しわ(2011)

 

『しわ』

原題:Arrugas

監督:イグナシオ・フェレーラス

原作:パコ・ロカ

脚本:パコ・ロカ、イグナシオ・フェレーラス、ロザンナ・チェッキーニ

   アンヘル・デ・ラ・クルス

出演:アルバロ・ゲバラ、タコ・ゴンザレス、マベル・リベラ



 認知症の症状が見られるようになった元銀行員の主人公・エミリオ。息子夫婦に連れられ施設へと入所することになった彼は、戸惑いつつも同室のミゲルやその他の入所者、職員のおかげで少しづつ新しい生活に馴染んでいく。しかし、症状は徐々に進行していき・・・。

 

 誰しもに等しく訪れる「死」。そこに至るまでに道のりに、もし「認知症」が待ち受けていたら・・・。認知症のある人と家族、入所施設、実際の症状とその進行、本作は認知症を患った主人公の主観を中心に、ときに客観的視点を挟みながら、「認知症」というテーマを包括的に描いていく。

 

 老健施設における認知症ケアはその病の特性上、常に綱渡り的だ。「人権」と「生命」を天秤にかけず、その両方を最重要項目に掲げる。せん妄などが起因となる他害行為や、身体機能低下からの転倒や誤嚥、その他様々な生命に関わる危険行動をとってしまう認知症のある人に対し、決して身体拘束はせず、高圧的な態度を取らず、個人の自由意志と尊厳を最大限守りながら、施設生活の中にあるリスクを減らし続けていく。「完治」が存在しない以上、当然ゴールも存在しない(仮に存在するとすればそれは施設からの退所もしくは「死」だ)。

 そもそも認知症は病名ではなく共通する症状の総称だ(いわば「状態」のことだ)。そして起因となる病がいくつか存在し(「アルツハイマー型」「前頭側頭型」「レビー小体」「血管性」など)、さらに個人によってその症状や進行速度が大幅に異なってくる。そのため万人に当てはめることが可能なケアのメソッドは存在しない(もちろん症状ごとに傾向と対策はあるが)。「この人の場合こういう症状でこれが危険だからこうしよう、けどこの場合なぜかこうなるからその場合はこっち。けど、そうすると同室の人に不利益が出ないか。じゃあダメか。それじゃこっちは。それだと職員の数が足りないから他の部分でリスクが上がってしまう。それなら........」集団生活を踏まえた各個人のケアプランは、必然的に妥協案の集積で出来上がる(ベストはなく、ベターを選択し続ける)。

 自分は管理栄養士として認知症のある人と接することがあるが、栄養計画にもベストな選択は存在しない。「この人は認知症からくる嚥下障害によって咽せ症状が出やすくなっている。誤嚥性肺炎の既往歴もあって溜め込みもあるから食形態を落としたい。しかし本人はこんなもの食べたくないと怒っている。けど嚥下テストしたら咽せが激しくて吸引が必要な可能性もある。けど食形態を落として食べなくなったら低栄養リスクは上がる。ならこうするか。いやそれだと他の部分が疎かになって、別の危険がでる。では、これは。いや、それは.......、今回はこれで様子を見ていきましょう」まさに妥協案だ。

 

 「どのように症状と向き合うべきか」これは実際に認知症を患った当人とその身近な存在の人たちに常に付き纏う命題だが、本作はこれを当人、家族、施設職員と立場を細分化し、それぞれにある問題点やジレンマを描くことで、実際に日々この世界で認知症と向き合う人たちの負担を少しでも軽くできないか、何かしらのベターを提示できないかと試みている(原作は未読だが、そもそも原作に織り込まれたエッセンスかもしれない)。

 

(以下、ネタバレ有り)

 

 オープニングの演出が非常に優れている。本作のテーマやトーン、後の展開の暗示、そして作り手の狙いがこの数分の間に凝縮されていると思う。

 職場のオフィス、スーツ姿でデスクに座り融資の依頼を断る銀行員のエミリオ。断られた依頼者は「何度も“繰り返し”でうんざりだ」と激昂し詰め寄る。冷静に対処しようとするエミリオ。そんな彼に対し「お父さん、ここは銀行じゃないんだ」という予想外の言葉が発せられる。カメラがデスクへとパンダウンすると、そこにあったはずの書類は消え、代わりに食事が並んでいる。カットが変わると先程までオフィスだった場所は自室となり、切り返したカメラには白髪のエミリオが映る。

