The Garden(2026)

 

 草月流に所属する知人(高嶺一染)が関わった個展を観るために、六本木の「Atsuhiko Suematsu Gallery」という場所に行ってきた。

 

 今回の企画「The Garden」は、瀬戸市を拠点に活動する陶芸家 加藤巧の作品にいけばなを加えることで、加藤の作品に新たな意味や緊張感を見出そうとする試みがあるとのこと。

 

 正直、いけばなや陶芸に関しては知識が皆無のため、どのような見方が“正攻法”なのかは分からないが、分からないなりに面白い発見が沢山あった(途中から高嶺がギャラリーを案内してくれたので、それが補助線になった気がする)。

 

 全ての作品がそれぞれに興味深いものだったが、その中でも今回の個展のコンセプトに特に沿っていると思ったのが以下の作品。

 

 

 この作品を見て頭に浮かんだのは「記憶」または「二重性」だった。

 

 トルソーの形をした器に、頭部の代替えとしていけられた二種類の植物(構造上そうなっただけで、そこにそういう意図があったわけではないのかもしれないが)。片方は彩られ、もう片方はひたすら混沌としている。まるで、確かに手にしていたこれまでの「記憶」が、月日と共に“時系列”や“色”を失っていく様を表現しているようだった。記憶の消失という“目には見えぬ過程”を、この作品が“視覚化”しているように感じた。例えば「認知症」をテーマに何かしらの作品を表現した場合、このような造形物になっていくのではと思ってしまった(この例えが適切なのかは分からない)。

 または、二種類の植物は外面と内面の表れなのかもしれない(どちらがそれを担っているかはその時で変わる気がする)。よく知る人間の知らない一面を目にした時のあの感覚。限りなく近しい存在だと思っていた人間の他者性を思い知らされるあの瞬間。言い換えればそれは「他人の頭の中」という“曖昧さ”だったりするわけだが、そういった視認することのできない限りなく抽象的なものを、トルソーという器と「いけばな」を駆使して具象化しているようにも感じた。

 

 先述した通り、こういった感覚が頭をよぎったのはトルソーにいけられた花に頭部を見たからなわけだが、それだけが理由ではない気がする。トルソーという顔のない肉体は否応なしに「匿名性」を高くする。とある個人の“何か”ではなく、不特定多数の“誰か”を見出しやすい(つまり作品を他者化しやすい)。そういったことも合わさって、上記のような感覚でこの作品を見てしまったのかもしれない。

 

 

 もう一つ目を引いたのがこの作品だった。

 

 古墳状の壊れかけたオブジェを覆い隠すように自生する植物達。かつてそこに存在した人為的な何かが、時間と共に忘れ去られていく様子を表しているように感じた。“墓”状の構造物にいけられた花と、その側にアダンが実ることで、“命のせめぎ合い”を見ているようでもあった。強烈に連想したのが「ジェノサイドの丘〜ルワンダ虐殺の隠された真実〜」と「沖縄の歴史・地理」だった。

 

 「ジェノサイドの丘」の冒頭(p13〜14)にある強烈な文章の連なり。詳しくは省くが、そこで息づいていた多くの“現象”が事切れてしまい、時間の経過と共に「存在しなかったこと」にされてしまう忘却の無責任さと、そこにある種の美を見出してしまう人間の無責任さ(それらを恐れて本の著者は目の前の光景を書き留めるわけだが)。惨劇の後に流れる時間が作り出す命のせめぎ合い(とは表現してはいけないほどの一方的な暴力の結果なのだが)のようなものが、この作品にも感じられた。

 

 「沖縄の歴史・地理」を感じたのは、この作品の構造にある。古墳を思わせるオブジェは文字通り「墓」だ。かつて誰かのために存在し、そして忘れ去られた、誰かのための墓。時間と共にその存在は荒廃し、自然に還り、それでもそこにあった名残を残そうとする。そんな感覚。

 戦後、沖縄では「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる土地の強制接収が起こった。米国の軍事基地利用の目的で、強奪された県民の土地。奪われた土地の中に先祖の墓が含まれていた人たちも存在した(そして二度とそこには足を踏みれることができなかった)。たとえば、かつて「中原」と呼ばれたあたりには、今もこのような場所があるのではないか、そんな感覚が生まれる作品だった(担当した高嶺はこの作品を「御嶽(うたき)」と表現しており、非常に納得した)。

 

 

 最後がこの作品(群)。

 

 壁掛けの輪も加藤の作品の一つだが、ひまわりがそこに顔を向けることで、太陽のようにも見えてくる(これは作品を設置した後に作家達が“気づいたこと”と高嶺が解説してくれた)。また、この構図によって左の“直立”する「いけばな」の“人工性”がより際立つ(人工物は太陽に一切の興味を持てない)。空間に置かれた作品が、他の作品と関わることでその意味を塗り重ねていく。まさに作り手の意図を超えて作品が意味を持ち出す瞬間だと思う(まさに今回の個展のコンセプトだと思う)。

 

 もう一つ思ったのが、加藤の一連の作品と、いけばなという行為の相性が良いということだ(恥ずかしながら他の作品を見たことがないので、この個展内の作品に限った話になるが)。

 

 今回、この個展に用意されていた加藤の作品はそのほとんどが、表面がざらついており、歪で荒々しく、「結果」よりも「過程」「素材」のイメージが先行する、非常にプリミティブな陶芸のように感じた(何度も言うが陶芸を芸術として鑑賞した経験がほぼゼロの人間の戯言だと思って欲しい)。

 成り立ちや歴史はさておき、いけばなという芸術は自然の美を人工的に再解釈し、それを再び自然的なものに「翻訳」しようとする行為だと言える(いけばなの一側面として)。意図的にプリミティブであろうとしているようにみえる加藤の表現が、いけばなという不自然な自然さを見つめる芸術と相性がいいのかもしれないと思った(両者とも自然から切り離し“人工物化”させたものに再び原初的な美のようなものを見出そうとしている言う意味で)。

 

 ギャラリーを案内してもらう途中で、高嶺からいけばなの歴史について「床間を抜け出す」という言葉を聞いた。以前、一度だけいけばなの展覧会に行く機会があったのだが、その時は作品を正面から見ることしかできなかった。ただ、今回の企画ではギャラリーの空間の広さも相まって、さまざまな角度から鑑賞することができた。その結果、以前の展覧会では感じなかった感動があった。長い歴史の中で、いけばなが「床間から抜け出した」のは必然だったのではないかと言う気がした。

 

 陶芸・いけばなの他の個展がどのようなものか分からないため、正確なことは書けないが、今回の個展で「特徴的なのかも?」と思ったのが、それぞれの作品に対して、何の説明書きもなかったことだった(もしかしたらどっかにあった?)。作品名、テーマ、注釈などがなく、「余白」を残した展示方法が結果的に作品を「能動的」に観察しようとする理由になったのかもしれないとかも思った(バックグラウンドの無さが逆に作品の意味づけを促している感じ)。

 

 長々と偉そうなことを書き連ねてしまったが、取り合えず、何も知らない素人の感想ということで(映画好きには陶芸といけばながこう見えた的な)。素人なりにとにかく楽しくて勉強になる個展でした。

 

※加藤の作品といけばなの相性についてもう少し付け足すと、加藤の作品も、いけばなも自然美と人工物の“境界線”を跨ぐ芸術(または境界線そのもの)のように感じた部分もあった。

※いけばなを、自然美から人工物化し再び自然の一部を見出す「翻訳」的な側面があると書いたが、高嶺が担当した白い筒状の作品に関して言うと、「翻訳」するという行為を拒絶し、人工物性を先鋭化させているようにも感じた(循環の流れを塞き止め新しい何かを見出そうとしている感じ)。

 

青い戦慄(1946)

 

『青い戦慄』

原題:The Blue Dahlia

監督:ジョージ・マーシャル

脚本:レイモンド・チャンドラー

出演:アラン・ラッド、ヴェロニカ・レイク、ウィリアム・ベンディック

撮影:ライオネル・リンドン

音楽:ヴィクター・ヤング

 

 復員した戦闘機パイロットのジョニーは、帰宅した先で妻ヘレンの不貞を目撃してしまう。口論の末に家を出たジョニー。しかし、その後ヘレンは何者かに射殺されてしまい、その容疑をかけられてしまう。逃亡を続けながらも真相に辿り着こうとするジョニーは、夜の雨の中、謎めいた美女に出会うのだが…。

 

  夜の街と暴力、退廃と欲望、光と影のコントラスト、ヴェロニカ・レイクのファーストショット、そしてひたすらの雨。どこをとっても「フィルム・ノワール」で溢れている本作。にも関わらず、観賞後に感じたのは「これはノワールなのか・・・」というものだった(もちろん正真正銘のノワール映画ではあるのだが)。そもそも、「フィルム・ノワール」というジャンルは後付けのものだ。また、その定義も非常に曖昧としている。もちろん、ある程度の括りは可能だが、そこに何を求めるかは強い個人差がある。本作を観ることで、自分がノワール映画の本質に“何”を見ているかが少し明確になった気がする。

 ノワールの記号で溢れる本作で、なぜノワールの匂いを感じないのか。暴力と欲望が画面を支配しているにも関わらず、なぜ健全に見えてしまうのか。なぜあらゆる側面で中途半端に感じてしまうのか。その違和感を言語化できればと思う。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 本作の特徴の一つとしてまず挙げられるのが「ファム・ファタールの不在」だ。嘘と美貌で欲望のままに物語を支配する「宿命の女」が本作には登場しない。

 

 ジョニーの妻であるヘレンは欲望と退廃の象徴だが、彼女の存在自体は本作においては取るに足らないものであり、彼女がついた大きな嘘も、あくまでこの世界の下準備としてしか機能しておらず、物語自体を牽引するわけではない(彼女はむしろ、戦後の消費社会に走ったアメリアの退廃の象徴として描かれているように見える)。

 ヴェロニカ・レイク演じるジョイスに関しても同様のことが言える。圧倒的な美貌と理知的な態度で、終始ミステリアスに演出される彼女だが、映画を通して判明するのは打算や裏切りのない誠実な人柄だけだ。彼女もヘレンと同様に本作の中では非常に小さな存在であり、この物語を支配することはない(支配“出来ない”と言った方が正確かもしれない)

 ファム・ファタールとしての役割もなく、そのイメージだけを丁寧に纏わされる二人。この微妙にピントのズレたキャラクター設定が、本作を中途半端なものにしている気がする(手のひらが痒いのに、それがどの部分なのか正確にはわからない時のあの感じ)

 

 とはいえ、この「宿命の不在」は本作に面白い効果をもたらしている。それは悲劇の「原因」に注目すると見えてくる。

 

 ノワール映画では、悲劇や悪夢、破滅の原因を女性に求めがちだ。「スカーレット・ストリート」しかり、「過去を逃れて」しかり、悲劇の中心には「宿命の女」が存在する。しかし、先述したとおり、本作はその特性上それが出来なくなっている。

 

 本作は悲劇の原因を女性ではなく、暴力を日常生活における交渉の手段と捉えてしまう男たちの「暴力性」に見出す(そうならざるえなかった男も含めて)。

 

 戦地から帰還した、主人公のジョニーとその仲間たち。帰宅する前に一杯やろうとバーに入るのだが、そこで早速喧嘩をしてしまう(もちろんそこにはのっぴきならない理由があるのだが、その理由の原因もまた暴力だ)。

 帰宅したジョニーは、痴情のもつれから大勢の前で暴力的な態度をとってしまう。そしてその後、最悪の真実をヘレンから聞かされ、彼女に銃を突き付ける(彼女には「暴力を覚えてきたのね」という確信犯的なセリフも用意されている)。そして、それを真犯人に見られてしまい、彼への不利な証拠として利用されてしまう。

