スリ(2008)

 

『スリ』

原題:文雀

監督:ジョニー・トー

脚本:チェン・キンチョン、フォン・チーチャン

撮影:チェン・チュウキョン、トー・フンモ

音楽:ザヴィエ・ジャモー、フレッド・アヴリル

出演:サイモン・ヤム、ケリー・リン、ラム・カートン、ロー・ウィンチョン、ケネス・チャン

          ロイ・ホーパン、ラム・シュー

 

 香港でスリ師として生きるケイ(サイモン・ヤム)、ボー(ラム・カートン)、サク(ロー・ウィンチョン)、マック(ケネス・チャン)の4人は、卓越した技術で自由気ままにスリ師としての生活を送っていた。ある時、そんな彼らの目の前に謎の美女チュンレイ(ケリー・リン)が現れる。4人を意のままに誘惑する彼女だが、実は囚われの身であり、彼らにある物を盗ませるという真の目的があった。自由になりたい彼女から助けを求められた4人は、危険なスリを働こうとするが.....。

 

 最も好きなジョニー・トー映画。90分という短い時間の中で、時にノワール、時にラブコメ、時にミュージカルと様々なジャンルを横断する本作は、4人のスリ師と1人の女の目を通して香港という街を表情豊かに捉えてみせる。監督が「失われゆく古き良き香港を映像に残す」ことを目的としたと話していることからも分かる通り、香港という“街”そのものが主役と言える作品だ。

 またサイレントの演出手法で撮られた作品でもあり、セリフによる説明過多な昨今の映画群とは一線を画す、非常にシンプルかつクラシカルな仕上がりとなっている(それこそ冒頭のシーンのみで、これから始まる物語の流れをあらかた暗示してしまう)。

 とにかくキュートで、美しく、繊細で楽しい、最高としか言いようがないノワール映画だ。

 

(以下、ネタバレ)

 

 ジャンル映画を楽しむ方法の一つに「クリシェ(定型)をどのように表現するか」というものがある。ノワール映画におけるクリシェと言えば「主人公がファム・ファタール(宿命/運命の女)によって身を滅ぼす」だったりするわけだが、その過程である「どのようにファム・ファタールに落ちていくのか」という部分を作品ごとに注目すると、よりこのジャンルを楽しむことができる(ノワールには様々な恋模様がある)。

 逆にいうと、その部分をうまく表現しきれなかった映画は、終始説得力に欠ける映画となってしまう。なぜならその過程こそノワールにおける主人公の「動機」だからだ(そこが疎かになってしまうと、「なぜ主人公はこの人のためにここまで危険を犯すんだ?」となってしまう)。

 

 本作は“運命の女に落ちていく男”の過程を「一目惚れ」で表現する。

 

 軽やかな音色と共に、自転車に乗りながら香港の“顔”を写真に収めていく主人公(ケイ)。カットが変わり、そこには追われるように走る女の姿。女を捉えたままカメラは左へとパンし、路地で写真を撮ろうとしているケイを再び映し出す。沈みだす音楽。ファインダー越し、右方向から現れ、画面中央で振り向く運命の女。スローモーション。そしてシャッターが切られる。

 

 よく一目惚れの瞬間を「時が止まったようだった」と比喩的に表現することがあるが、ジョニー・トーは「フィルムに焼き付ける」というアクションを通して、本当に時を止めてみせる。

 

 残る3人にも印象的なシーンが用意されている。ボーがカジノで腕時計と一緒に“盗まれた”のは何か、エレベーターの中で風船と同時に“弾けた”のはサクの何だったのか、二人乗りのバイクと共にマックの何が“疾走”しだしたのか。

 

 これらは全て「抽象的な事柄をアクションとして具体化する」という、まさに映画ならではシーンだ。ジョニー・トーは過去作から一貫して、曖昧なことを曖昧なまま提示したりせず、実際のアクションで観客に伝えようとする(優れた監督は常に「抽象」を具象化させてみせる)。

 