 認知症を患う人にとって目の前の世界は、輪郭のぼやけた曖昧なものである場合が多い。過去と現在の境目は薄れ、複数の時間軸を一つの現実として行き来する(そういった症状が現れやすく、「回帰型」と呼ばれたりする)。主人公と観客に対し、同じ順序で開示される「現実」という情報。この演出によって観客は、認知症のある人が捉えている世界のあり方(認識の仕方)を本人の目線で追体験することになる。本作の狙いはここにある。

 「なぜ忘れるんだ」「さっきも言ったぞ」「しっかりしてくれ」これらの言葉は認知症のある人たちを現実に留めようと投げかけられがちなものだが、では「現実」とは何なのか。自分たちは、その場にいる複数の人間の知覚で整合性がとれ、ある程度収まりのいい範囲を「現実」と呼んでいる。しかし、その知覚も結局はそれぞれの主観だ(現に世界の色も音も個人によって違うはずだ)。認知症のある人にとって、複数の時間軸がシームレスに現れるなら、それこそがその人にとっての「現在」だ。他者から見れば「忘れていただけで実際に行っていた行動」も、本人の主観でそれが認識できなくなるなら、それは「実際にはまだ行っていない行動」であり、それこそが他でもない「現実」だ(イスタンブール行きの座席こそが現実なのだ)。

 この映画は認知症の症状が当人の努力や意志の強さでどうにかなるものではないことを効果的に伝えてみせる(もちろんこれらは「記憶障害」や「見当識障害」からくるもので、介護士などのプロはそれに対する専門的な知識と対処法をもとにケアをしている)。

 

 本作は「雲」に特別な意味を持たせている。繰り返し映される空に浮かぶ雲。はっきりとした輪郭がなく、フワフワと浮かび、今にも消えてしまいそうで曖昧なそれは明らかに「記憶」の隠喩だ。 

 

 例えば、最初と最後で対になっているカメラワーク。冒頭、厚い曇が覆う空を捉えたカメラは下へと移動し、施設の門とタイトルを映し出す。これに対しラスト、エミリオのアップからオーバーラップした青空の中で、最後まで残っていた雲が消える。カメラは下へと移動し、輪郭のはっきりした建築物と街の人々を映し出す。空の雲は映画を通したエミリオの記憶の変遷だと言える。また最後に街の輪郭を捉えたのは、これは誰にでも起こりうる普遍的な話なのだというメッセージともとれる。

 

 最も象徴的なのがドローレスとモデストの回想だ。夫婦で施設に入所した二人だが、夫のモデストは認知症の症状がかなり進行しており、表情の変化すらほとんどない。しかし、彼は妻のドローレスがある言葉をつぶやく時だけ必ず笑みを見せる。彼女はその言葉の正体を明かすため「雲」にまつわる過去を語り始める、最も大切な愛の「記憶」として。

 愛する人のために掴んだ「雲」。その「記憶」だけは絶対に手放さない恋人達。テーマと演出が合致した非常に見事なシーンとなっている。雲がどの場面でどのように使われているか、そこに注目してこの映画を観ると色々な発見ができる。

 

 作り手はこの映画が過度に感傷的になることや、何となく「良い雰囲気」になることを意図的に避ける。何かしらポジティブなことが起こった後、ネガティブな何かが待っていたり、同じショットの中で心地よさと不穏さが同居していたりする。重要なのはそれらのアクションの変化が何の予兆もなく、ただ淡々と、単なる出来事の連続(または羅列)として演出されている点だ。なぜならそれこそが認知症の症状、そしてその介護の日々そのものだからだ。

 詩を誦じるアントニアに対し、楽しげに軽口を叩くミゲル。その隣でナイフとスプーンの区別がつかず「こんなナイフでは肉が切れない」と激昂するエミリオ。自分の状況を整理できずにいる彼は、スプーンに映る“逆さま”の自分を見る。そしてそのスプーンを表に返しもう一度そこに映る自分を見つめる(今度は別の反射で)。これは症状のスイッチの切り替わりを的確に表現した素晴らしいシーンだ。おそらくスプーンを返したあとのエミリオは数秒前の彼と比べて認知機能面が若干上向きだ(その証拠に理路整然とした質問を他者へ投げかける)。認知症の症状は本当に些細なことで、何の前触れもなく“落ち着く”ことがある(この表現が正しいかはわからない)。何かしらの予兆が入り込む隙間もない、スプーンを表に返すだけシーン。これだけで、認知症と向き合う日々、その一端を的確に表現している。

 