 その他、事件が複雑化する理由も、最も怪しかった人物が犯人ではないと観客に明かされる瞬間も、新たな容疑者が生まれる原因も、その全てに男たちの中にある「暴力性」が関わっている。この、物語を支配し先へと進めるが「女の欲望」ではなく「男たちの暴力」という構造が、本作を戦後ノワール作品群のなかでも少し特異な作品にしている原因な気がする(ノワール映画を数多く観ている訳ではないので、自分の見識が甘いだけの可能性は大いにあるが)。

 

 少し脇道に逸れるが、本作の「ファム・ファタールの不在」に注目していて感じたのが、フィルム・ノワールというジャンルがどこまでも「逆恨み的」だということだった。

 

 ファム・ファタールの成り立ちは、第二次世界大戦が大きく関わっている(まさに本作のど真ん中だ)。戦時中、男手が足りなくなった社会を支えるために、残された女性たちは労働者として社会進出することになる。その結果、女性達は社会的地位の向上と、経済的自立、確かな主体性を手にするようになる。当然、戦後男社会はその勢いと崩れるジェンダーロールに脅威を感じるようになっていく。そして「宿命の女」が誕生する。

 この「経済的に自立し主体性を有するようになった女性の誕生に脅威を感じる」という男性社会の心理的な闇が「ファム・ファタール」を作り上げたとされている(これだけでもかなり身勝手な話だが)。つまり、「ファム・ファタール」とは戦後の女性労働者達に対する、男性側の嫉妬や恐怖の投影なわけだ。

 

 にも関わらず、フィルム・ノワールは主体性を有する女性達を“労働者”としては描かない(もちろん働いているシーンも無数に描かれているが“労働者”として描かれているとは言い難い)。フィルム・ノワールのファム・ファタールは働かない。現実の世界で“労働”によって手に入れたはず社会的地位は、その事実を剥ぎ取られ、男を騙すことで手に入れるものへとすり替えられてします。まさに身勝手な逆恨みだと思う(勿論「ミルドレッド・ピアース」のように退廃を次の世代に象徴させた映画もあるが)。

 

 本作最大の欠点は「登場人物が全員正直者」であることだ(と、思う)。そしてこの欠点は、単純に脚本上の不備というだけでなく、本作のノワールとしての根幹にも大きく関わってしまっている。

 

 本作に登場する人物は、とにかくみんな正直者だ(びっくりするくらい)。交渉や駆け引きなど一切なく自分が把握している情報を相手にペラペラと喋り続けてしまう(そのくせ肝心な時にはダンマリこいてしまう)。そのおかげで、登場人物たちは各々が窮地に陥り、挙げ句の果てにはあのラストを迎えてしまう。

 

 全てがそうだとは言わないが、基本的にノワール映画では登場人物が息をするように嘘を吐く。その嘘が物語を複雑化させ、先へと進める。誰も真実や本音を言わず、情報は断片化され、主人公は為す術もなく悪夢的な状況に飲み込まれていく。観客はその虚実に酩酊感を覚える。だからこそ、宿命論的なノワールの「闇」が成立する(と思っている)。

 

 しかし、先述したように、本作では全ての登場人物が、本音を語り真実を話す。宿命的な揺らぎはなく、ひたすらよく出来た偶然(段取り)だけが画面上で展開される。結果、観客は割と真っ直ぐな道筋の先で、“脚本に案内されるまま”真相に辿り着いてしまう。確かに本作は暴力と欲望に埋め尽くされているが、そこにノワール特有の「闇」は存在しない(画面は暗いんだけどね)。この「正直さ(言い換えれば嘘の無さ)」こそ、自分が本作に感じてしまった“健全さ”や“違和感”の正体だと思う。

 

 少し文句めいたことを書き連ねてしまったが、本作には素晴らしいシーンも沢山ある(クラシックとされている訳だから当然なんだが)。

 

 例えば、中盤の安宿のシーン。ジョニーは連絡のために宿の廊下にある電話を使用するのだが、その電話を宿のオーナーに盗聴されてしまう。このシーン、作り手はカットを割ることなく、同一ショット内でオーナーの盗聴を捉える。この演出によって、悪夢が“主人公の気付かぬうちに”迫ってきているという表現が成立している(フィックスで撮られた長いワンショットが世界の変化をよりはっきりと地続きなものとして捉えるからだ)。

 

 ヴェロニカ・レイクが登場しているシーンに関しては全てが素晴らしいので実際に観て確認して欲しいのだが、一つ例を挙げるとすると、中盤のホテル内にある海の見えるレストランでのシーンが素晴らしいものになっている。

 

 レストラン入り口から窓際の席へと案内されるジョーニー。カメラは右にパンしながら彼をワンショットで捉える。席に着くジョニー。ウェイターが画面右から現れる。ジョニーの注文を受けたウェイターは先ほどの動線をたどり画面外へはけようとする。ここでカメラはジョニーから離れ、このウェイターを追いかける。そのまま右へと移動するカメラ。その先でフレームインするヴェロニカ・レイクの後ろ姿(正確には半身)。手鏡を取り化粧の確認をする彼女。鏡に映るジョニーに気付き、笑顔で彼の方へ振り返る(彼女の表情がここで初めて画面上に現れる)。

 偶然の再会をワンショットで描き、かつ手鏡の反射というトリッキーな仕掛けを用意することで、二人の特別な関係性はより強く表現されることになる(長回しが繋がりを意識させる)。また、彼女の表情をショットの最後まで引っ張ることによって、その魅力もより強く増している。役者同士の関係性や魅力を最大限まで引き出す素晴らしいシーンだと思う。

 

 その他、役者、衣装、美術、それらを魅せる照明や撮影は本当に素晴らしい(あと、劇伴が必要以上に流れなかったのも、本作ではプラスに働いていると思う)。

 

 色々言ったが、結論としては、「瞬間を切り取る力が凄まじい、ルックだけでノワールを成立させしまった映画」という印象(まあ、でもノワールというより戦後社会派ハードボイルドだと思う)。手放しで褒められないが観て損はない映画だと思う。

 

※本作を「悲劇の原因に女性を採用していない」と言ったが、だからと言ってフェミニズム的だとするのは無理だと思う。また、ヘレンがあのキャラクターでなければ事件は起こっていないことを考えると、やはり本作も「女性」という属性に男の破滅の原因の一部を見ているとも言える(それっぽいセリフもあるしね)。

※ヴェロニカ・レイクの“何にも無さ”には正直驚かされた。あの写真の匂わせ方と登場の仕方を用意しといて、ここまで無味無臭なのは逆に新鮮だった。「この話めっちゃウケるんだけど」と自分でハードルを上げといて、普通につまらん話をしてくるヤツと同じ匂いがした。

※ヘレン役のドリス・ダウリングも非常に素晴らしかった。

※書いといてなんだが、後付けでジャンル分けしといて、物足りないと難癖つけられてしまう本作は可哀想だなとも思う。作り手が「普通に余計なお世話だろ」って思ってても全然おかしくない。

※本作はアカデミー脚本賞にノミネートされたらしいが、流石にそれは厳しいと思う。チャンドラーに気を使ったか、もしくはその年に公開された他の映画の脚本が壊滅的に悪かったかだと思う。

※この脚本は完成するまでにも凄まじいエピソードがある。チャンドラー自身が常に酩酊・絶食状態で執筆していたことや、それを制作会社側が了承したこと、また海軍からの横槍など、こっちの方がノワールな感じがするくらいだったりする。

※最初のバーの店員さんは可哀想だと思った

 

ターミナル(2004)

『ターミナル』

原題:The Terminal

監督:スティーブン・スピルバーグ

脚本:サーシャ・ガヴァシ、ジェフ・ナサンソン

出演:トム・ハンクス、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、スタンリー・トゥッチ

   バリー・シャバカ・ヘンリー、シャイ・マクブライド、ディエゴ・ルナ

   ゾーイ・ソルダナ、クマール・パラーナ

撮影:ヤヌス・カミンスキー

音楽:ジョン・ウィリアムズ

 

 父の夢であったジャズクラブへ向かうため、ニューヨークへ降り立ったビクター。しかし、フライトの途中で母国が内戦状態になり、パスポートは無効化、彼自身も無国籍状態に陥ってしまう。入国ビザの取り消しとともに、空港に取り残されてしまうことになったビクター。言葉もわからないまま、父の意思を繋ぐための空港暮らしが始まる。

 

 ヒッチコックがそうであるように、スピルバーグもまた「映画とは何か」という問いを追求し続ける。彼の映画では常に「セリフ」ではなく「映像」が先行する。劇中で何かが立ち上る瞬間、湧き上がる瞬間、加速する瞬間、沈み込む瞬間、彼は「セリフ」ではなく「映像」でそれらを語ろうとする(そして語り切ってしまう)。

 

 本作は所謂「箱庭映画」だ。空港が象徴しているのはアメリカだ。様々な人種が行き交い、その多様性に豊かさを見出す“はず”の理想のアメリカ。9.11以降、その疑心暗鬼から排外主義が加速する混沌のアメリカ。空港の中で起こる数々のアクシデントとその着地を確認していくことで、スピルバーグが自国に対して、または世界に対して何を求めているのかが見えてくる。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 稼働し始める各国の名前が表示された反転フラップ式案内表機。流れる場内アナウンス。並ぶ星条旗。雪崩れ込む“様々な人種”の人たち。多様性でごった返すJFK空港という名の「アメリカ」。ひたすら騒がし本作の中で、スピルバーグの「映画的」な表現は炸裂し続ける。

 

 序盤、法の隙間からトワイライトゾーンに落ちたビクターは別室で尋問を受けることになる。傲慢な態度で、ビクターが何も理解できないことを承知しながら、それでも一方的に全てを説明する国境警備局主任のディクソン。自国の状況を“未知の言語”で一方的に説明されるビクターは、何も理解できないまま、空港の乗り継ぎロビーへと放り出されてしまう。この一連のシーン、空間設計やアクション、カメラの動きは全てビクターの内面や状況とシンクロするようにコントロールされており、究極的に「映画的」なシーンになっている。

 

 “閉鎖的”な部屋での尋問の後、“薄暗い”廊下を歩かされるビクター(これらの空間は当然彼の内面と状況を表している)。廊下の扉の先に待ち構える乗り継ぎのロビー。カメラは後ろからビクターを捉え、カットを割ることなく、彼の周りを周りなが、空港全体を捉える。突然の広い空間の提示により、ビクターの“小ささ”が強調される。ビクターを周回するそのカメラワークは、彼の足を“止め”ながら、同時に“止まらない人たち”を捉えることになる。目的地が決まっている人と目的地を見失った人の対比。この対照的なアクションを同一ショットに収めることで、ビクターの“孤独な状況”が“視覚的”により強調されることになる。

 

 カットが変わり、テレビからのニュースがビクターの耳に届く。カメラはニュースが耳に届かない人たちと、ビクターを同時に捉える(この対比)。言語がわからないままテレビの前に立つビクター。しかし、ニュースは次の内容へと変わる。それに応じて彼は、別のテレビを探し始める。映像だけを手掛かりにテレビからテレビへと空港内を移動するビクター。“高まる”緊張。それと呼応するように彼も舞台上を“高く”駆け上がる。VIPラウンジの前に立つビクター。自動ドアの開閉により情報は文字通り“遮断”され、彼の視界も文字通り“ぼやける”ことになる。

 

 例えば、もしこの一連のシーンが廊下を歩かずに乗り継ぎロビーから始まっていても、ストーリー上は何も問題はない。カメラがロビーで説明を受けるビクターだけを捉えていても何も問題はない。ビクターが本屋のテレビだけを見て全てを理解し涙していたとしても何も問題はない。または、彼の高まる緊張を空港全体に渡るアクションで表現せず、彼自身にセリフで「私は緊張しています」と言わせても、やはりストーリー上は問題ない。

