シークレット・サンシャイン(2007)


シークレット・サンシャイン

原題:密陽

監督:イ・チャンドン

脚本:イ・チャンドン

撮影:チョ・ヨンギュ

出演:チョン・ドヨンソン・ガンホ

 

 「この世に救いはあるのか」、最愛の息子を奪われた主人公・シネは絶望の中で宗教(キリスト教)に希望の光を見出す。再び平穏を取り戻した彼女は、神の教えに従い、犯人に「赦し」を与えに行くのだが…。

 

 確かに、宗教(特にキリスト教)を批判的に捉えた映画ではある。救いとなるはずの神の教えがさらなる絶望を突きつけてくる。「宗教に人は救えるのか」、映画は全編を通してこの疑問を投げかける。しかし、この映画が真に問いかけているのはもっと普遍的な(もしくはさらにその先の)「この世に救いはあるのか」ということのような気がする(もちろんキリスト教が最も重要なファクターであることは言うまでもないですが)。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 序盤、自身の見栄をきっかけに息子を失うこととなったシネは、たった一人、身寄りのない街で、急速に衰弱していく。映画は、シネの壊れゆく精神や剥き出しの感情を手持ちのカメラで淡々と描写する。揺れるカメラ、無造作にも見えるショットの羅列、一見すると臨場感優先の“荒々しい映画”のように見えるが、実はかなり計算された画面設計のもと撮られた“繊細な映画”だと思う。

 

 例えばこんなシーンがある。

 

 中盤、絶望の淵にいるシネは導かれるように教会へ訪れることになる(役所の床に散らばる荷物、そこに注ぎ込む光、荷物を拾う為にしゃがむことで光に照らされるシネ、耐えきれず飛び出した先に見えた「傷ついた魂のための祈り」、教会とシネの間にある道路、階段の鏡、その全てが暗示的だ)。

 教会内の隅に置かれたカメラは祈りを捧げる人々とその中心の男(牧師)を映し出す。男から発せられる言葉に涙を流す人々。そこにシネの嗚咽が響き始める。ゆっくりとシネの方へ向かう男。そしてカメラはシネへと切り返される。ここから先、カメラは男の顔が画面の内側に入り込むことを拒む。“顔のない誰か”、そしてその誰かからシネへと“降りてくる手”。この個人の特定を拒む演出が、“形而上のとある誰か”をより強く浮かび上がらせ、降りてくる手を“救いの手”として強烈に表現する。「訪れた救いの瞬間」をイ・チャンドンは素っ気ないショットで完璧に捉えてみせる。

 ここで重要なのは、あの瞬間シネが「本当に救われていた」ということだ(それが仮初のものだったとしても)。教会での体験を笑顔で語り出すシネ。シネを捉えたまま徐々にズームアウトしていくカメラ。周りで話を聞いていた人たちが徐々にフレーム内へと映り込んでくる。シネの世界が文字通り“広がって”いく。

 

 キリスト教をテーマに撮られた映画は様々ある。それらの映画はキリスト教が内包する負の歴史、矛盾、欺瞞、更には「神の存在」に鋭い疑問の視線を向ける。ただそのような映画が見落としがちなのが、あの瞬間のシネのような、実際に“救われたと実感”している人たち、またはその魂だ。イ・チャンドンは宗教の限界を見据えながらも「救われる魂」それ自体を決して否定しない。シークレット・サンシャインは非常に優れたバランス感覚のもとに作られている。

 

 映画の後半、救いをもたらしてくれたはずの神に先を越されたシネは、再び絶望の淵に立たされてしまう。面会の後、信仰を文字通り“手放した”彼女は、病院のベッドで神と対峙することを静かに決意する。

 ここから先、シネの肉体と精神は再び衰弱していく。しかし、同時に、これまでとは異なる強さが映し出される。それは、人間の“意志の強さ”だ。他者が押し付ける「赦せ」という教えを跳ね除け、憎むことを、「赦さない」ことを選択した、“神にすら揺るがすことのできない圧倒的な意志の強さ”が物語を支配していく(そういう意味では、これは「神や宗教」についての映画というだけでなく、それらと対等に渡り合った「人間」についての映画とも言えるかもしれません)。

 

 「神」は映画全編を通して大小様々な試練をシネに与え続ける(特に、小さな試練の描き方、そのタイミングがこの映画は本当に上手い)。しかし、最後にシネを試すのは神ではなく、映画の「作り手」だ(というか、全ての映画は作り手こそがキャラクターに試練を与えているわけで、そしてそれこそがこの映画を見た後に感じてしまう若干のモヤモヤでもあるのですが)。

 シネは最後、作り手から「本当はすぐ側にあった“救いの可能性”に気づけるか」という試練を課せられる。この結末が観客に提示されることはない(作り手が「ここから先は、彼女だけの物語だ」と言っているような気がした)。それでもラスト、映画は、「この世に救いはあるのか」という問いに対し、裏庭に射す「密かな陽の光」で答えてみせる。

 

※「若干のモヤモヤ」というのは、宗教が持つある種の傲慢さを批判的に描く映画が、それを表現するために、同じような目線から主人公を試し続けている気がしたから。先述した通り、すべての映画そうなんだからそれ言ってもしょーがなくね?って話なのですが、おそらくこの映画があまりにも上手すぎるため、そしてこのテーマをこの手法で描いたため、そのように感じてしまったんだと思います。

 テーマとは少しズレるのですが、個人的に気になったのは、ソン・ガンホ演じる社長の存在。映画では「救いの可能性」のひとつとして描かれているのですが、公開当時と今では少し違う印象を受けてしまいました。確かに彼は主人公に常に寄り添い、その行動を優しく見守り続ける、彼女にとっての「救いの可能性」です(最後まで彼女を理解してなさそうですが)。確かに彼は優しい。ただ、時折見せるシネ以外の人に対する言動や行動が、家父長制にどっぷりと浸かった男の悪ノリ的なそれで、彼女に対する優しさも、意中の人を手に入れたいという欲望からくる期限付きのものである可能性がある(意地悪な見方だとは思いますが)。久しぶりに見返すと、「仮にこのおやじと一緒になっても、別の地獄が待ってそうな気がしなくもねーな」という印象も持ってしまいました(自戒の念を込めて)。

 あと、犯人の娘さんには、しっかりとした大人のもとで、ちゃんと幸せになって欲しいと思いました。