 個人的に考えてしまったのが、室内プールのシーンだ。このシーンでエミリオから発せられるセリフに施設での認知症ケアのあり方、そのジレンマが現れていると思った。

 施設生活を送る中で自身がアルツハイマー認知症だと悟ったエミリオは、その向き合い方についてミゲルと口論となる(“浮き沈み”の話のあとに映る、水たまりの落ち葉たちやプールの描写は見事だと思った)。ミゲルが隠し持つある保険(手段)に納得がいかないエミリオは、一人室内プールに飛び込む。エミリオが自死目的で飛び込んだと勘違いしたミゲルは慌てて彼を引き上げようとする。そこでエミリオは声を荒げて訴える。「私はまだ死んでいない。一年後がどうかは分からないが、今は生きている。そしてプールで泳ぎたいんだ。ただそれだけだ。」

 

 これは「自由意志」についてのセリフだ。先述した通り、介護施設では最大限「人権」を重んじるため身体拘束は行わない(少なくとも日本ではそうであり、もし止むを得ず行う場合は専用書類の作成がいる)。しかし施設全体では、抜け出すことがないよう入所者には解除できない施錠が行われている。施設によってはフロア毎にカードキーが設定されており、自由な行動範囲は居住フロアのみに限定されている場合もある。

 窓の外に広がる確かな世界。例えば、道を挟んだ公園に咲く桜。自分たちはそれを見たい時に外に出て、満足したら帰宅する。それが可能だ。しかし施設生活の高齢者ではそうはいかない。それを近くで見たいと思っても、彼らは自分の意思決定だけでそうすることは出来ない。目の前にある世界を自分の意思で自由に行き来きすることが許されない、そこには計り知れないストレスがあるはずだ。

  もちろん、だからといって施設外への出入りを自由にしたり、すべての行動の制限を解くわけにはいかない。言うまでもないが、施設への入所が必要なレベルの高齢者に対し、見守りのない自由行動を許し、その上で安全性を約束することは不可能だ。実際、今作はそれが行き着く先も描く(認知症を患う人たちの記憶のあり方のようにも見える途切れ途切れの道路中央線、それを辿った先にある乗り上げた車とその奥の暗闇は非常に象徴的だ)。それでも疾走する暴走車の中でミゲルの言う「俺たちは自由だ」というセリフは、祈りや心の叫びのようなものにも聞こえた。

 

 中盤、入所者による女性リハへの「セクハラ」がある。介護施設での職員へのセクハラ行為は、少なくない割合で起こる(男女問わず起こるが、そのほとんどが男性入所者から女性職員に対してだ)。この年代は「セクハラ」の概念が非常に薄く、注意を真剣にとらえないことも多い。本来このような場合、施設からの強制退所など強い処置が待っているが、中々そうは行かない現実がある。特に退所理由に「セクハラ」を持ち出すと、家族が納得せず、そこでも別の問題が発生する場合がある。また日々秒単位で利用者の行動リスクを観察する必要がある介護業務は、セクハラを注意することで新たなリスクを生んでしまう可能性が出てくる(例えば、セクハラを注意する間、他の利用者の転倒リスクは上がっている)。そのため職員の中には、セクハラ行為を軽くあしらい報告をしないものもいる(この映画の女性職員のように)。しかしそれでは安心して働ける職場環境には繋がっていかない。報告をしようが、無視をしようが結局そこには何かしらの面倒事が待っている(しかもセクハラ被害者にだ)。介護施設で起こるセクハラ行為は非常に重要な問題であり、もっと関心を持たれるべきものだ(本作はその描き方があまりにも短く軽すぎるため、そこをもって批判することは可能だ、個人的には「これに関してはあまり真剣じゃないな」と思ってしまった)。

 

 本作は、観客の視点をミゲルに集めようとしている(先述した「何かしらのベターの提示」を担っているのはおそらくミゲルだ)。 前半のミゲルが半端ない詐欺師なのは一旦置いとくとして、後半、彼のエミリオに対する接し方は、認知症のある人と日々を過ごしていく上で非常に有益なことを伝えている(特に、在宅介護している家族や、これからそういった日々が始まる人たち、所謂プロじゃない方達に対して良いお手本になる部分があると思う)。

 症状に「真剣に向き合うこと」と「正面から向き合うこと」は同じようで違う。ミゲルは常にエミリオの症状に対して真剣に向き合っているが、正面から向き合うべきことは取捨選択している。彼はエミリオが名前を間違えるのをわざわざ指摘しない。スプーンとナイフを間違えたエミリオのクレームを否定せず、同意と共に他の選択肢を提案する。