 しかし、もしそうだとしたら、本作の持つ緊迫感は絶対に生まれていない。少しづつ開示される状況とそれに応じて変化していくアクションや空間がこの状況に“緊張感”を与えている。だからこそ観客はビクターに共感し、彼の恐怖を理解し、彼の喜怒哀楽に共鳴し、その後の彼の物語に目が離せなくなる。

 観客に集中してもらう為には、観客自身を主人公の人生に乗り込ませなければならない(全ての映画がそうではないが)。スピルバーグは本作で最も重要なこのシーンを、どこまでも映画的な表現で丁寧に扱っていく。

 

 他者の内面という本来なら視認できない情報を、視覚的な映画術(アクション、美術、カメラワーク)で観客に視認させるスピルバーグの圧倒的な手腕は、このシーン以降も冴え渡り続ける。

 

 中盤、空港内でとあるハプニングが発生する。言語の違いによる無理解とそこから生じる恐怖心の結果、攻撃的になっていく警備員達(ほぼ全員が銃に手をかけている)。明らかに悪化していく事態。そこに現れる言葉を用いてコミュニケーションを取ろうとするビクター。彼は言葉という“武力以外”の方法で事態を解決して見せる。

 英雄になったビクター。トイレから出てきた彼は“フードコート”を歩く。そんな彼を親愛と尊敬の眼差しで見つめる“様々な人種”の人々。映画は“多様な人種が必然的に集まるフードコートという空間”を利用し、そこをビクターに歩かせることで、テーマを“視覚化”を試みる。

 無理解で高圧的な態度ではなく、余白と理解のある歩み寄りの態度こそ解決の糸口になる。そこに人種の隔たりは必要ない。恐怖心を克服した先で、他者に示す信頼と尊敬の態度。時には「規定よりも理念こそが真に世界を良くするのではないか」というスピルバーグ映画の核がこのシーンでは表されている。

 

 「テーマが“視覚的”に立ち上る瞬間」はラストにも用意されている。

 

 終盤、ニューヨーク行きを諦めることにしたビクター。そんな彼をもう一度奮い立たせる、空港内の様々な人種・職業の人たち。巨大なジャンボジェットを塞ぐグプタ(その象徴的な構図)。ビクターのニューヨーク行きに集まりだす日本食の店員、中華料理人、その他多くの出自を持つ人たち。彼の肩にコートをかけるアフリカンアメリカンのレイ。そしてタクシーの運転手。この一連のシーンは、人種や職業、その他様々な隔たりを持つ小さな個人の小さな勇気の集まりやその連帯が、やがて大きな力となり、圧倒的に巨大な不条理を止めることができることを“映像的”に表現している。

 

 非常に映画的な技術と、現代的で素晴らしいメッセージが込められている本作。ただ、どうしても納得いかない部分がある(スピルバーグの社会派路線映画には常に引っ掛かる部分があるのだが)。それには空港の立地が関わっている。

 

 至極単純な話、誰もが知っている歴史的事実として、この空港は他者から一方的に奪った土地に建てられている。この空港が立つ遥か昔、そこには本作の登場人物たちが当然の権利だと思って享受しているのと同じように、友と笑い合い、恋人と愛し合い、新しい命に巡り合い、他者とつながり喜び合うという、かけがえのない日常が繰り広げられていたはずだ。しかし、本作にはその面影はどこにも見られない(例えば、空港従業員の中に、通常の職員よりも弱い立場で権利を守られていない非正規雇用のキャラクターを登場させ、そのキャストにアメリカ先住民を採用しても、ストーリーの大枠を越えることなく物語は作れたはずだ)。人様から盗んだ土地で多様性と権利を謳いながら、その裏側にある部分はパテで綺麗に塗り隠す本作の作りはどれだけ素晴らしいメッセージを発していたとしても、どうしても違和感を覚えてしまう(ぶっちゃけ、ここに違和感を感じるなという方が無理がある)。

 

 この細部に宿ってしまうスピルバーグ映画特有の違和感。この違和感が極に達するのが次回作の「ミュンヘン」だったりするわけだが、素晴らしいメッセージを含む映画が取りこぼす部分をどのように見つめるのか、その部分をどのような言葉で批評するのか(もしくは単に見ないふりをするのか)、そういったことはどうしても考えてしまう。映画は作品単体だけでは成り立たない。出来あがった作品を、作り手の考えだけで「完成」と捉えるのではなく、その映画が取り巻く諸々が、どういう問題を孕んでいるのかということを、可能な限り観客も考えなければならないと思う(観客は映画を観るだけになってしまわない方がいいと思う)。

 

 女性の描き方にも問題がある気がする(もちろん本作が作られた時代的な理由もある)。キャサリン・ゼタ=ジョーンズ演じるアメリアはキャラクター的な“広がり”はあれど、“奥行き”は与えられてはいない。繊細に扱われてはいるが、丁寧に描かれてはいない。彼女は複雑で様々な表情をみせるが、本質的には物語を進めるための装置でしかなく、本作のテーマに関わることを許されてはいない。「ダメ男に弱い」典型的な女性。行動原理が「恋」にのみ由来する女性。そのことに自覚的だが、そこから抜け出せない女性。アメリアには“男性が批評可能で優位性を保つことができる”塩梅の「女性像」しか用意されていない。もちろん、そういう人間がいてもまったく問題ではない。そういう女性を描くことも問題ではない。しかし、本作はアメリアのそれを「個性」として描けてはいない。彼女の行動や表情の機微は「主体的な意志」と言うより、「受動的な反応」でしかない(アメリアはアメリア以外の人にも交換可能な存在だ)。比べる意味があるかは別として、この辺の描き方の質の違いはヴァーホーベンの映画と見比べると一目瞭然だと思う(こういう現在の視点で過去の限界を指摘するのは傲慢だが、それを自覚した上でもそれは行われるべきだと思う)。

 

 文句めいたことも書いてしまったが、それでも自分は本作が本当に大好きだったりする。もちろんそれは圧倒的な映画術や、魅力的な登場人物たち、大切なメッセージによるものが大きかったりするわけだが、それとは別にあるもう一つの理由が、ラストの映画的な“飛躍”だ。

 

 先述した通り、本作は「箱庭映画」だ。限定的な空間で物語が始まり、進行し、そして終わる。この一貫性のあるパッケージングが最も美しいのは言うまでもない。しかし、本作は空港から一歩踏み出したビクターをその後も追い続け、ついにはジャズクラブにたどり着いてしまう。映画的にいえばこれは間違いなく“無粋”だ。しかし、自分はこの演出に心打たれてしまう。

 過去から現在に至る作り手達の中で、スピルバーグは誰よりも映画を知り尽くしている。映画にとって何が最も美しい演出かも知り尽くしている。何が有効かも知り尽くしている。それでも彼がビクターをジャズクラブに導いたのは、映画の「完成度」よりも「ビクターの意志」を優先したからだ。このシーンは、登場人物を「駒」として扱うのではなく、そこで生きている「個人」と捉えるからこそ生まれるものだ。この誠実さこそ本作の最大の魅力だと思う。

 

 欠点はいくつもある。それでも本作は凄まじい。そんな感じ。傑作。

 

※現在進行形でこの映画の理想は敗れ続けている。

※序盤の中国人のシーンは、このテーマを考えるとどうかと思う。

※数少ない女性主要キャラのドロレスは、演じるゾーイ・サルダナの雰囲気も相待って「意思のある強い女性」のように見えるが、本質的には主体性の薄い“待ちのキャラクター”だと思う。彼女が受ける“好意”の連続ははっきり言ってハラスメントであり、今見ると「フツーにダルいし最悪だな」と思ってしまう。

※アメリアが尋問されるシーン。個室で男性二人に囲まれる一人の女性という構図は非常に危うさがあり、この状況に対する批評をアメリアが行なっていれば、もう少し彼女に奥行きが出たと思う。

※役者さんは全員素晴らしかった。

※国境警備局主任のディクソンに関して、初見時(たしか中学生)は彼の行動原理が弱すぎるため「こいつなんでこんな感じなん?メリットなくね?無理やり悪役にさせられてない?」と思っていたが、現在のアメリカの状況を考えると「プライドだけが行動原理」のディクソンのキャラクターに強いリアリティを感じてしまった。

※スピルバーグは映画を撮るのが上手すぎる。

 

 

ラ・ヨローナ〜彷徨う女〜(2018)

『ラ・ヨローナ〜彷徨う女〜』

原題:La Llorona

監督:ハイロ・ブスタマンテ

脚本:ハイロ・ブスタマンテ、リサンドロ・サンチェス

出演:マリア・メルセデス・コロイ、サブリナ・デ・ラ・ホス、マリア・テロン、マルガリタ・ケネフィック

撮影:ニコラス・ウォン

音楽:パスカル・レイズ

 

 グアテマラ軍事政権が起こした先住民の大虐殺から数十年。虐殺を指揮したとして裁判にかけられていた当時の将軍エンリケは、夜中自宅で女の「声」に悩まされる日々を送っていた。一度は有罪を受けたものの、判決の差し戻しにより刑を免れたエンリケ。事実上の勝利に安堵したエンリケ一家は新たな使用人の「マリア」を迎え入れるのだが……。

 

 軍事作戦は、国防関係の諸機関の事前の完全な承認と参加・支援のうえで遂行された。陸軍及び空軍ならびにその他の地域から動員された部隊が、非戦闘員を対象に暴力を行使していった。攻撃パターンはジェノサイドを特徴づけるものである。まず共同体の指導者を公の場で拷問のうえ殺害し、集団の抵抗力を奪った。絶滅・大量破壊作戦では、女性・子供・老人も含まれ、拷問と集団的レイプの行使ののちに殺害が執行され、避難民への追撃が空爆を伴う形で行われ、集団メンバー間の社会凝集性が根本から破壊された。さらに、集団の社会構造の再建のあらゆる可能性を打ち砕く試みが行われた(CEH Tomo Ⅲ.417)

 

 上記の文章は「三田学会雑誌 94巻 4号」に掲載されていた狐崎知己の「グアテマラにおける真実と正義に関する一考察 −癒しと和解に向けて−」からの抜粋だ(さらに言えば、狐崎が真相究明委員会から提出された報告書を翻訳したものだ)。

 

 1961年から1996年の間、グアテマラは内戦状態にあった。死者・行方不明者20万人以上、国内避難民150万人、国外難民15万人、600を超える村落が地上から消滅した。死者・行方不明者の80%以上がマヤ先住民族、非戦闘員90%、そして加害責任の90%以上がラディーノ(非先住民族)を中心とする国家機関(軍、治安維持期間、自警団)にあると認定された(軍に強制されたマヤ人によるマヤ人殺戮も常態化した)。政府の言い分は「対ゲリラ作戦」だった。その真意はどうあれ、大量虐殺の場にもなった北部横断地帯には石油などの資源が豊富にあったことが確認されている。政府とURNG(グアテマラ革命民族連合)の和平協定の後、ジェノサイドの最高指揮官であったリオス・モントは禁固80年の有罪判決を受ける。その後、手続き不備を理由に判決は差し戻され、訴訟を率いた検事総長は当時の政府関係者からの圧力により亡命するに至る。裁判の進展はなく、2018年にリオス・モントは法の下に裁かれないまま心筋梗塞により自宅で死亡している。彼が本作の中心にいる将軍エンリケのモデルでもある。

 

 本作は現実では成し遂げられなかった多くの“せめてもの達成”を試みる作品だ。記憶をなぞることすら叶わないほどの忌まわしい過去。形容できる言葉を見つけられないほどの悲惨な過去。癒しなど到底存在しないほどの痛ましい過去。その過去の延長線上でかろうじて記憶を繋ぎ続ける被害者達。真の意味での救済などあり得ないほどの圧倒的な現実の中で、それでも「せめてフィクションの中だけでも」犠牲者や遺族の痛み、苦しみ、勇気、怒り、魂の救済が達成されて欲しいという願いが本作には溢れている。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 ラディーノの囁くような声と祈りの儀式から本作は始まる。終盤、儀式は役割と意味を変え、今度はマヤの声と言葉としてもう一度繰り返される。作り手が本作に託した全てがここに詰まっている(これは後述する)。

