テイク・ディス・ワルツ(2011)

 

テイク・ディス・ワルツ

原題:Take This Waltz

監督:サラ・ポーリー

脚本:サラ・ポーリー

出演:ミシェル・ウィリアムズセス・ローゲン、ルーク・カービー、サラ・シルヴァーマン

 

 結婚生活5年目のマーゴ(ミシェル・ウィリアムズ)。夫のルー(セス・ローゲン)との関係も良好で、日々幸せに暮らしていた。そんなある日、仕事の取材先でダニエル(ルーク・カービー)という青年と出会う。ルーに対するときめきが薄れつつあることを感じていた彼女は、次第にダニエルに惹かれてしまい・・・。

 

 サラ・ポーリーは優しい。

 映画はこれまで、様々な関係性や状況下での「人を好きになるということ」を描いてきた。それは例えば、「容疑者と警察署長の娘が真犯人を探している道中」だったり、「犯罪心理学者がモデルの為に犯罪を隠蔽しようとするアパートの一室」だったり、「FAと国に帰れない男と空港」だったりするわけだが、それらのロマンスは置かれた状況によってジャンル分けされ、登場人物たちはそこで選ぶ行動や態度によって、作り手と観客から人間性をジャッジされてきた。

 一般的に初恋や一途な愛は「良いこと」とされ、浮気や不倫は「悪いこと」とされている。実際、後者は最も敬意を払うべき相手への尊敬の念を欠いた裏切り行為だ。今作の主人公・マーゴも配偶者がいる上で、心惹かれる男性との偶然を装ったデートを重ねており、限りなく「悪いこと」に近い行為をしている。しかし、本来「人を好きになるということ」は「良いこと」「悪いこと」の以前に「どうしようもないこと」のはずだ(正当な手順は踏めよとは思うが)。

 今作は何もジャッジしない。否定も断罪もなく、いけない事と分かりつつ、それでも揺らいでしまう主人公の心を丁寧に捉えていく。もちろん、決してそれらの行動に肯定的なわけではない。作り手は、「信頼」という繊細なものを雑に扱うマーゴに対し、それ相応の結末を用意する(サラ・ポーリーは厳しい)。それでも、「どうしよもないこと」を「どうしようもないこと」として認め、抗えない心の揺れをありのままに見つめるこの映画は優しさに溢れていると思った。

 

 ただ、本作は「恋愛映画」でもなければ「恋愛についての映画」でもない。確かに恋愛を描いた映画ではあるが、少なくとも、その側面のみに焦点を当てると、この映画が本来もつテーマ、その可能性や射程の範囲を見誤ることになる。

 これは「寂しさ」や「不安」についての、もしくはそれらに対する「対処方法」についての映画だ。「依存」についての映画とも言えるかもしれない。とにかく、この映画における恋愛は、あくまでもテーマに対する「手段」や「依存先」でしかないことだけは確かだ(その証拠に劇中には別の「依存先」を持つ登場人物が出てくる)。

 孤独に対する寂しさ、将来への漠然とした不安、年を重ねていく事への焦燥感(ミドルエイジ・クライシスのような描写もある)、今作はそれらに対する「もがき」の物語であり、もしそれらの感情を経験したことがあるなら、たとえ浮気や不倫、それに近いことを経験したことがなくても、この映画を楽しめるはずだ。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 冒頭、逆光の中でお菓子を焼いているマーゴ(黄金に輝く体毛は伏線として機能している)。体のパーツを映し出しながらフォーカスの調整を繰り返すカメラは、不安定で目の前のことに集中しきれていない彼女の内面そのものだ。フレームインしてくる恋人と、彼女の浮かない表情。「美しい陽に照らされながらお菓子を焼く新しい恋人との生活」字面上はどこまでもポジティブな状況だが、画面を支配しているのは「終わり」の予感だ。作り手は冒頭の数分間だけでこの映画が何についての物語なのかを説明しきってみせる。

 

  本作は非常に多層的な映画だ。各場面にテーマと何かしら関係があるような仕掛けが見られ、起こる出来事が登場人物の心情を表す作りになっている。

 

 例えば、取材のため訪れた離島で初めてダニエルと出会うまでのシーン。ここでマーゴが見つめる「教会の二人」と「ある見せ物」が、後に起こる展開と重ね合わされている(マーゴが罪人にムチを打つシーンは、罪状やその後に彼女が迎える結末を考えると、なかなかに意地悪な仕掛けだなと思った)。

 

