“だけ”のカーチェイスシーン、ストーリーが進まず、飽きてしまった経験は誰もがあると思います)。

 「クルードさんちのはじめての冒険」は、全てがうまく機能している。さりげなく貼られた伏線(アクション)が、さりげなく回収され、その全てがストーリーの進行やテーマとなんらかの形で関わっている、恐ろしくよく出来た映画だ。

 

 映画は、地殻変動から逃げるための、「明日」へ向かうための冒険を通して「何が人間を人間たらしめるのか」という問いを投げかけてくる。もちろんそこには人の数だけ考え方があるが、作り手は「知性」こそが、人間なのだと主張する。暗闇を照らすために火をおこし、存在を確かめるために貝を吹き、大きな獲物を容易に捕えるため罠を作り、足を傷つけぬよう靴を履き、広い世界を知るために物語を語る。そしてそれらを他者と共有し、その空間自体をより豊かにしようと試みる。何かを作る思考力、何かを語る想像力、それらは「知性」であり、それこそが人間の最大の武器なのだと映画は力強く訴えかける。

 これは知性と共に、より良い新たな世界へ一歩踏みだす「人間讃歌」の物語だ(もちろん他の動物には知性がないと言っている映画でも、そこを持って人類を生物の頂点と位置付ける映画でもありません。また個々の知的優劣によって価値を判断する優勢思想的な映画でも決してないです)。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 とにかく、指摘しきれないほど多くの要素が絡み合っているが、最も分かりやすい例が「手」を使ったアクションだ。この映画は明らかに「手」の演出を中心に据えて作られている(映画で最初に照らされるのは何か)。

 序盤、「手」は家族を旧世界へ留め「支配する」という機能を果たす。“危険を避けるため”という名目のもと、家族の行動は父親グラグの「手」によって常に制限がかかる。大きな腕で行手を阻み、二本指は危険の指標を作り、家族に聞かせる「お話」も半ば強制的に手のひらによって終わりを迎える。グラグは自身と家族を取り巻く世界から「新しい」ものを、「未知」を退けようとする。

 そして、そんな旧世界から新世界への憧れを表すのもまた「手」だ。暗闇との境界線、沈みゆく太陽に「手」を伸ばす娘のイープは、真っ暗な洞窟で闇に消えたはずの光を見つけ、必死に“掴み取ろう”とする。そして遂に、光源を求め安全なはずの旧世界から、文字通り「手」を離す(テーマと演出のリンクがピークに達するこのシーンは、この映画で最もスリリングかつ感動的な場面の一つです)。

 さらにはクライマックス、絶対絶命のピンチの中で、父親のグラグが断崖の先にある明日へと希望を渡すのも「手」だ。

 このように、登場人物がどのタイミングでどのように「手」を使うのか、その変遷でこの映画(の一側面)を読み解くことが可能になっている。

 

 地殻変動は、単に物語を前に進めるためだけの装置ではなく、“旧世代の価値観が崩れていく”メタファーとも、それとは裏表の“押し寄せる新世代の価値観”とも読み解ける。どう足掻こうが、どれだけ小さなプライドにしがみつこうが、世界は常に変わっていくのだ(ただ、現在それに対するバックラッシュがこれまでにないほど苛烈に働いている気がするので、この解釈に若干の楽観性が見えてしまうのが残念なあたりですが)。

 

 冒険の途中、危機にさらされた一家はガイという少年に助けられる。「知性」を武器に様々な困難をいとも簡単に乗りこなすガイ。そんなガイに娘のイープは心惹かれ、家族も彼を頼る様になる。自身が最も欲してやまない家族からの関心を“男らしさ”のかけらもない若造に奪われたグラグは苛立ちを隠せず、ガイに反発してしまう。

 そんな旧世代の代表者であるグラグは、冒険の中で変化と適応が必要であると気づき始める。しかしその気づきを中々受け入れられないグラグ。なぜなら、その変化の手がかりは、他ならぬ新世代の代表者ガイだからだ。ちっぽけなプライドと無知ゆえの恐怖を捨て去ることができるのか、言い換えれば、居心地のいい「家父長制」から脱却することができるか、グラグは冒険の間、ガイを通してこの問題と向き合い続けることになる。

 だからこそ、グラグがガイに対抗するように自身のアイデアを形にし、家族の関心を惹こうとするシーンは可笑しくも感動的だ。その全てはほとんど成功せずに終わる(失敗ではないのが肝)。しかしガイは絶対に笑わない。グラグの行動に家族が呆れる中、ガイだけが一人、グラグの行動を真剣に観察し、対等に向き合おうとする。

 

 個人的に最も好きなシーンが、ガイがクルード一家に「お話」を聞かせるシーンだ。これまで聞かされてきた「お話」に続きがあったこと、その先に“未知の世界が広がっていた”ことを一家が初めて認識するシーン。登場人物がありふれた「お話」を語るだけで、ここまで感動的で息を呑む瞬間が作れることに、映画が持つ魔法のような力を実感する。

 