 

 無罪を勝ち取るための祈りの後、廊下の先にある玄関で別れを惜しむ支配者達。カットが変わり、同ショットで時間経過が示された後、マヤ民族の使用人達が灯りを消し、屋敷は夜を迎える。このショットはグアテマラ社会の縮図と歴史の一端を映し出している。

 

 この演出が示す通り、本作は寡黙でありながら非常に雄弁な映画だ。長いショット(または少ないカット)の中で起こる登場人物の行動(と、その変化)や感情の揺らぎを捉え、説明的なセリフを排し、その背後にある語るべき物語を“構図”で語る(人によっては構図に頼りすぎだと感じるかもしれない)。

 

 例えばこんなシーンがある。

 

 自宅で休息を取るエンリケ。カメラは彼の横顔を捉えながら徐々にズームアウトする。背後のカーテンが風に揺らぐ。“何か”が屋敷に入ってきたことが“構図”によって示される(次のシーンで屋敷に招かれるのは誰か)。

 

 またはこんなシーンがある。

 

 真夜中、とあることがきっかけで呆然と階段に佇む三世代の女性たち。世代ごとにそれぞれの行き先にフレームアウトし、取り残される“間”の世代。グアテマラに残る根強い男尊女卑とその社会で生きる過酷さが“構図”で示される(この三世代が階段に佇むことになった理由はなにか)。

 

 映画というメディアはカットを割ることで、その場の空気や緊張感をリセットすることが可能だが、長いショットではそれが機能しにくい(作り手はそれを機能させないようにしている)。本作はカットを割るという行為を粘り強く我慢することで、その場の空気を捉える。そしてそれは、登場人物たちの無力感や、苦しみ、痛み、恐怖、またはホラー映画の側面としての緊迫感などをより強く作り出す効果を果たし、その結果、テーマはより鮮明に画面に現れる。

 

 本作は用意周到な映画でもある。先述した冒頭の祈りがそうであるように、過去のアクションやカメラワークが意味を変え別の人物によって繰り返されるつくりになっている(そしてそれには明確な意図がある)。

 

 冒頭の声の主とは異なる「囁き声」を聞いたエンリケは、銃を手に屋敷内を歩き回る。背後の気配を感じ咄嗟に発砲するエンリケだが、気配の先にいたのは妻のカルメンだった。このアクションは終盤でマリア(エンリケにはそう見えている)を標的にして繰り返される(カルメンとマリアの服装のデザインは明らかに寄せられており、孫娘のサラには「あんな服が着たい」というセリフが用意されている)。

 

 場面が変わり裁判のシーン。冒頭の支配者達の「無罪のための祈り」と“全く同じカメラワーク”で、今度は被害者達の「記憶」が語られる。支配者達が保身のために垂れ流した流暢な祈りと違い、語ることすら強烈な痛みと恐怖を伴う過去を捉えた言葉達が、ゆっくりと慎重に小さく紡がれていく(おそらく、観客ができる最大限の想像すら遥かに飛び越してしまうほどの恐怖だと思う)。

 

 マリアは水に顔を沈め、サラもその行動をなぞり、行方不明者のチラシは水面に揺れる。戦地で子供を連れ去った兵士は、屋敷の中で子供に連れ去られる。

 

 違う人物によって重ねられる同じアクション。こういったアクションで韻を踏むような演出は映画において珍しいものではない。が、本作の場合はこの演出が作品の根幹に深く関わっている。その意図は終盤、カルメンの夢とエンリケの結末に託されて画面上に現れる。

 

 自身が持つ「確信」に気づかないふりをし続けていたエンリケの妻カルメンは夢を見るようになる。そこでカルメンはマリアと同じ白い服を見に纏い、藪の中を子供二人の手を引いて必死に逃げ回る。必死の想いで小屋に逃げ込み、息を殺し身を潜める三人。しかし、カルメンは恐怖のあまり失禁と共に目を覚ます。夢は次の日も続く。小屋へ逃げた三人を引き剥がす政府軍の兵士。銃声と叫び声が響き渡り、彼女を現実に呼び戻す。涙を流すカルメン。彼女は遠ざけていた「確信」から逃げられなくなる。

 

 黒い魔術が屋敷に侵入する。

 

 真夜中、何かの気配を感じたエンリケはその跡を追いプールにたどり着く。水の中にいるマリア(エンリケにはそう見えている)に発砲するエンリケ。肩から血を流し、プールから助け出される孫娘のサラ(先述した通り、序盤のアクションが人物と意味を変えて繰り返されている)。無数の死者の魂が彼らを捉える。祈りの儀式が今度は「マヤ」の声と言葉で始まる(冒頭の反復だ)。儀式の最中、またしても夢を見るカルメン。彼女はマリアの見た景色の“全て”を追体験する。そして彼女は夫のエンリケを手にかける。おそらくは、史実と同じであろう光景に見守られながらエンリケの棺が運ばれていく。

 

 作り手は、異なる者たちの意味を変えた同じアクションを執拗に描くことで、犠牲者たちの奪われた「尊厳」を取り返そうとしている。繰り返しの演出によって、現実では叶わなかったことを、せめてフィクションの中だけでも達成しようとする(そんなことは絶対に不可能だと知りつつ、それでもそれも試みている)。

 

 自身の声と言葉では安息を得られないと知った支配者たちは、被支配者たちの声と言葉を借りそれを得ようとする。虐殺を無かったことにしようと祈りに勤しんでいた者たちが、虐殺された者たちの言葉と声で祈りはじめる。先住民族の存在を許さなかった者たちが、その存在に赦しを求める。先住民族を蔑み自分たちより劣った存在だと認識していた者達が、先住民族の声、言葉、儀式、歴史、それらを全て含めた「文化」に頼ろうとする。この構図それ自体が、先述した作り手の試みの一端だといえる(だからこそ、作り手はこの物語に「ラ・ジョローナ」を採用したのだ)。

 

 繰り返されるアクションは、犠牲者たちを虐殺者たちと同じ地平に下ろすことなく(犠牲者たちの手を汚すことなく)、現実で叶わなかった復讐を代行してみせる(この見方が正しいかは正直わからない)。

 

 暴力の矛先が自身に向けられることの恐ろしさ、それが自身の子供に向けられることの恐ろしさ、追われる恐ろしさ、家を焼かれる恐ろしさ、水に沈められる恐ろしさ、子供を目の前で殺される恐ろしさ、そして自分が殺される恐ろしさ、犠牲者が体験したその全てを、支配者たちは現実と夢の中その両方で、「自身の手で」追体験することを強いられる(意味と人物を変えた繰り返されるアクションがそれを支配者たちに強制する)。

 他者から罪を糾弾されるのではなく、他者から同じような暴力を受けるのでもなく、「自身の手」でその暴力を経験する。そうすれば、自身が起こした非道に少しでも気づいてもらえるのではないか。現実では認めようとしなかった罪を認めてくれるのではないか。現実では持つことすらなかった罪の意識を、映画でなら持たせることが出来るのではないか。これを復讐と呼んでいいのかはわからないが、本作にはそのような意図がある気がしてならなかった。

 

 本作はフェミニズム的な要素を多分に含んでいる。これは監督の前作である「火の山のマリア」から一貫しており、グアテマラ社会・文化の負の側面(というか世界中に存在する負の側面)を見つめる監督の姿勢が表れている部分でもある。ただ、個人的に、今回ばかりはこの部分をどう評価していいのかわからなくなってしまっている。

 

 先述した階段での三世代のショット。その中心で最後までその場に残されることになったエンリケの娘であるナタリア。医者である彼女は作中の体勢側の人間の中でも良識派として描かれる。ナタリアは過去に深く足を踏み入れることは避けつつも、虐殺はなかったと言う父や母の主張に疑いを持っている。彼女は家父長的な父親の振る舞いに対し、知的で冷静に立ち振る舞う。相手の神経を逆撫ですることなく、強く批判することもなく、それでも自身の意見を普段の会話の中に滑り込ませる。彼女のこのキャラクター造形自体が、グアテマラで女性が主体性や意見を持って生きていくことの困難さを表しており、それと同時に、先の内戦の原因の一部に「マッチョイズム」を見た監督なりの社会批評でもある。個人的に監督のその社会批評は間違っていないと思ったりもする。

 

 ただ、その批評をナタリアに託したのが、本作の評価をややこしいものにしている(俺の中で)。エンリケの娘であるナタリアのモデルは、リオス・モントの娘であるズリー・リオスだと思われるが、劇中のナタリアと違い、ズリー・リオスは積極的に極右活動を行っていた政治家であり、虐殺の存在を認めていない人間の一人だ。

 

 果たして、本作においてナタリアのキャラクター造形は本当に可能だったのであろうか(もちろん可能ではあるのだがそう言う意味ではなく)。

 本作は、実際の虐殺を扱っている。実際の痛み、苦しみ、悲しみを扱っている。実在する犠牲者・被害者・遺族の声を扱っている。つまり、本作を作り上げると言う行為それ自体が、現実の犠牲者・被害者・遺族に痛みを強いる、そうならざる得ない種類の作品だ(そうならざる得ない出来事を扱っているからだ)。その中で、ナタリアを(つまりはズリー・リオスを)あのようなキャラクターにすることは正しい判断だったのだろうか。内戦の背後に透けて見える社会的病理を批評的に捉えるために行なったフィクショナルな「改変」が犠牲者にさらなる苦しみを強いることになっていないか。この改変は誠実なものと言えるのか。そんなことをどうしても考えてしまった(自分が下駄を履かせてもらっている性別であることを踏まえた上で、それでも)。

 

 ただ、もしナタリアをあのようなキャラクターとして描いていなければ、グアテマラ社会(ひいてはこの世界)の病理と虐殺を結びつけて批評することはできなかったかもしれない。または、これは完全に「たられば」だが、ナタリアをあの立場に配置するバランス感覚があったからこそ、本作はより商業的な「見やすさ」を獲得し、世界に届けらたのかもしれない。実際、この作品が存在し、ナタリアのキャラクター造形があのようなものだったからこそ、自分はグアテマラの内戦について勉強し、同国で女性が置かれている社会的・文化的立場を調べることにしたわけだ(恥ずかしながら本作に出会わなければグアテマラのことは知らないままだったろうと思う)。

 これは、スピルバーグの「シンドラーのリスト」に対する問題意識にも似ている気がする。あの映画がホロコーストの存在をより世界に広めたのは事実だ。ただ、あの映画が犠牲者の痛みを小手先の「スペクタクル」で扱ってしまったのも紛れも無い事実だ(それでも個人的には「シンドラーのリスト」は見るべき映画だと思っている)。「シンドラーのリスト」に限らず、史実を扱った映画では大なり小なり、このような問題意識にぶつかってしまう。大枠での答えは出そうにないが、作品ごとに分けて、一つ一つ考えていくしかないと思った。

 

 ともあれ、素晴らしい作品だったと思う。扱う題材やテーマもさることながら、映画としてのレベルも非常に高いものだった(この作品をこのような言葉で扱うことに躊躇はあるが)。間違いなく作り手は、真実と正義の先にある平和を願っている。傑作。

 

※グアテマラの内戦はアメリカが大きく関わっている。映画だけでは分かりにくいが、その外側ではユナイテッド・フルーツ・カンパニーというアメリカの大企業が、自社の利益のためにグアテマラの国力を弱め、国内の情勢悪化や混乱に一役買っていたことは指摘しておきたい(アメリカは当時の軍事政権も支援している)。 