 最も分かりやすいのが空港での乗り継ぎのシーンだ。係委員に誘導されるマーゴを不審に思うダニエル。それに対し彼女は「乗り継ぎが怖い」と言う。当然だがこれはマーゴが持つ、あることに対する「恐怖心」のメタファーだ(メタファーというには直接的すぎる気もするが)。

 そしてここで重要なのが、恐怖心の矛先が、乗り継ぎ前の機体を離れることや、乗り継ぎ先の居心地についてではなく、乗り遅れることで一人孤独になってしまうことに向けられている点だ。「何が怖い?」と尋ねるダニエルに「不安でいることが怖い、怖いと思うこと自体が怖い」と返すマーゴ。彼女にとって真の意味で「恋愛」が重要なのは、恋人と一緒に過ごせるからではなく、恋をすることで自身の感じる恐怖を消し去ることができるからだ。彼女は惚れっぽいわけでもないし、積極的に恋愛がしたいわけでもない。ただ、不安や恐怖から逃れる為には、誰かに惚れるしかないし、積極的に恋をしてときめき続けるしかないのだ(繰り返しになるが本作の恋愛は「手段」や「依存先」でしかない)。本作のキャッチコピーに「しあわせに鈍感なんじゃない。さみしさに敏感なだけ。」とあるが、まさにそれこそが彼女が抱える乗り越えるべき問題であり、対峙すべき葛藤なのだ(本作のテーマを的確に捉えた完璧なキャッチコピーだと思う)。

 

 遊園地でアトラクションに乗るマーゴとダニエル。アトラクションが動いている間、彼女は終始満たされたような表情をしている。光の演出に煌めく空間。流れる「Video Killed The Radio Star」と絶叫する二人。そしてそれが終わり、彼女は現実に引き戻される。これは彼女の心に作用する恋愛の効果を視覚化したシーンだ。光の空間、動くアトラクションはマーゴの「ときめき」や「胸の高鳴り」であり、それが持続している間だけ彼女は安定できるのだ。

 アトラクションが動いている間も、止まった後も、隣にはダニエルがいる。にも関わらず、マーゴの表情はその前後で明らかに違う。結局、彼女の心に安定をもたらすのは、「ときめく相手が誰か」ではなく「ときめいていること」それ自体だ。

 

 今作は、マーゴの恐怖心や不安、焦燥感を常に煽り続ける。

 

 プール教室後のシャワーをあびるシーンがある。ここでの会話の重要性もさることながら、本作はこのシーンで生身の肉体を対比させた「老い」の視覚化とその実感を試みている。その視線の先に何を感じるかは人それぞれだが、マーゴと他二人の表情には本人たちですら掴み取りきれない「焦り」にも似た感情が見てとれ、使われる音楽は時の流れという抗いようのないものに対する「諦観」を表している気がした。その他、初めてダニエルの家に入ったシーンでの会話や、料理に集中する夫のルー、恋が愛に変わりつつある夫婦生活、様々な出来事がマーゴの恐怖心を煽り、焦燥感を加速させ、次の乗り継ぎへと導くことになる。

 

 本作で最も重要な人物の一人が義姉のジェリー(サラ・シルヴァーマン)だ。アルコール依存症の治療中であるジェリーはマーゴの鏡像であり、いわば「依存先が恋愛じゃなかったマーゴ」と言える。

 

 離婚後、義姪のトニーに呼ばれ再びルーの元に訪れたマーゴはジェリーの行方が分からなくなっていることを知る。ポーチで彼女の行方を案じていると、蛇行する車が道向かいのゴミ箱に突っ込んで停止し、中から泥酔したジェリーが現れる。ここから交わされる二人の会話は、まさにこの映画の核心に迫るものだ(今作で最も重要なシーンだ)。マーゴに放った言葉が、自分にもそっくり返ってくることを自覚しているジェリー。そこで交わされるのは「恋愛」についてではなく、「不安」や「寂しさ」とそれに対する「対処方法」、そしてそれが実生活にもたらす「副作用」についての話だ。

 このシーン、さらに素晴らしいのがマーゴが退場するまでの動線にある。ジェリーが警察に連行された後、ルーと二人きりになったマーゴは、この関係が終わっていることを再確認する(勝手な話だが)。様々な感情がない混ぜの中、涙を堪えその場を去る彼女。ここで作り手は、彼女にわざわざ道を渡らせ、車が放置された側の歩道を歩かせる。クラッシュした車と同一ショットで捉えられたマーゴ。車は彼女の内面や状況の具体化だ。

 役者の表情、動線、周辺の美術、画面に映る全てを完璧にコントロールしているからこそ作り出せる、非常に映画的で素晴らしシーンとなっている。

 