 エミリオがシャツを着られなくなるシーンがある。ミゲルは代わりにボタンを閉じるのだが、その間もエミリオに話し続ける。認知症のある人にとって「出来なくなっている」という事実に直面するのは非常にストレスがかかる。ミゲルは否定も非難もせず、ただ会話を続けることで、エミリオの意識を「出来なくなっている」という事実に集中させず、別の方向に誘導する。

 よくある「認知症の方との良い接し方」という文言とその内容。そこには「傾聴」「否定をしない」「叱らない」などがある。もちろんこれらは当事者の尊厳や心をケアするために大切なことだが、何も当事者だけに都合が良い「綺麗事」というわけではない。これらは症状に対する「適切なスキル」であり、これらの実践は当事者だけでなく、介護する側の肉体や精神も確実に守ってくれる。

 例えば「まだご飯を食べていない」という場面があったとする。ここで「さっき食べたでしょ」と叱ったり、強く反論しても平行線を辿ってしまう(繰り返しになるが、「事実」がどうであれ、食べていないことこそが「現実」だからだ)。このような場合、有効なのが「傾聴」や「否定をしない」ことだ。否定をせず「今作っているよ」や「何が食べたい」もしくは食事と全く関係ない質問などの言葉をかけ、「ご飯をまだ食べていない」という「現実」から本人の意識が外れるの待つのだ(それでも厳しければ、簡単な食事を出しても良い。冷食やレトルト、スナックなどそれ専用の品をストックしておけば、平行線を辿るよりよっぽど早く解決する)。

 自分の場合は、それこそ「記憶」に意識を誘導するようにしている。フロアやベットサイドへ食事調査に行くと、「コックさん、まだご飯食べさせてもらえてないです」と、食事を要求されることがある。その際、今から用意することを伝えた上で、「そういえば◯◯さん、ご出身はどちらだったでしょうか。当時の食事はどのようなものでしたか、勉強させてください。どのような遊びをしてたのですか。」などの質問をする。過去に意識が行くことで「ご飯を食べていない」という「現実」は次第に薄れていく(場合が多い)。

  後半ミゲルの態度はまさに「傾聴」「否定をしない」「叱らない」の実践だが、聞こえの悪い言い方をすればこれらは「諦め」とも言える。しかし、認知症のある人と関わる上で症状に対し「諦め」の日々を送ることは決して不誠実でも悪いことでもない。真正面から向き合った先にあるのが「消耗」だけなら、劇中のミゲルのように諦める事が、多少なりとも穏やかな日々を提供してくれるはずだ。

 

 本作が優れた映画であることは間違い無いが、気になる部分が無いわけでは無い(というか「少し一方的かも」と感じる描写や主張がある)。監督はインタビューで「中立」であることを意識したと言っており、映画はあらゆる方面に敬意を持って(または気を使って)作られている。ただ、家族についての描写(正確には家族が会いに来なくなる事についての描写)には注意が必要だと思った。前提として可能であれば家族は積極的に施設を訪問してあげたほうが良い。家族と会った時の入所者の表情は、日々の施設生活のそれと比べて段違いだ。ただ、会いに来ないのにはそれなりの理由がある(場合がある)。特に考慮しなければならない理由が「夫婦間にあったDVやモラハラ」だ。男尊女卑、男性中心主義にあぐらをかき、家庭内で何十年もの間ひたすらパートナーに高圧的に接してきた「一家の大黒柱(とかいわれている例のアレ)」。そしてそれが衰えを機に施設に入所する。「やっと解放された」と口にする人もいる。会いに来たいはずがないし、会いに来るはずもない(連絡すらつきにくい場合もあり、それはそれで施設としてはかなり困ることだが)。また、症状に他害行為や感情失禁、易怒性の傾向が強い人を介護していた家族も同様の場合がある。実際、家族は本当に疲弊し切っている。「会いに来ない」ことが批判されるべきことだけではないとは言っておきたい。

 

 ともあれ、印象的なシーンは多く、それを90分という短さでまとめる手際の良さは素晴らしいと思った。傑作。

 

※「傾聴」「否定をしない」の実践は非常に大切だが、家族と仕事では当事者に対する距離感が違いすぎるのも事実だ。他人ならいざ知らず、家族だとどうしてもイライラが募り高圧的になっしまう場合もある。そういう場合はお互いが崩れる前に積極的に施設を利用していくべきだと思う(が、その施設も空きがなく利用しにくくなっている現状もある)。