※先述した問題意識については「シンドラーのリスト」よりも「ミュンヘン」の方がより適切な例えだったかもしれない。「ミュンヘン」は非常にレベルの高い映画だ。暴力の野蛮さ、無意味さ、悲惨さを圧倒的な「映画術」で描き、その先の平和を願った素晴らしい映画だと言える。しかし、スピルバーグのような世界的影響力を持つ特権的な人間が、パレスチナとイスラエルの関係を、あのようなテクニックと結論で描くのは、例えあの映画が本当に平和を願った作品だったとしても、長い侵略の歴史の中にある問題の本質をぼかし、責任の所在を意図的(または映画的)に分配にする卑怯なやり方とも言える。しかし、あのように日和見で中途半端(または浅はか)な描き方だったからこそ、あの映画は成立し、全世界に発信することができたわけで、あの映画が公開されたからこそ、両国の歴史に触れようと思った人間も少なく無いはずだ。また、あの作品のあとのスピルバーグへのイスラエル側からの圧力は相当のものだったとされている(あの程度の描き方でも圧力があるわけだ)。引き受けることが可能なレベルのリスクを見極めた先に完成した映画を、リスクを負っていない人間がどのような言葉で批評すればいいのかと考えてしまったりもするが、やはり一つ一つ検討していくしか無いとも思った。

※ラディーノとは非先住民族のことだ。コンキスタドール(スペイン征服者)と現地人の混血のことでもある。ラディーノとは非インディヘナのことであり、非マヤ民族のことだ。ラディーノとはグアテマラにおける社会的・文化的または政治的支配階級のことだ。現在ラディーノを定義付けることは非常に困難だとされている(特に人種的な定義は不可能と考えられている)が、一つ言えるのは、ラディーノが虐殺された側ではないということだ。

 

第3逃亡者(1937)

『第3逃亡者』

原題:Young and Innocent

監督:アルフレッド・ヒッチコック

脚本:チャールズ・ベネットエドウィン・グリーンウッド、ジェラルド・サヴォリ

   アンソニー・アームストロング、アルマ・レヴィル

出演:デリック・デ・マーニイ、ノヴァ・ピルビーム、パーシー・マーモント

   エドワード・リグビー

撮影:バーナード・ノールズ

音楽:ルイス・レヴィ

 

 勘違いから殺人の容疑をかけられてしまったロバートは、警察署長の娘のエリカと共に無罪の証拠を探す旅に出る。道中、様々な困難に遭いながらも、次第に恋に落ちていく二人。しかし立場の違いや、なかなか辿り着けない真相により、徐々に窮地に陥ってしまう......。

 

 巨匠中の巨匠ヒッチコックの初期作品。観客に対して「何を見せるのか(または見せないのか)」「どのタイミングで見せるのか(または見せないのか)」「どのように見せるのか(または見せないのか)」を徹底的に追求する彼の映画は、ひたすら繊細で力強く、どこまでも「映画的」だと言える。

 

 本作は、非常に中途半端な作品だ。括り的にはサスペンスだが、トーン自体は完全にラブコメであり、シナリオもアラが目立つ。法廷劇、カーチェイス、ディザスターの要素など多種多様なエッセンスが込められているが、正直それらはとっ散らかっている(演出的には丁寧だけど)。それでも本作をサスペンスとして成立させてるのは、ひとえにヒッチコックの凄まじい「映画術」のおかげだ。どこまでも軽いノリのランデブーを力技でサスペンスにしてしまう手腕は「サスペンスの神様」としか言いようがない。せっかくなので、彼の手腕の何が「映画的」なのか、何が本作をサスペンスとして成立させているのかを確認していきたい(それでも本作はサスペンスとしてじゃなくてラブコメとして観賞した方がいいとは思う)。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 ヒッチコックは「映画的」であることを追求し続ける。「何を持って映画的とするのか」「映画的とは一体なんなのか」、彼の作品はその問いに対する模索と実践の連続だと言える(それを模索した結果、まったく「映画的でない」ことになってしまう場合もあったりするわけだが)。だからこそ、彼の映画では常にアクションやカメラがストーリーを語り、アクションやカメラが登場人物の内面を表現する(それこそがヒッチコックなりの「映画的」なのだと思うし、自分もそれこそが「映画」だと思う)。

 

 例えばこんなシーンがある。

 

 大切な愛車をロバートのなけなしの2シリングで助けてもらっていたエリカは、借りを返すために彼が身を隠す人里離れた空き家へ食事を届けに行く。空き家へ到着したエリカ。ここで彼女は家へ入ることを一度“躊躇”する。彼女は食事を玄関に置き、その場を立ち去ろうと踵を返し、さらにその後、思い立ったようにもう一度空き家へ向かうというアクションを取る。このアクションは、そのまま彼女の内面の具体化として機能する。彼女が見せる「家へ入ることへのためらい」は、物語上は容疑者を助けてしまうことに対しての躊躇な訳だが、これは同時に彼女の内面にある「恋をしてしまうことヘのためらい」も表している。立場の違いが生む彼女の恋の葛藤は、物語上のジレンマが生む「躊躇」のアクションで鮮やかに表現される。

 

 エリカは一線を越える(当然これも“アクション”で示される)。

 

 束の間のためらいの後、家に入ることを決心したエリカ(=恋に落ちることを決心したエリカ)。ここでカメラはエリカの動線を先回りし、真正面から彼女が家へ“足を踏み入れる”瞬間を捉える(つまり新たな恋へと“足を踏み入れた”わけだ)。次の物語へと前進する彼女。高揚を讃える音楽が流れ出す。恋へと一歩踏み出した瞬間はこうして「映画的」に観客の前に提示される。

 

 ここから映画はさらに彼女の内面に迫っていく。

 

 エリカの後ろ姿をゆっくりと追いかけるカメラ。一階にロバートの気配が無いと感じたエリカは、ハシゴを使い上階を目指す。コミカルになる音楽。ワンカットで徐々に引きながら彼女を捉えるカメラ。そして彼女が上へとたどり着いた瞬間、再び美しい音楽が流れ出す。彼女の恋や鼓動の“高まり”は、舞台上を“上がる”というアクションで具体化されていく(ちなみにこのアクションは、終盤で男女とその意味を反転させた形で反復される......本当に唸らされる)。

 

 この一連のシーンは物語的にも非常に重要な役割を担っている。なぜならエリカの恋の瞬間を観客に植え付けることができなければ、その後の展開に説得力を持たせることが出来ないからだ。ヒッチコックは、映画上で最も大切に扱わなければならないシーンを、繊細で力強く、どこまでも「映画的」に表現してみせる(素晴らしすぎる)。

 

 ヒッチコックは「手段」と「目的」を取り違えない。彼が選択する演出や技術は全て映画に奉仕するためだけに採用される(ただその演出や技術がそもそも全く「映画的でない」こともあったりするのだが……ロープとか、ロープとか、ロープとかね)。

 

 後半、本作を映画史的にも有名にした「長回し」のシーンが出てくるが、この圧巻の長回しヒッチコックにとっては、技術の誇示という「目的」ではなく、物語を効果的に語るための単なる「手段」でしかない(もちろん技術的にも素晴らしいのだが)。

 

 真犯人がグランドホテルにいる可能性を知ったエリカはアリバイの証人であるウィルと二人でホテルへと向かう(ロバートは顔が割れているのでホテルへは入れない)。二人はホテルのロビーを抜けて、ショーが行われている大ホールのテーブルへと腰をおろし、真犯人を探そうとする。この時点の二人と観客は「真犯人がこのホテル内にいることを知らない」わけだが、ここでヒッチコックはあの長回しを採用する。

 

 会話するエリカとウィル。カットが変わると、引きのカメラはロビーからホールへ向かい、そのまま演奏をしている一団の中から一人の男の顔を捉える。強く瞬きをする男。こうして真犯人がホテル内にいるという情報が、エリカとウィルを飛び越して「観客」に伝えられる。これによってこのシーンはサスペンス的な緊迫感が強烈に増すことになる。

 

 ヒッチコックの「映画術」の中に「テーブルの下の爆弾」にまつわる有名な言葉がある。

 

 そこで彼は「登場人物や観客に知られていないテーブルの下の爆弾が突然爆発すると一瞬の“サプライズ”を作ることが出来る。だが、もしその爆弾の存在を観客が知っていたなら、そのシーンにはその瞬間から“サスペンス”が成立する」というようなことを言っている(パチモン級の超々要約で申し訳ないが、言ってることは同じなので)。

 

 この長回しはこの言葉の実践だと言える。二人がホテルに到着した時点でのこの物語は「真犯人がいる可能性がある場所に来てみた」という曖昧で停滞した状況でしかない。映画終盤にもなって今だにこの状況では、観る者の集中力と緊張感を持続させることは不可能だ。しかし、犯人がそこに居るという情報を観客に提示しておけば、その瞬間からこのシーンは「真犯人を見つけこの場で捉えられるか」という緊迫感のあるサスペンスに作り変えることが出来る。だからこそヒッチコックはあの長回しを採用し、踊る人混みを飛び越えたのだ。

 

 確かにこの長回しは「技術的」にも凄いのかもしれない。しかし、この長回しが真の意味で凄まじいのは、その技術が物語の語りとして機能し、観客の感情と直結しているからだ。ドヤ顔で意味のない長回しを垂れ流し、カメラの存在を観客に意識させてしまうアホな映画が無数にある中で、ヒッチコックは「技術は映画に奉仕するための手段」という姿勢を崩さず、観客の感情をコントロールしていく(にも関わらず、ロープとか作っちゃうからヒッチコックは天然なのかもしれない)。

 

 もちろん、気になる部分は無数にある。が、ぶっちゃけキリないくらい無数にあるのでその辺は各自で確認して欲しい。その中でも個人的に気になった部分(または今の目から見て指摘しなければならない部分)をいくつか確認したい。

 

 まずは本作を観た誰もが指摘する部分だとは思うが、犯人の「ミンストレル・ショー」についてだ。本作は1930年代に作られており、今より人種差別に対する認識がそこまで強くあったわけではない。それでも「ミンストレル・ショー」自体の是非は19世紀から既に問われており、本作が公開された時代では翳りのみえた“差別的見せ物”であったのも事実だ。しかもこの黒塗りはキャラクターの意味づけとしても、サスペンスとしては全く機能していない(瞬きを犯人の特徴とした時点でこの黒塗りのサスペンス性は成立しなくなっている)。にも関わらず、彼はこれを採用している。正直、ヒッチコック作品は彼の中にある性差別意識や人種差別意識が意識的にも無意識的にも“ダダ漏れ”になっている場合が多いことは指摘しておきたい(いくらヒッチコックを好きな人でもこれは否定できんだろ、盲信しているなら話は別かも知らんが)。

 ただ、これは「スカーレット・ストリート」でも言及したが、このような時代の違いがもたらす差別表現への意識の変化は、その作品のその描写を批評しつつも、その矛先を今を生きる自分たちにも向けるべきだ(まあ、ヒッチコックの場合、今の時代に生きてても平気で性差別的な演出はしそうだよなとは思う)。彼の作品はどこまでも繊細で「映画的」だが、同時に差別的な視点を多く含む作品だということだ(特にミソジニスティックな部分に関しては女性に対する、憧れ、卑屈、嫉妬、甘え、マザーコンプレックス的な演出アプローチが折り重なっているので「じじいお前いくつだよ」と呆れてしまう…のだが、同時にそのような自身の特性にうっすらと気付いているっぽい客観視点も作品内に織り込まれており、なかなか一筋縄ではいかない…けどやっぱり普通に呆れもする…的な感覚)。

 

