『クルードさんちのはじめての冒険』
原題:The Croods
監督:カーク・デミッコ、クリス・サンダース
脚本:カーク・デミッコ、クリス・サンダース
出演:ニコラス・ケイジ、エマ・ストーン、ライアン・レイノルズ、キャサリン・キーナー
クロリス・リーチマン、クラーク・デューク、ランディ・トム
原始時代、「外の世界は危険」という父親グラグの考えのもと、洞窟の中で生活をしてきたクルードさん一家、そんな生活に娘のイープは日々嫌気がさしていた。ある日、突然の天変地異により住み慣れた洞窟が崩れてしまった一家は、外の世界へと放り出されてしまう。安全な場所を目指し、一家の初めての冒険が始まる。
とにかく脚本がよく出来ている。ここまでよく出来た脚本の映画をあまり知らないというくらい。画面上で繰り広げられるアクションに次ぐアクションが全て独立した意味を持ち、それでいて伏線として機能している。
映画は本来、アクションの連続で成り立っている。それが“カフェでの何気ない会話シーン”であっても、“走る電車の上での格闘シーン”であっても、監督が「アクション!」と言い、撮影が始まるのが示すように、それらは等しくアクションだ。アクションが映画を語り、さらに先へと進める。しかし、アクションを「語り」の一部として機能させるには優れた脚本と、作り手の確かな手腕が必要になる。それらを欠いた映画は、遅かれ早かれ、作り手の意図しない失速を見せる(派手な“だけ”のカーチェイスシーン、ストーリーが進まず、飽きてしまった経験は誰もがあると思います)。
「クルードさんちのはじめての冒険」は、全てがうまく機能している。さりげなく貼られた伏線(アクション)が、さりげなく回収され、その全てがストーリーの進行やテーマとなんらかの形で関わっている、恐ろしくよく出来た映画だ。
映画は、地殻変動から逃げるための、「明日」へ向かうための冒険を通して「何が人間を人間たらしめるのか」という問いを投げかけてくる。もちろんそこには人の数だけ考え方があるが、作り手は「知性」こそが、人間なのだと主張する。暗闇を照らすために火をおこし、存在を確かめるために貝を吹き、大きな獲物を容易に捕えるため罠を作り、足を傷つけぬよう靴を履き、広い世界を知るために物語を語る。そしてそれらを他者と共有し、その空間自体をより豊かにしようと試みる。何かを作る思考力、何かを語る想像力、それらは「知性」であり、それこそが人間の最大の武器なのだと映画は力強く訴えかける。
これは知性と共に、より良い新たな世界へ一歩踏みだす「人間讃歌」の物語だ(もちろん他の動物には知性がないと言っている映画でも、そこを持って人類を生物の頂点と位置付ける映画でない。また個々の知的優劣によって価値を判断する優勢思想的な映画でも決してない)。
(以下、ネタバレあり)
とにかく、指摘しきれないほど多くの要素が絡み合っているが、最も分かりやすい例が「手」を使ったアクションだ。この映画は明らかに「手」の演出を中心に据えて作られている(映画で最初に照らされるのは何か)。
序盤、「手」は家族を旧世界へ留め「支配する」という機能を果たす。“危険を避けるため”という名目のもと、家族の行動は父親グラグの「手」によって常に制限がかかる。大きな腕で行手を阻み、二本指は危険の指標を作り、家族に聞かせる「お話」も半ば強制的に手のひらによって終わりを迎える。グラグは自身と家族を取り巻く世界から「新しい」ものを、「未知」を退けようとする。
そして、そんな旧世界から新世界への憧れを表すのもまた「手」だ。暗闇との境界線、沈みゆく太陽に「手」を伸ばす娘のイープは、真っ暗な洞窟で闇に消えたはずの光を見つけ、必死に“掴み取ろう”とする。そして遂に、光源を求め安全なはずの旧世界から、文字通り「手」を離す(テーマと演出のリンクがピークに達するこのシーンは、この映画で最もスリリングかつ感動的な場面の一つだ)。
さらにはクライマックス、絶対絶命のピンチの中で、父親のグラグが断崖の先にある明日へと希望を渡すのも「手」だ。
このように、登場人物がどのタイミングでどのように「手」を使うのか、その変遷でこの映画(の一側面)を読み解くことが可能になっている。
地殻変動は、単に物語を前に進めるためだけの装置ではなく、“旧世代の価値観が崩れていく”メタファーとも、それとは裏表の“押し寄せる新世代の価値観”とも読み解ける。どう足掻こうが、どれだけ小さなプライドにしがみつこうが、世界は常に変わっていくのだ(ただ、現在それに対するバックラッシュがこれまでにないほど苛烈に働いている気がするため、この解釈に若干の楽観性が見えてしまうのが残念なあたりだが)。
冒険の途中、危機にさらされた一家はガイという少年に助けられる。「知性」を武器に様々な困難をいとも簡単に乗りこなすガイ。そんなガイに娘のイープは心惹かれ、家族も彼を頼る様になる。自身が最も欲してやまない家族からの関心を“男らしさ”のかけらもない若造に奪われたグラグは苛立ちを隠せず、ガイに反発してしまう。