 その他、先述した通り、指摘しきれないほど、さまざまなシーンが絡み合っている。

 例えば、巨大なサーベルタイガーを利用しタールから抜け出すシーン。ここはサーベルタイガーがはじめに主人公家族を襲おうとしていたシーンと遂になっている(擬態と罠)とか、サルとバナナをめぐる対立と対話とか、前半と終盤で対になる洞窟への避難とか、そこでのセリフのやりとりとか、グラグの安否を案じるイープのそばに立ったのが誰なのかとか、動物の背中に乗り並走する旧世代と新世代の男女の位置の違いとか、旧世界と新世界の色の対比とか、ペットの件とか、とにかくあげればキリがない。

 

 不満点があるとすれば、この物語がどこまで行っても父親グラグと娘イープの物語であるということだ。もちろん「家父長制」からの脱却がテーマに込められている以上は仕方のないことだが、グラグが変われたのは、パートナーであるウーガの存在が大きい。グラグが自身の傲慢さを認め、変化への一歩を踏み出せたのは、彼女がグラグの側で“一定の自尊心”を保てる様にケアしていたからだ。おそらく彼女のケアが無ければグラグはこの冒険を乗り越えられてはいない。これまでの現実世界がそうであるように、偉そうにしている男が、気持ちよく偉そうでいられるのは、その男の面子を守りつつ、裏でケツを拭いてくれる、三歩後ろを歩く(歩かされている、もしくは歩くしかない)存在があるからだ。しかし、映画はそこにあまり焦点を当てられていない(というかこの手の映画は、支配の象徴として「旧世代の男性」、自由の象徴として「新世代の女性」という構図が量産されるのに対し、その狭間で葛藤するしかなかった「旧世代の女性」に比重を置くことが少ない気がする)。次回作以降、ウーガの様に“気を使うしかなかった側”からの物語が見たいとも思ってしまう(という指摘をしている自分も特権的な男であることを自覚した上で)。

 

 不満とは別に、一つ気になったのが「明日」の取り扱い方だ。中盤、「お話」には続きがあることが語られるシーン、ここでガイは“明日へと飛んだ少女の話”をする。「明日とは何なのか?」と尋ねる家族に対し、「太陽がたくさんある場所」と返すガイ。それに対しグラグは「明日は場所じゃないし、目には見えない」と反論するが、ガイは「明日という場所は実際に存在し、目に見える」と答える。もちろんこれは比喩表現であり、まさに、この物語のテーマの核となる「知性」が可能にした表現における高等技術だ(ここで重要なのは登場人物の誰もがこれを比喩だと分かってはいないという点)。しかし、映画は「明日」を目指す家族に対し、具体的な場所を提示してしまう(比喩を具体化させ、「明日」が実際に有ったことになってしまっている)。もちろん比喩を知る観客にとってはそれでも十分なのだが、この物語のテーマに真の意味で迫るなら、登場人物に「明日」という場所自体は存在せず、比喩という表現方法の一つだったことを学ばせるべきだったのではないか。「明日」は実際には存在しなかったが、「明日」を目指したからこそより良い場所に行き着いた、物事を「抽象化」することが、時には世界をより正確に捉えることができる、ということを知る、つまり比喩表現を獲得するプロセスとして「明日」を描いても良かった気がする。

 

 気になる点を少し長く書き連ねてしまったが、本当に良く出来た作品だ。今の人間社会が、この映画の様な先人達の、小さな一歩の積み重ねの先に成り立ったものだと思うと勇気をもらえるし、同時に次の世代への責任感も生まれてくる。現在蔓延している、反知性主義(あまり好きな言葉ではないですが)やポピュリズムに対するカウンターにもなっていると思う。大傑作

 

年代別一覧

年代別一覧

 



2010年代

クルードさんちのはじめての冒険(2013)

しわ(2011)

テイク・ディス・ワルツ(2011)

2000年代

スリ(2008)

シークレット・サンシャイン(2007)

1990年代

1950年代

肉の蝋人形(1953)

 

シークレット・サンシャイン(2007)


シークレット・サンシャイン

原題:密陽

監督:イ・チャンドン

脚本:イ・チャンドン

撮影:チョ・ヨンギュ

出演:チョン・ドヨンソン・ガンホ

 

 「この世に救いはあるのか」、最愛の息子を奪われた主人公・シネは絶望の中で宗教(キリスト教)に希望の光を見出す。再び平穏を取り戻した彼女は、神の教えに従い、犯人に「赦し」を与えに行くのだが…。

 

 確かに、宗教(特にキリスト教)を批判的に捉えた映画ではある。救いとなるはずの神の教えがさらなる絶望を突きつけてくる。「宗教に人は救えるのか」、映画は全編を通してこの疑問を投げかける。しかし、この映画が真に問いかけているのはもっと普遍的な(もしくはさらにその先の)「この世に救いはあるのか」ということのような気がする(もちろんキリスト教が最も重要なファクターであることは言うまでもないですが)。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 序盤、自身の見栄をきっかけに息子を失うこととなったシネは、たった一人、身寄りのない街で、急速に衰弱していく。映画は、シネの壊れゆく精神や剥き出しの感情を手持ちのカメラで淡々と描写する。揺れるカメラ、無造作にも見えるショットの羅列、一見すると臨場感優先の“荒々しい映画”のように見えるが、実はかなり計算された画面設計のもと撮られた“繊細な映画”だと思う。