 もう一つ気になるのがワン太郎のその後だ。本作にはエリカのペットとして「タウザー」という犬が出てくる。タウザーは常にエリカに帯同し、明らかに彼女の心の支えになっている。にも関わらず、炭鉱が崩落するシーンの後「犬はまあ大丈夫っしょ」ぐらいのテンションで映画から退場する(もちろん逃げたカットは挟まれるがいくらなんでも薄情すぎる)。この炭鉱崩落ははっきりいて無くても成立する(またはいくらでも別のアクションに置き換え可能)シーンなので、そのシーン自体の雑さも相まって、もうちょっと丁寧に扱えよと思ってしまった(「エンド・オブ・ザ・ワールド」とは大違い)。

 

 その他、人物設定にも疑問は残る。例えばロバートだ。彼は冷静で頭の回転が早く、慌てやすく直感的なエリカと対比的に描かれる(この辺も何かね)。しかし、彼は冒頭で死体に怯みその場を走って離れてしまい、取調室では失神している(この反応の是非を問いたいわけではない)。また、「犬はほっとけ」と言ってみたり、他人の立場を貶め利用しようとするが失敗したりと、彼のキャラクタター設定のためにつけられた演出と実際の行動に整合性が取れていない気がする。

 

 重ねるがその他の飲み込みにくい部分は省略する。

 

 色々欠点はあるが、それでも本作は非常に良くできた映画だ。80分という短い尺の中で、法廷劇あり、カーチェイスあり、意味のないディザスターあり、ラブコメであり、サスペンスでもあり、そしてそれらをまとめる凄まじい手腕もある。お得。傑作。

 

※自分が特権的な性別に属しているのは承知した上で、それでもヒッチコックミソジニーを複雑で入り組んでいるように感じるのは映画の構造や、女性登場人物の行動にも理由がある気がする。例えば、本作のクライマックスはロバートではなくエリカの独壇場だ。事件解決に至ったのは彼女の能力と判断力のおかげであり(冒頭の見事な伏線回収でもある)、ロバートはこの間、映画の外に追いやられてしまう(そもそも事件の発端も“男”の醜い嫉妬だ)。また、ヒッチコック作品に出てくる女性達は、記号的な気の強さとは違い、強い意志と主体性を手にしている場合が多分にみられる(全くそうじゃない作品もあるが)。そしてそれらは、シナリオの都合などではなく、そのキャラクター自身がもたらした都合のように演出されている。たとえその意志が最終的に男社会の願望に回収されたとしても、女性自身の主体性が剥ぎ取られるようにはあまり見えない(本作でもエリカはロバートから車のハンドルを奪い取っている)。そのため、ヒッチコックミソジニーは捻れて見えるのかもしれない(まあ、普通にキモいし、最低だなって思う事実もたくさんあるし、そう思う作品もたくさんあるが)。

 

 

 

映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングル(2000)

  

 

『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングル』

原題:映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングル

監督:原恵一

脚本:原恵一

出演:矢島晶子ならはしみき藤原啓治こおろぎさとみ真柴摩利、林玉緒、一龍斎貞友

   佐藤智恵 玄田哲章大塚明夫小林幸子

 

 「アクション仮面」新作映画完成記念の豪華客船ツアーに参加することになった野原一家とかすかべ防衛隊の面々。優雅な船旅を満喫し、船内で映画先行上映を楽しんでいた彼らだったが、突然、謎のお猿さん軍団にオトナ達が攫われ、子供達だけが船の中に取り残されてしまう。いくら待てども戻る気配のないオトナ達。痺れを切らしたしんのすけをはじめとするかすかべ防衛隊は、消えたオトナ達を探す為、無人島へ冒険の旅に出発する。

 

 畳み掛けるアクションと、くだらなすぎるギャグ(褒めてる)の連続。90分を通し、常に全力でふざけ通す本作は「ヒーローとは何か」または「何がヒーローを作るのか」という問いを絶えずこちら側に投げかけてくる。

 

 ヒーローはこれまでも様々な形で表現され、同時に様々なことを表現してきた。やなせたかしアンパンマンの顔で「分け合うこと」の大切さを伝え、アラン・ムーアは巨大なイカと感涙とマスクを通してファシズムの本質を描いた。作品でヒーローが選択する行動は、作り手自身の「ヒーロー論」の具体化であり、その行動がそのまま彼らを規定した。原恵一も同様に、本作でヒーローの意味を“定義”しようとしている。そういった意味でも本作は「ヒーロー映画」ではなく、「ヒーローについての映画」と言える。

 

 本作はかなり用意周到な映画だ。おそらく本作を見た人は「自分のことのように感動」すると思う。そして、それには確かな理由がある。よく娯楽作品に対する姿勢として「素直に楽しむ」や「何も考えずに楽しむ」などの言葉があるが、はっきりいってそれらはあまり良い姿勢だとは言えない(なぜならちゃんと「理由」があるからだ)。「子供向け映画だから」という言葉や「しんちゃん映画だから」という理由で、感動の原因を探すのをやめたり、言語化を怠けようとするのはやめた方がいい(おそらくそれはヒーローが絶対にとらない態度だ)。せっかくなので、なぜこの映画がこんなにも感動的なのかを考えていきたい。

 

 とにかく言いたいのは、本作は凄まじい傑作に仕上がっているということだ(個人的にはアラン・ムーアの「ウォッチメン(原作の方)」に匹敵する「ヒーロー」をテーマにした作品だと思っている・・・流石に言い過ぎかもしれないが言い過ぎじゃないかもしれないぐらいにはすごい作品だと思う)。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 オープニングが非常に素晴らしいものになっている(この映画の核の部分が全て詰まっている)。

 

 映画冒頭、縦に走るカメラはジャングルを抜け、向かい合う「ヒーロー」と怪人を捉える。助けを求める少女の声が響く中、拳を交える両者。激しさを増す闘い。徐々に劣勢になっていくヒーロー。傷だらけの中で放った渾身のビームは押し返され、逆に自身を焼き尽くそうとする。最悪の結末が訪れるその瞬間、テロップが挟まり、一連のシーンが映画のテレビCMだったことが判明する。テレビ画面から徐々にズームアウトするカメラ。フレームインする“ショックを隠しきれない”しんのすけの後ろ姿。その後、豪華客船クルーズの情報が発表され、タイトルと共にオープニングテーマが流れる(歌詞も重要になっている)。

 

 基本的に映画は「アクション」と「リアクション」によって、画面上の出来事や登場人物を「定義」する(当たり前だが)。ヒーローに助けを求める少女、そのヒーローの窮地に狼狽する5歳児。短いアバンタイトルで繰り広げられる彼らの叫びや心の揺らぎは全てヒーローに向けられたものだ。画面の向こう側とこちら側にいる“ヒーローを必要とする者達”のアクションとリアクションは、その先にいるヒーローの輪郭を捉え、その意味を“定義”しようとする(これこそが本作のテーマだ)。

 

 さらにこのシーンが凄まじいのは、その構造的な仕掛けとカメラワークにある。先述した通り、この冒頭のアクションはしんのすけが見ていたテレビCMだったことが判明するが、カットを割らずに画面をズームアウトさせたカメラワークで捉えられたしんのすけの後ろ姿は、現実の世界でヒーロー番組を見る観客と全く同じように描かれている(つまり、この映画のしんのすけは我々観客自身でもあるわけだ)。このワンカットの演出と映画の構造は、“スクリーン越しの世界”と“我々観客の世界”が地続きであることを無意識レベルで印象づける。これにより観客はこれから始まる物語に、より強く没入することになる(このシーンが存在せず、クルーズ船から映画が始まっていたら、後半のオトナ達の涙や感動の重みが変わってしまうのは容易に想像できるはずだ)。

 映画後半、助けられた人たちがピンチに陥ったアクション仮面を鼓舞するシーンがある。あのシーンがどこまでも感動的なのには、我々観客が、ヒーローを求め声を上げる人たちに自分を重ねるからだ。そして、それが容易に可能なのは、冒頭のこの「しんのすけと自分たちを無意識レベルで重ねてしまう」演出があるからだ(もちろん冒頭の仕掛けがなくても十分感動できるシーンではあるのだが)。

 

 作り手は、5分にも満たないこの素晴らしすぎるオープニングで、本作の舞台設定(=無人島までの道筋)を整え、本作が「ヒーローの意味を定義する映画」であることを提示し、さらには、本作が「ヒーローに憧れる全ての子供達」または「ヒーローに憧れた子供時代を過ごした全ての大人たち」のための物語であることを宣言してみせている。

 

 「ヒーロー」の定義を試み本作には、鍵となる重要な人物が存在する。それは、この世界のヒーローである「アクション仮面」と、敵役であるジャングルの王「パラダイスキング」だ。

 

 様々な格闘術を使いこなすアクション仮面。凶暴なお猿さん達を暴力で従えたパラダイスキング。正義の味方と悪の怪人(怪人では無いけど)。映画から対照的な役割が与えられたこの二人のキャラクターは、互いに他者を屈服させることのできる強大な力を持つという意味において鏡像関係にある(パラダイスキングは「あり得たかもしれないアクション仮面のもう一つの未来」といえる)。そんな裏表の関係にある二人は「ヒーローの在り方」をめぐり激突する。映画は二人の戦いを通して「ヒーローとは何か」という問いに答えを出そうとする。

 

 冒頭のアクションと重なるように、敵の力に圧倒されるアクション仮面。自身の傷だらけの肉体を誇示し、目の前の“敵”を「偽物のヒーロー」と評するパラダイスキング。その言葉に激昂するアクション仮面。そこに現れるしんのすけ。横たわるアクション仮面を横目に「自分の方が強くてかっこいいだろ」「俺のファンにならないか」と問いかけるパラダイスキング。その核心めいた問いに対し、しんのすけは涙を堪え、勇気を振り絞りながら、アクション仮面こそが自分のヒーローであると叫ぶ。自身を「架空の存在」と認識していたアクション仮面は、しんのすけの言葉と共に、“真の”ヒーローとして再び立ち上がる。

 

 自身の持つ圧倒的な力を、自身の為だけに使おうとするパラダイスキング。自身の持つ圧倒的な力を、助けを求める人たちの為に使おうとするアクション仮面。その力で屈服させた他者を恐怖させ、支配するパラダイスキング。その力で助けた他者を勇気づけ、「がんばれ」「俺たちがついてる」と声援を受けるアクション仮面

 

 たとえパラダイスキングがどれだけ強くても、彼の存在では誰も勇気を振り絞れはしない。映画は、助けを求める声の為に立ち上がり、他者に勇気を与える者こそ「ヒーロー」であると力強く訴えかける(そのために自分の力を使える者こそヒーローなのだ)。

 

 決闘を通してヒーローの“意味”を描いて見せた本作。しかし、作り手はさらにその先へと問いを突き詰めようとする。

 

 本作はヒーローを一人にさせない。パラダイスキングの命令により、一斉に襲いかかろうとする大量のお猿さん達。しかし、それに立ち向かうのはアクション仮面だけではない。今度はヒーローに勇気をもらった人たちが、ヒーローを支えようとする。ヒーローと仲間達が肩を並べ、一緒になってケツで歩き出す(何これ)。映画は、ヒーローを孤独にさせず、肩の荷を下ろし、ヒーローも一人の人間であることを、“ヒーローに対して”優しく伝えている。

 

 ヒーローを巡る物語がしんのすけの目線を通して展開される本作だが、もう一つ重要な目線が存在する。それが「ひまわりの目線」だ。

 

 映画序盤でしんのすけと離れてしまったひまわりは、シロと二人でしんのすけを探す旅に出ることになる(ここでのボートの前振りとかも超丁寧)。島にたどり着いたひまわりとシロ。しんのすけ達の目線で描かれたのと同じように、さらに低い目線から改めて描かれ直す、大きなジャングル。小さな背中にオーバーラップする、夕日に照らされたかすかべ防衛隊5人の姿(まるで戦隊モノのヒーローのようだ)。

 

 異なる人物の異なる目線によって反復される同じ行動(またはシナリオ)と、その先に描かれる“本来はヒーローと見なされていない”人物達の象徴的な後ろ姿。この演出により、作り手は、ヒーローが「特別な人間にだけ与えられる称号」ではないことを鮮やかに表現してみせている。