 印象深かったのが、マーゴがルーに対し、ダニエルへの想いを打ち明けてからの一連のシーン。窓越しの別れの後、涙を流しながらもダニエルの下へと走り出すマーゴ。このシーンに作り手のスタンスがはっきりと現れている。おそらく凡百の映画ならここで、泣く彼女を引きの画で捉え、皮肉な音楽を流し、彼女の行動を“批評”するはずだ。

 今作はマーゴに寄り添うことを選択する。一瞬の涙の後、徐々に足早になる彼女。走る彼女を横からのショットで捉え続けるカメラ。彼女のアクションに呼応するように鳴り出したビートと逆再生の素材も加わり高揚感と浮遊感が漂う音楽。それら演出の全てが彼女を「好きな人へ会いたい」という感情に集中させる。映画は「どうしようもなく誰かを求めてしまう心」を大切に扱う。

 

 これは2度目以降の鑑賞で強く感じたのだが、マーゴが恋人へ愛を伝える時、それらの態度や言葉は彼女自身にも投げかけられているような気がした。彼女は、相手へ「愛している」と伝えることで「私はこの人を愛しているはずだ」と自分に言い聞かせ、抱き寄せることで意図的にときめきを錯覚しようとしているように見える。冒頭流れるCorinna Rose & The Rusty Horse BandのGreen Mountain State(マジ最高)。当然これは、歌詞のシンクロ具合も含め、物語への導入が目的の挿入曲だが、実はマーゴの脳内にも流れていて、彼女は歌詞に自身を投影させることで、無理やり安定を得ようとしているのではないか、と思ってしまった。そのため、彼女が相手へと起こすアクションの全てが「息が詰まるほどの不安」に対する必死の抵抗のように見えて仕方がなかった。

 

 先述したシャワー室のシーンについて、少し注意が必要な気がした(なかなかシビアなバランスの上の成り立っている気がする)。繰り返しになるが、このシーンは「老い」やそれへの「焦燥感」を映画的に演出している。ただ、この演出が、このような映画で効果的に機能してしまっているのは「女性の価値を若さに見出す」という差別的な視線が、無意識レベルで社会全体に共有されてしまっているからだ(もちろん男性に対してもこのような差別はあるが、特に女性に対して強いのは間違いない)。

 もちろん、老いることをどう思いたいか、どう感じたいかは個人の自由だ(実生活に支障がない範囲にした方がいい気はするが)。若い自分を取り戻す為に努力することは差別的ではないし、その努力の仕方を他者からとやかく言われる筋合いもない。ただ、その評価基準を自分の外側に向けるのは絶対に間違っている。

 この映画が、差別的だと言いたいわけではない。多分それはサラ・ポーリーのバランス感覚が天才的に優れている為だ。ただ、この優れた演出がより効果的になり得たのは「若さを基準に女性を品定めしようとする社会の共通認識」のおかげだ。そして、そこに対し何かしらの批評性があるわけではない本作は、その影響下からは逃れられていないと思う(という指摘をしている自分は男であり、そういった差別的視線に晒されにくい立場にいることもわきまえる必要がある)。

 

 誰にでもある「不安」や「焦燥感」(ジェリーの言葉を借りるなら「物足りなさ」)。もしそれを人一倍敏感に感じとってしまう傾向にあったら。息が詰まるほどの強い恐怖として感じてしまったら。手元にある唯一の対抗手段が周囲を確実に傷つけてしまうものだったら。本作は間違いや失敗とされる出来事や、それを犯してしまった人たちの、表面上は確認しにくい苦しみに焦点を当てた作品だと思った。傑作。

 

 

※ルー周りの演出やルーに関して思ったこと

・ルーがダニエルへの想いを聞かされ、打ちのめされるシーン。このシーン、作り手は映画の主観であったマーゴを画面の外に追いやり、ルーのみに集中する。傷ついた人間に寄り添い、傷つけた人間(たとえそれが主役であっても)に弁解の余地を与えないこの演出は、非常にフェアだと思った。

・シャワーのイタズラについては「これが80まで続くとか普通にダルいだろ」とは思った。

・ルーは優しくて、最高にいいやつだとは思うが、会話がしたいマーゴに対して「君のことは全て知っている」と言ったのは傲慢だと思った。例えどんなに長く連れ添っていようが、どんなに愛し合って深い関係性であろうが、親子であろうが、他者の全て知ることは不可能だ。だからこそ、お互いに会話を重ね居心地の良い空間を作る努力をするわけで。他者を同一視するようなこのセリフは、はっきり言って相手を軽んじている。たとえ比喩的な愛情表現の一つだったとしても、そんな失礼なことは言うべきじゃないと思った。