そんな旧世代の代表者であるグラグは、冒険の中で変化と適応が必要であると気づき始める。しかしその気づきを中々受け入れられないグラグ。なぜなら、その変化の手がかりは、他ならぬ新世代の代表者ガイだからだ。ちっぽけなプライドと無知ゆえの恐怖を捨て去ることができるのか、言い換えれば、居心地のいい「家父長制」から脱却することができるか、グラグは冒険の間、ガイを通してこの問題と向き合い続けることになる。
だからこそ、グラグがガイに対抗するように自身のアイデアを形にし、家族の関心を惹こうとするシーンは可笑しくも感動的だ。その全てはほとんど成功せずに終わる(失敗ではないのが肝)。しかしガイは絶対に笑わない。グラグの行動に家族が呆れる中、ガイだけが一人、グラグの行動を真剣に観察し、対等に向き合おうとする。
個人的に最も好きなシーンが、ガイがクルード一家に「お話」を聞かせるシーンだ。これまで聞かされてきた「お話」に続きがあったこと、その先に“未知の世界が広がっていた”ことを一家が初めて認識するシーン。登場人物がありふれた「お話」を語るだけで、ここまで感動的で息を呑む瞬間が作れることに、映画が持つ魔法のような力を実感する。
その他、先述した通り、指摘しきれないほど、さまざまなシーンが絡み合っている。
例えば、巨大なサーベルタイガーを利用しタールから抜け出すシーン。ここはサーベルタイガーがはじめに主人公家族を襲おうとしていたシーンと遂になっている(擬態と罠)とか、サルとバナナをめぐる対立と対話とか、前半と終盤で対になる洞窟への避難とか、そこでのセリフのやりとりとか、グラグの安否を案じるイープのそばに立ったのが誰なのかとか、動物の背中に乗り並走する旧世代と新世代の男女の位置の違いとか、旧世界と新世界の色の対比とか、ペットの件とか、とにかくあげればキリがない。
不満点があるとすれば、この物語がどこまで行っても父親グラグと娘イープの物語であるということだ。もちろん「家父長制」からの脱却がテーマに込められている以上は仕方のないことだが、グラグが変われたのは、パートナーであるウーガの存在が大きい。グラグが自身の傲慢さを認め、変化への一歩を踏み出せたのは、彼女がグラグの側で“一定の自尊心”を保てる様にケアしていたからだ。おそらく彼女のケアが無ければグラグはこの冒険を乗り越えられてはいない。これまでの現実世界がそうであるように、偉そうにしている男が、気持ちよく偉そうでいられるのは、その男の面子を守りつつ、裏でケツを拭いてくれる、三歩後ろを歩く(歩かされている、もしくは歩くしかない)存在があるからだ。しかし、映画はそこにあまり焦点を当てられていない(というかこの手の映画は、支配の象徴として「旧世代の男性」、自由の象徴として「新世代の女性」という構図が量産されるのに対し、その狭間で葛藤するしかなかった「旧世代の女性」に比重を置くことが少ない気がする)。次回作以降、ウーガの様に“気を使うしかなかった側”からの物語が見たいとも思ってしまう(という指摘をしている自分も特権的な男であることを自覚した上で)。
不満とは別に、一つ気になったのが「明日」の取り扱い方だ。中盤、「お話」には続きがあることが語られるシーン、ここでガイは“明日へと飛んだ少女の話”をする。「明日とは何なのか?」と尋ねる家族に対し、「太陽がたくさんある場所」と返すガイ。それに対しグラグは「明日は場所じゃないし、目には見えない」と反論するが、ガイは「明日という場所は実際に存在し、目に見える」と答える。もちろんこれは比喩表現であり、まさに、この物語のテーマの核となる「知性」が可能にした表現における高等技術だ(ここで重要なのは登場人物の誰もがこれを比喩だと分かってはいないという点)。しかし、映画は「明日」を目指す家族に対し、具体的な場所を提示してしまう(比喩を具体化させ、「明日」が実際に有ったことになってしまっている)。もちろん比喩を知る観客にとってはそれでも十分なのだが、この物語のテーマに真の意味で迫るなら、登場人物に「明日」という場所自体は存在せず、比喩という表現方法の一つだったことを学ばせるべきだったのではないか。「明日」は実際には存在しなかったが、「明日」を目指したからこそより良い場所に行き着いた、物事を「抽象化」することが、時には世界をより正確に捉えることができる、ということを知る、つまり比喩表現を獲得するプロセスとして「明日」を描いても良かった気がする。
気になる点を少し長く書き連ねてしまったが、本当に良く出来た作品だ。今の人間社会が、この映画の様な先人達の、小さな一歩の積み重ねの先に成り立ったものだと思うと勇気をもらえるし、同時に次の世代への責任感も生まれてくる。現在蔓延している、反知性主義(あまり好きな言葉ではないですが)やポピュリズムに対するカウンターにもなっていると思う。傑作