 

 大冒険の末に、ついにしんのすけと再開するひまわり。緊張の糸が切れた彼女は兄の姿を見たとたん泣いてしまう。しんのすけにとってのアクション仮面がそうであるように、ひまわりにとってのヒーローは世界でただ一人、兄のしんのすけなのだ。

 

 アクション仮面に勇気付けられ、声援を送る登場人物達。その姿に自分を重ねる観客。その観客の帰りをどこかで待っているかもしれない人たち。本作は、ヒーローに勇気をもらう我々観客もまた「誰かにとってのヒーローであるかもしれない」という大切なことを、しんのすけ達より更に弱く低い目線を通して鮮やかに描いてみせる。

 

 ひまわりの目線は、さらに大切なことを伝えている。それはお猿さん達とひまわりの物語から見えてくる。中盤、バナナ食べ放題の代償として窮地に陥ったしんのすけ御一行。その時、ひまわりの泣き声を聞いたお猿さん達は、攻撃の姿勢を止め、その場を後にする。さらには終盤、またしてもひまわりの泣き声によって、今度はお猿さん達を追い詰めた大人達の暴力的な空気感が薄れていくことになる。ここでは、盲目に正義を掲げる者達の力の矛先が弱い立場に対して一方的に向けられる瞬間の恐怖が描かれている。彼女の泣き声が示しているのは、「力」が暴力に変わる瞬間への拒否と、ヒーローに必要なのはそのような「力」ではないという作り手の信念だ。ひまわりの目線もしんのすけの目線と同様に、本作のテーマの重要な部分を担っている(しんのすけが「このおじさんもだよ」とパラダイスキングを助けるのも、同じ精神性のもとの行動だ)。

 

 作り手は、異なる二人の目線から見た、それぞれのヒーローを描くことで、観客の記憶と現在を“それぞれのヒーロー”と繋ぎ合わせる。そうすることで本作は、観客に強い感動を与えることに成功している(本作にこういう書き方はしたく無いが)。

 

 長々とそれっぽいことを書き連ねたが、もちろんこれが全て作り手の意図したことだと言いたいわけでは無い。人によっては「作り手はそこまで考えていない」「クレしん映画に真剣になりすぎ」と思うかもしれない。ただ、ヒーロがそうであるように、映画が持つ“意味”やその映画が輝く“理由”もまた、作り手の意図や想像を遥かに超えていく(これは紛れも無い事実だ)。たとえその映画の作者であっても、その映画の価値や意味、可能性を規定できはしない(映画とはそれだけ強力な表現であり、だからこそ批評が必要なのだ)。

 少なくとも言えるのは、本作が「ヒーロー映画」ではなく「ヒーローについての映画」であることだ(それらをまるっと含めて「ヒーロー映画」なのかもしれないが)。その証拠は冒頭にある。激しい会話の嵐と、ひたすらに続く大量のギャグ。どこを取っても、ほとんどのシーンで画面上の人物が喋り続ける“やかまし”本作で、一番最初に発せられるセリフは「助けて、アクション仮面」だ。傑作。

 

パラダイスキングは非常に知的で魅力的な敵役だ。彼はオトナ達を攫い、自身を主役としたヒーローアニメを作らせようと企むが、これは彼自身が「ヒーローの意味」を誰よりも理解しているからだ。人々の心を掴むことこそが世界を手にする鍵だということを、そしてその鍵は人それぞれの心の中にある「ヒーロー」であることを知っているからこそ、彼はこの計画に臨んでいる。そう言った意味で、パラダイスキングは本作の中で誰よりもヒーローを理解している存在だと言える。 

※どうでもいいけど、野原一家とかすかべ防衛隊ってマジ最強だよなとは思った。

※とにかく、ギャグのオンパレードでそれだけでも十分に楽しい映画だ。テーマの部分を軸に鑑賞せずとも、本作を観る価値は十分にある(それこそがクレしん映画だ)。

※本作を「ヒーローに憧れた子供時代を過ごした全ての大人たち」の映画と表現したが、とはいえ、原恵一は“子供である期間を終えたのに大人になりきれていない大人たち”に対しても、かなり厳しい視線を向けていることも指摘しておきたい(その厳しさがピークに達するのが「オトナ帝国の逆襲」だ)。

※本作から性別についての排他的な空気を感じないのは、みさえやネネちゃん、かすかべ防衛隊の母親などの女性キャラクターの存在が大きい気がする(実際彼女達はヒーローや男達と肩を並べてケツで力強く歩く)。ヒーローは男性のためだけのものでは無い。全ての性別の憧れの対象であり、同時に全ての性別の人間がヒーローになれるはずだ(男の子だってプリキュアになれるし、女の子だって仮面ライダーになれるようにだ)。

クレしん映画にたまにある「今の価値観だったら無しだよな」ってなるギャグが少なかったのも本作を楽しめる要素の一つな気がする。

※正直、ヒーロー映画や戦隊モノ、仮面ライダーを通ってきた人間ではないので、見当違いのことを言っていたならごめんなさい。

※ヒーローヒーロー書きすぎて、ゲシュタルト崩壊を起こしかけた。

 

 

 

希望の灯り(2018)

希望の灯り

原題:In den Gängen

監督:トーマス・ステューバ

脚本:クレメンス・マイヤー、トーマス・ステューバー、ペーター・クルト

出演:フランツ・ロゴフスキ、ザンドラ・ヒューラー、ペーター・クルト

撮影:ペーター・マティアスコ

 

 ドイツ東部、ライプツィヒの巨大なスーパーマーケットで働くことになったクリスティアンは、配置先で東ドイツ出身のブルーノという男と出会う。上司としてクリスティアンを気に掛けながら、彼にスーパーマーケットでの仕事を丁寧に教えていくブルーノ。非行の過去を持ち、無口で無愛想なクリスティアンだったが、ブルーノや別部門のマリオン、その他の同僚達の助けや交流により徐々に職場に打ち解けていく。

  故郷への強いを持つも者、家庭での痛みを持つ者、ここではない何処かを望む者、それぞれに孤独を抱える人たちが、今日もそれぞれの想いを胸に、巨大なスーパーマーケットで労働に精を出す。そんな中、突然ブルーノが職場に顔を出さなくなってしまう・・・。

 

 「オスタルギー」という言葉がある。

 

 ドイツ語で東を意味する「オスロ」と、ノスタルジーを意味する「ノスタルギー」を組み合わせたこの造語は、東ドイツへの郷愁を表す言葉として使われている。本作はこの「オスタルギー」が重要になってくる。

 

 旧東ドイツ、「月曜のデモ」の中心地であり、「平和革命」始まりの地だったライプツィヒ。そこにある巨大なスーパーマーケットを舞台にして、作り手が描こうと試みているのは「東西統一後の東ドイツの労働者達の日々」と、故郷を喪失した彼らの「居場所を求める物語」だ。社会主義から資本主義へと変貌した世界。新自由主義が振りかざす自己責任論。西側が用意した市場経済とその競争社会から取り残され、居場所を失った東の労働者達。その結果、溢れ出す故郷への想い。作り手は、西側や資本主義を否定するわけでもなく、東ドイツ社会主義に肩入れすることもなく、慎重にバランスをとりながら、陽が沈んだ世界で資本主義に奉仕する労働者達の「オスタルギー」を丁寧に扱っていく。

 

 映画史の中で、東ドイツの人たちは常に西側から「客体化」され続けてきた(ベルリンの壁崩壊後に起こった「統一」の性質が、実際には西側による「吸収合併」または「買取」だったことを考えればある意味で当然なわけだが)。

 ソ連の衛星国家、社会主義統一党による独裁、シュタージの暴力、弾圧と粛清、監視と密告、そんな世界で怯えて暮らす「かわいそうな市民」、そんな世界に気づけない「無知な市民」、そんな世界に無関心な「冷徹な市民」、そんな世界と戦う「高潔な市民」。西側の映画産業にとって非常に便利な存在である東ドイツの人たち。たとえ彼らがどれだけ主体性を有していようとも、西側にとっては、自身の正当性や善性を示すための「非日常以外の日常を持たない観察対象」でしかなかった(全ての映画がそうだとは言わないが)。

 

 確かに東ドイツ(に限らず、多くの社会主義国家)の在り方は、西側(と西側の映画業界)からすれば大規模な「社会実験」の場なのかもしれない。しかし、そこで生きていた人にとっては、自分たちの営みまでも「実験」として映画的に消費(または揶揄)されることを気持ち良く思うはずがない(独裁のヤバさを伝えるためにはそういった映画も必要だとも思うが)。また、近年は様々な研究により、東ドイツの人たちが、非常に「巧妙」に「戦略的」に「主体的」に、意思をもって独裁者達と渡り合い、監視社会を生き抜いていたことが明らかになっている。作り手は、そんな東ドイツの人々の主体性を、映画を通して、西側から取り返そうと試みているように思える。本作は、東ドイツの人々を「意思のない操り人形」として飲み込みやすい存在に落とし込もうとする西側に対する、東側からの「回答」と言えるような映画だ。

 

 正直、個人的には、人間が運営する以上、社会主義が健全に成立するとは到底思えない(自分が圧倒的に勉強不足なのは認めた上で、それでも「ぶっちゃけ無理だろ」とは思う)。また、仮に成立するものだとしても、東ドイツを研究した書物を読んだ後の個人的な感想としては「とても受け入れ難い」ものだったりする。それでも、資本主義による格差の拡大で極右排外主義の主戦場となりつつあり、別の意味で「客体化」され始めた旧東ドイツと、そこで生きる労働者達の状況を、彼らの視線で描こうとする本作は非常にフェアなものだと思った(監督自身も、インタビューにて、本作の登場人物達がとんでもない政党に投票している可能性を指摘している)。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 非常に静かな映画だ。フォークリフトのように慎重に滑らかに動くカメラ、意図的に「壁」を作る画面設計、深夜の静まり返る店内、そこでひっそりと行われる「消費のための下準備」。スーパーマーケットという箱庭の中で、「居場所を求める物語」を描く本作は、統一後も確かに残る東西の「境界線」を丁寧になぞり、当時の東ドイツの状況を浮かび上がらせる。

 

 例えばフォークリフトの数が「不足」している件だ。本作の登場人物達は、店の裏方として商品の出し入れを日々行うが、各持ち場に対してフォークリフトが十分に配備されておらず、非効率な業務を強いられている。これは当時の東ドイツの生産の現場で実際に起きていたことだ。第二次大戦後の東ドイツは、戦後敗戦処理としてソ連が実施したデモンタージュ(戦後賠償政策としてソ連が行った東ドイツの工業機械設備の解体と接収のこと)により工業機械が「不足」し、経済生産力が低下していたことが知られている。また、農業の側面においても、大規模集団化(=農業の社会主義化)の中で、農業機械の「不足」が発生し農業政策維持がかなり厳しい状況だったことが分かっている(これはソ連軍による農業備品の強奪や接収、また社会主義が故の非効率な循環が原因にあるとされている)。

 

 このフォークリフト「不足」の状態は、社会主義経済の特徴でもある「不足の経済」とも共鳴する(社会主義国家において「不足の経済」が発生・常態化する原因については、補足に記載している書物を参照して欲しい)。東ドイツではとにかく「必要なものが不足していた」ことが知られている。それは生産における様々な段階で発生しており、最終的には消費の現場において、供給が需要に追いつかないという形で、わかりやすく可視化されていた(例えば、東ドイツでは新車を購入しても納車されるのが10年後であったりしたことが知られている、また不足に備えた「買いだめ」も多く発生していた)。映画は、スーパーマーケットという有り余る資本の中にある致命的な「不足」を描くことで、当時の東ドイツをシニカルに表現している。

 