 中盤、立て続けに身に覚えのない襲撃を受けた4人は、それぞれ偶然出会ったはずの美女が共通の人物であったことを知る。その後、真相を確かめるため謎の美女を追うことになるのだが、ここから追い詰められた女の独白に至るまでのシークエンスが非常に素晴らしいものになっている。

 

 女を見つけ出した4人は、最終的に街の雑居ビルに彼女を追い詰める。逃げ場を求めエレベーターに乗る女。屋内を抜け、屋上のさらにその上へと駆け上がるが、ついに行き場をなくしてしまう。説明を求める4人に対し、女は涙を浮かべ「自由になりたい」と吐露する。虚を突かれた4人の表情と画面に映り込む高層ビル群。

 

 「自由を求める」女が、屋内という閉鎖的空間を抜け、屋上に立つ。視界を遮るものが存在しないそこは、一瞬「自由」を体現した場所のようにも見える。しかし、カメラが彼女へ切り返されると、そこにはさらに高いビル群が聳え立っており、この場所でさえ、実は自由とは程遠い、巨大な柵に囲まれた場所だったことがわかる(香港という街自体が、彼女にとって巨大な鳥籠であることを表している)。

 男を惑わす美貌、有力者の愛人と、その立場から得る圧倒的な財力、何一つ不自由がないように見える彼女もまた、利用され、搾取される「囚われの身」でしかなかった。これらがセリフだけでなく、アクションと構図からも明示される、本当に見事なシークエンスだ。

 

 ジョニー・トーは「誰にどのような行動をとらすか」という部分に細心の注意を払うことで、セリフでは補えない空気を観客へ提示する。変装により騙し打ちを行った人間たちが逆に変装によって遅れをとり、3人で挑み1人残った戦いのあと、今度は逆に1人で挑み3人は残るという構図が取られる。自転車の4人乗りにも各々の性格が現れる。またこの物語の核心が語られる時、それまで話していた主人公は口を閉じ、実際にそれを望む人間の口からその意思が伝えられる。そしてそれは望んだ人間の手に直接渡される。

 特に凄まじいのが、黒幕の男が一度奪われかけた金庫の鍵と女を再び手中に収めるシーン。女を隣に座らせた車内、取り返した鍵をチェーンに繋ごうとするが苦戦する黒幕の男。見かねて、手を貸す女。いくらでもシンプルに処理できるこのシーン、作り手はわざわざ「男が細かい作業に苦戦する」ディティールを追加し、女にそれを手伝わせることで、「自由を求めた人間が自らの手で再び不自由に繋がれる」という残酷な流れを作り出している(しかもこの“手元がおぼつかない”という確かな老いが後の結末の伏線として機能している)。

 

 気になる部分がないわけではない。特にラスト近く、黒幕の男に涙を流させ、「彼もまた純粋に恋をしていた」とコメディ的に処理するシーン。この指摘をするのは無粋かもしれないが、どんな理由があろうと、どれだけ丁寧な態度を示そうと、他者の意思を超えてその人を縛ることを「純粋な恋」とは言わないはずだ(普通に犯罪な)。それこそ縛られた側は倍以上の時間をかけ、失った時間を取り戻さなければならない。初見時(高校生の時)は最高にキュートなシーンだと思っていたが、今見返すと「このシーンなんか引っかかるな」と感じてしまった(そういう映画だろって言われればそれまでですが)。

 

 ともあれ、最高に最高な作品であることは間違いない。ラストの「シェルブールの雨傘」を西部劇として処理したようなシーンの美しさは言わずもがな、各場面に魅力的なシーンが詰まった映画だ。傑作。

 

※これは穿ち過ぎかもしないが、エレベーター内でガラスの境界線越しに行われる会話に、特殊な政治的背景をもつ故郷に対して、監督ならではの思いがあるように感じた。

※襲撃された4人がそれぞれ怪我を負った場所に注目すると、まるで彼らは4人で1つだと示しているような感じで、ブロマンス的な関係性が好きな人も楽しめると思う。