 

 例えばこんなシーンがある。

 

 中盤、絶望の淵にいるシネは導かれるように教会へ訪れることになる(役所の床に散らばる荷物、そこに注ぎ込む光、荷物を拾う為にしゃがむことで光に照らされるシネ、耐えきれず飛び出した先に見えた「傷ついた魂のための祈り」、教会とシネの間にある道路、階段の鏡、その全てが暗示的だ)。

 教会内の隅に置かれたカメラは祈りを捧げる人々とその中心の男(牧師)を映し出す。男から発せられる言葉に涙を流す人々。そこにシネの嗚咽が響き始める。ゆっくりとシネの方へ向かう男。そしてカメラはシネへと切り返される。ここから先、カメラは男の顔が画面の内側に入り込むことを拒む。“顔のない誰か”、そしてその誰かからシネへと“降りてくる手”。この個人の特定を拒む演出が、“形而上のとある誰か”をより強く浮かび上がらせ、降りてくる手を“救いの手”として強烈に表現する。「訪れた救いの瞬間」をイ・チャンドンは素っ気ないショットで完璧に捉えてみせる。

 ここで重要なのは、あの瞬間シネが「本当に救われていた」ということだ(それが仮初のものだったとしても)。教会での体験を笑顔で語り出すシネ。シネを捉えたまま徐々にズームアウトしていくカメラ。周りで話を聞いていた人たちが徐々にフレーム内へと映り込んでくる。シネの世界が文字通り“広がって”いく。

 

 キリスト教をテーマに撮られた映画は様々ある。それらの映画はキリスト教が内包する負の歴史、矛盾、欺瞞、更には「神の存在」に鋭い疑問の視線を向ける。ただそのような映画が見落としがちなのが、あの瞬間のシネのような、実際に“救われたと実感”している人たち、またはその魂だ。イ・チャンドンは宗教の限界を見据えながらも「救われる魂」それ自体を決して否定しない。シークレット・サンシャインは非常に優れたバランス感覚のもとに作られている。

 

 映画の後半、救いをもたらしてくれたはずの神に先を越されたシネは、再び絶望の淵に立たされてしまう。面会の後、信仰を文字通り“手放した”彼女は、病院のベッドで神と対峙することを静かに決意する。

 ここから先、シネの肉体と精神は再び衰弱していく。しかし、同時に、これまでとは異なる強さが映し出される。それは、人間の“意志の強さ”だ。他者が押し付ける「赦せ」という教えを跳ね除け、憎むことを、「赦さない」ことを選択した、“神にすら揺るがすことのできない圧倒的な意志の強さ”が物語を支配していく(そういう意味では、これは「神や宗教」についての映画というだけでなく、それらと対等に渡り合った「人間」についての映画とも言えるかもしれません)。

 

 「神」は映画全編を通して大小様々な試練をシネに与え続ける(特に、小さな試練の描き方、そのタイミングがこの映画は本当に上手い)。しかし、最後にシネを試すのは神ではなく、映画の「作り手」だ(というか、全ての映画は作り手こそがキャラクターに試練を与えているわけで、そしてそれこそがこの映画を見た後に感じてしまう若干のモヤモヤでもあるのですが)。

 シネは最後、作り手から「本当はすぐ側にあった“救いの可能性”に気づけるか」という試練を課せられる。この結末が観客に提示されることはない(作り手が「ここから先は、彼女だけの物語だ」と言っているような気がした)。それでもラスト、映画は、「この世に救いはあるのか」という問いに対し、裏庭に射す「密かな陽の光」で答えてみせる。

 

※「若干のモヤモヤ」というのは、宗教が持つある種の傲慢さを批判的に描く映画が、それを表現するために、同じような目線から主人公を試し続けている気がしたから。先述した通り、すべての映画そうなんだからそれ言ってもしょーがなくね?って話なのですが、おそらくこの映画があまりにも上手すぎるため、そしてこのテーマをこの手法で描いたため、そのように感じてしまったんだと思います。

 テーマとは少しズレるのですが、個人的に気になったのは、ソン・ガンホ演じる社長の存在。映画では「救いの可能性」のひとつとして描かれているのですが、公開当時と今では少し違う印象を受けてしまいました。確かに彼は主人公に常に寄り添い、その行動を優しく見守り続ける、彼女にとっての「救いの可能性」です(最後まで彼女を理解してなさそうですが)。確かに彼は優しい。ただ、時折見せるシネ以外の人に対する言動や行動が、家父長制にどっぷりと浸かった男の悪ノリ的なそれで、彼女に対する優しさも、意中の人を手に入れたいという欲望からくる期限付きのものである可能性がある(意地悪な見方だとは思いますが)。久しぶりに見返すと、「仮にこのおやじと一緒になっても、別の地獄が待ってそうな気がしなくもねーな」という印象も持ってしまいました(自戒の念を込めて)。

 あと、犯人の娘さんには、しっかりとした大人のもとで、ちゃんと幸せになって欲しいと思いました。