 「不足」の他にも、東ドイツの名残はスーパーマーケットの様々な場所で顔を出す。例えばトイレの個室でのタバコ休憩やチェスなどの「息抜き(=サボり)」だ。これらは当時の東ドイツで実際に見られた光景だ。東ドイツでは、「不足の経済」が作る労働の場での「空白の時間」や、市場経済下のような「厳格で規律正しい労働」が求められていなかったなどの理由から、労働者のサボり(または労働のゆとり)が頻繁に報告されている。

 

 その他、ロッカールームで同僚の家に風呂が備わっていない件(東ドイツの旧市街地や農村地区では住宅設備が劣悪だったことが分かっている)、フォークリフトに吊るされたウサギのぬいぐるみ(おそらくこれはドキュメンタリーになった「ベルリンの野うさぎ」が元ネタだと思われる)など、背後に東ドイツが透けて見えるような演出が散りばめられている。

 

 そんな東ドイツの引力が残るスーパーマーケットの中で、存在の名残が非常に薄いものがある。それは「作業班(ブリガーデ)」と呼ばれる集団と、それや「不足の経済」が作り出した、労働者達の日常生活での「つながり」だ(これこそが「オスタルギー」の出所であり、同時にある人の悲劇の原因でもある)。 

 

 「作業班」とは、1950年に全国有企業に導入された、東ドイツにおける労働の場での「最小単位」のことだ。社会主義の基盤をより強固にするために設置されたこの作業班。目的は、最小単位を労働の現場に作ることで「イデオロギーの管理を容易にする」ことや「集権的な生産管理を容易にする」ことであったとされている(実際、「作業班」導入後、生産現場での作業効率が向上したとされている)。ただ、この「作業班」は政府の意図を超えて国民に根付いていく。

 「作業班」の設置後、労働者達は「自身の班に対する責任」や「団結の気持ち」が芽生え、班内の同僚に対する「共助の精神」が強くなり、労働の場における「居心地の良さ」を改善していこうとした。さらには、その「共助の精神」は彼らの中に「つながり」が生んだ。「つながり」は労働の外の世界でも失われなかった。その一つが班を通して行われた「余暇活動」だ。旅行やパーティー、映画鑑賞、観劇、スポーツ、読書会、「作業班の午後」や「作業班の夕べ」とも呼ばれる、班を通した様々な娯楽や余暇の営みは、家族ぐるみでの班員同士の付き合いを無数に生んでいった。

 労働者達は「作業班」を通じて、労働環境改善のため、政府に対して非公式な労働の交渉を行い、仲間と互いに助け合った(急な欠勤など不測の事態にも班員同士で融通をきかせ、労働技術を互いに教え合ったとされている)。彼らは「作業班」を通じて、労働の疲れを互いに癒した。労働の場や私的空間での「つながり」が個人の主体性を育んでいった。

 国民の主体性を奪いたい(管理すると言う意味において)はずの政府が設置した組織によって、国民が主体性を手にしていく。その意味において、この「作業班」という現象は非常に面白いと思う。また、この「作業班」の存在自体が、東ドイツの人々が主体性を持ち、独裁と相対していたことの証拠でもある。西側の映画産業が提供する「わかりやすい東ドイツ」以外に興味がある人は、是非、この「作業班」に関する研究資料を読んでほしい。

 「つながり」は「不足の経済」からも生まれていた。耐久消費財にしても、非耐久消費財にしても、常に「必要が不足」していた東ドイツでは不足分を周りと「分け合う」という行動様式が一般化していたことが知られている。この「分け合う」行動は「共助の精神」を強化し、私的な「つながり」を生むことになった。

 最終的に「作業班」は解体され、「不足の経済」は資本主義の到来によって埋め立てられていく。社会主義下で育まれた「つながり」は、西側の新自由主義の波にかき消され、競争社会から取り残された人々は孤独を抱えながら「オスタルギー」の中で生き続けることになる。

 

 ブルーノが帰りたかった世界は「オスタルギー」の中にある(「オスタルギーの中にしかない」という方が正確かもしれない)。

 

 ブルーノは常に同僚のことを気にかける。フォークリフトに苦戦するクリスティアンの成長を見守り、家庭で暴力を受けるマリアンの身を案じる。彼は同僚に対し、東ドイツ時代にあった「共助の精神」の名残や、「つながり」を示し続ける(フォークリフトは貸さないけど笑)。

 終業後、それぞれが自分たちの世界に帰る中、彼だけは外の世界へ“出発”する。帰りたい場所が「オスタルギー」の中にある彼は、この世界の中では「帰る」ことができない。

 フォークリフトの結末を見届けたブルーノは、最終的にある決断を自身に下す。東西統一後、この世界には帰る場所がなかった彼は、数十年の時を経て、初めて自分の居場所に「帰る」ことになる。

 映画は、ブルーノの視点を通して、「不完全で不健全な社会主義下に確かに存在した、現在の世界が蔑ろにしているかもしれない健全な何か」を、それを求めて溢れ出す「オスタルギー」を丁寧に捉えていく。

 

 「居場所を求める物語」が、ブルーノの「オスタルギー」を軸に語られる本作だが、それとは別にもう一つ重要な軸が存在する。それがクリスティアンの持つ、今いる場所に対する「閉塞感」だ。

 

 クリスティアンの労働の原動力の一つになっているのが「過去との決別」だ。非行の過去を持つ彼は常に「かつての自分の居場所」と縁を切る必要性を感じている。中盤、クリスティアンはブルーノに連れられて、スーパーマーケット内の「海」に辿り着く。室内の奥にある生簀と、そこで生きる魚達を見つめる二人。そこでブルーノから語られる「買われるまでここを泳ぐ」というセリフ。直後に差し込まれるクリスティアンの後ろ姿のショット。当然、魚はクリスティアン自身を表現している。

 またはUFOキャッチャーのシーン。「取られるまでここに居続ける」ぬいぐるみたちは、「海」の魚同様、クリスティアンの内面や現状の具体化だと言える。

 

 夜間、フォークリフトの試運転を許可されたクリスティアン。店内を「泳ぐ」彼は、日々の「閉塞感」を忘れ、束の間の「自由」を謳歌する。映画全編に漂う灰色の閉塞感と「ここではないどこか」への淡い期待のようなもの。おそらくそれは東ドイツ時代に若者の間で溢れていたであろうものだ。居場所を「過去」に求めるブルーノと、それを「未来」に求めるクリスティアン。故郷に対して相反する想いを持つ彼らの関係は合わせ鏡のようでもある。本作は二人の視点を巧みに操り「居場所を求める物語」の「世代間の溝」もさりげなく描いてみせる。

 

 

 以上のように、様々な読み解きが可能な本作だが、それとは別に、個人的に感動したことがある。それは、作り手が“計算の外”にあるプリミティブな瞬間を映像に収めようとしているところだ。執拗に描写されるフォークリフトの躯体と機動(「美しき青きドナウ」と文字通りのワルツ)、クリスティアンの刺青と肉体、彼の主観で接写されるマリオンの表情、陽に照らされるタバコの煙、時折射し込む車のライトとそれにより表情を変える室内。言語化不可能な感動を捉えようとする監督の視線は、それこそ黒沢清のようなものを感じた。

 

 気になる部分もなくはない。これは完全に好みの問題だが「ラストの一連のシーンは順番が逆だったのではないか」と感じている。

 

 ラスト、クリスティアンは苦手としていたフォークリフトでの作業を“一人”で“ブルーノの教え通り”完璧にこなす。そして、“通路にて”マリオンをリフトに乗せ、二人で「波の音」を聞きながら映画が終わる。この一連のシーンは、ここに至るまでの伏線を回収する美しいものであり、「ブルーノの想いをクリスティアンとマリオンが受け継ぐ愛の物語」としても綺麗な流れに見える。しかし、本来、本作における「ブルーノとクリスティアンの居場所を求める世代間の物語」と「クリスティアンとマリオンの居場所を求める恋の物語」は別の物語であり、同一線上では語れないはずだ(少なくとも、そのように語れる描写を本作は描いていない)。

 

 本作は「未来に生きることを選んだ若者が、過去に生きることを選んだ中年男性から故郷の記憶というバトンを受け取る物語」のはずだ。大きすぎる世界の中で、それでも確かにそこにあった“何か”を掴み、先へと託そうとする物語だ。クリスティアンが「ブルーノという男が確かにこの世界に生きていた」ということを受け継いでいく物語だ(東ドイツがこの世界に確かに存在したように、だ)。であるならば、最後にマリオンとクリスティアンが二人で波の音を聞いてカメラが引いていくのはやはり最善とは言えない(はず)。波の音を聞いた後、マリオンを下ろして持ち場に戻ったクリスティアンが、ブルーノに見守られながら行なっていた作業を、自分一人でこなし、映画が暗転する。これこそが、真の意味でこの物語の幕を引く流れではないか。とか、そんなことも少し思ってしまった。

 

 少し、文句めいたことも書いてしまったが、そんなことはどうでも良くなる程素晴らしいシーンが本作にはある。それは陳列棚の“隙間”に現れる。

 

 先住した通り、本作は「壁」を連想させる構図が頻発する。作業場と休憩所を隔てる室内窓。通路を分ける陳列棚。スーパーマーケットの外に張られたフェンス(そこで行われる“有り余る富”の搬入とそれを見つめる作業員)。言うまでもなくこれは、かつて東西を隔てた「ベルリンの壁」を表している。至る所に散りばめられた「壁」のイメージは、実際に本作を観て確認していただきたいが、その中で個人的に非常に感動したのが、陳列棚越しにクリスティアンが初めてマリオンの名前を呼び、彼女がそれに応えるシーンだ。

 

 陳列棚を隔て、次の一歩を踏み出そうと慎重に言葉を探す二人。カットが変わり引きのショット。画面の中央に捉えられた「壁」とその左右にいる二人(非常に印象的なショットだ)。「もう帰らないといけない」と口火を切るマリオン。そこで意を決して彼女の名を呼ぶクリスティアン。それに応え、少し不安そうに視線を送るマリオン。そして第三者の介入によって束の間の会話は中断される。

 おそらく、これはかつて実際にあったであろう光景だ。東西に分断された世界の中で、それでも「壁」の“隙間”から互いを確かめ合う恋人達。命を危険に晒してでも、壁の向こうに想いを届け合う恋人達。それらを想起させるような一線を越える瞬間の演出。息を呑む程スリリングで感動的な一瞬をカメラに収めた本作は、間違いなく映画の魔法が宿っている。傑作。

 

東ドイツに関して参照した著書

①物語 東ドイツの歴史 分断国家の挑戦と挫折 著:河合信晴

②歴史としての社会主義 東ドイツの経験

編:川越修、河合信晴

執筆:川越修、河合信晴、足立芳宏、石井聡、高岡智子、市川ひろみ、植村邦彦、上ノ山賢一、清水耕一

 どちらとも、非常に勉強になった本なので、映画を面白く感じた人は是非、読むことをお勧めしたい。おそらく、映画への理解度や登場人物達が抱える葛藤や状況への解像度も何倍も上がるはずだ。この映画の詳細はこれらの本にあると言っていいほどだ。また、そもそも読み物として無類に「面白い」ので、東ドイツ社会主義に興味がなくても絶対に楽しめる読書体験になるとも思う(めちゃくちゃ勉強になりました)。

東ドイツ社会主義の特性上、資本主義における労働の現場より女性の地位が高かったとされている。その部分ももう少し活かした展開も見てみたかった気はする。

※役者は全員素晴らしかった。

クリスティアンがマリオンの家へ忍び込むシーンは、この映画のテンションと乖離しすぎているのでもう少し他の演出はなかったのかとは思った。

※終業後、搬入口の広場で打ち上げをするシーン。あれこそブルーノが帰りたかった光景なのではとかも思ったりした。

※原題の「通路で」は非常に気が利いているので、この邦題はあまり良いとは言えない気がする。