肉の蝋人形(1953)

 

『肉の蝋人形』

原題:House of Wax

監督:アンドレ・ド・トス

脚本:クレーン・ウィルバー

出演:ヴィンセント・プライス、フィリス・カーク、キャロリン・ジョーンズ

   フランク・ラヴジョイ、ロイ・ロバーツ

 

 芸術としての蝋人形を愛する蝋人形職人の主人公ヘンリー・ジャロッド(ヴィンセント・プライス)。商業的成果を上げられないなか、それでも蝋人形造りに没頭していた彼だが、ある時、蝋人形館の経営状況をよく思わない出資者バーク(ロイ・ロバーツ)に、保険金目当ての偽装放火を持ちかけられてしまう。愛する蝋人形を守るため必死に抵抗するジャロッドだったが、ついに火は放たれ、炎は蝋人形もろとも館を飲み込んでしまう。重度の火傷を抱えながらも生還し、バークへの復讐を決意するジャロッドであったが、やがて復讐とは別の狂気に囚われていく。

 

 非常にテンポが良く、丁寧な映画だ。冒頭約15分で蝋人形館は全焼するのだが、その時点で、この物語の核となる主人公の動機と、観客に「コイツなら“それ”をしかねないな」と思わせる狂気を描き切っている。

 画面設計や脚本も非常に綿密で、シーンとシーンが構図やアクション、セリフ的に“韻を踏む”様な演出がなされており、非常に多層的な映画になっていると思った(このような演出は「意思」や「皮肉」を更に強める効果がある)。特に2回目以降の鑑賞で、よりハッキリと掴めるのだが、前半で主人公が放った「人形を殺すくらいなら、自分が死ぬ」というセリフが、後半の彼の行動に対する“皮肉めいた伏線”になっていたのには思わず唸ってしまった。

 また、映画芸術に対する自己批評や、フェミニズム的な要素も含まれており、テーマ的にも多面性を持った映画でもある。

 上映時間は1933年版(こちらは表現主義的な画面設計もみられる傑作)に比べ少しばかり長くなっているが、人物関係やストーリーもより整理され、タイトで手堅い傑作になっている(1933年版は“テンポが良い”というよりは“タメがない”と表現したくなる作品)。

 

(以下、ネタバレあり)

 

 バークへの復讐を済ませたジャロッドは再び蝋人形館をオープンさせるのだが、よりリアルで芸術的な蝋人形を造るために選んだ材料が“人間の死体”だ。死体から生まれる蝋人形に究極の美を見出したジャロッドは、かつて火事で失った「マリー・アントワネットの蝋人形」を蘇らせるため、ヒロインのスー(フィリス・カーク)を手に入れようとする。映画が公開されたのは1953年で、約70年前の作品ということになるのだが、この「作品のために他者を踏み躙る芸術家」という構図は現実の世界でも今なお存在しており、意図的にであれ、意図せずであれ、「時代を超えて様々なテーマを内包し提起してしまう」映画という芸術の多面性について改めて考えさせられた(そのため、彼が自身の芸術を誇らしげに語るシーンは不快でしょうがなかった)。

 

 リメイク物としてまず感心したのが、登場人物の再構成だ。1933年版には、フローレンス(新聞記者)と、シャーロット(焼失したマリー・アントワネットの蝋人形に似ていることで事件に巻き込まれてしまうフローレンスのルームメイト)、という2人のヒロインが登場する。映画は新聞記者のフローレンスが「美女の死体失踪事件」を調査していくうちに、やがて蝋人形館の秘密に行き着くという、ホラーというよりはミステリーに重きを置いた作りになっている(原題も「Mystery of the wax museum」だ)。フローレンスの「取材」が物語を引っ張り、シャーロットの「体験」がジャンル的空気を作り出す、そういう構成だ。

 本作1953年版はこの2人を、スーというキャラクター1人に集約している。また新たにキャシー(キャロリン・ジョーンズ)というルームメイト(親友でもある)を登場させ、彼女が殺されその遺体が失踪することが「美女の死体失踪事件」の代わりとなっている。さらに新聞記者という設定をバッサリと切ることで、蝋人形館の秘密に至るまでの道筋であった「新聞記者の取材と推理」が削れ、「奪われた親友の死体を取り戻そうと奔走するヒロインが、自身の美貌が元で事件に巻き込まれてしまう」という形に絞り込まれている。これによりミステリー的な映画の雰囲気がよりホラー的になり、また物語を引っ張る存在と、物語の雰囲気を作り出す存在の視点を統一させたことで、緊張感が持続する効果が生まれている(1933年版は語り口が散漫な印象がある)

 

---(1933年)----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

フローレンス:新聞記者

      「美女の死体失踪事件」を取材するうちに蝋人形館に行き着く。

シャーロット:フローレンスのルームメイト

       マリー・アントワネットに似ていることで事件に巻き込まれる。

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            ↓  ↓  ↓   

---(1953年)-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

  スー  :消えた親友(キャシー)の死体を探すうちに蝋人形館に行き着くが、マリー・アントワネットに似    

                         ていることで事件巻き込まれる。

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※蝋人形館に至るまでの視点が1人に統一されている。

※展開が「新聞記者の取材」から「友人の遺体を取り戻そうとしたところ、自身も蝋人形の材料として殺されそうになった」という、よりホラーに寄った内容に変更されている。

 

 もう一つ特筆すべき改変が蝋人形館に火を放った出資者バークの扱いだ。1933年版では蝋人形館を全焼させた後も、酒の密売人として登場し続けるのだが(これが物語に若干の混乱を生んでいる)、1953年版では早い段階でジャロッドに殺され、さらにその死体を作品の一つとして展示されることで「芸術を殺した者が芸術によって殺される」という完璧にオチのついた復讐を果たされてしまう。1933年版でも最終的には殺されてしまうわけだが、実際に手を下した描写はなく、死体として処理されるだけなので、この改変は主人公の復讐心と「芸術へ狂気」をより際立たせることに成功している。

 

 また、かなり穿った見方かもしれないが、冒頭の雨の街から蝋人形館が焼け落ちてしまうまでの一連のシーンが、まるで作り手自身のこの映画を作るにあたってのスタンスやジレンマ、映画論を表しているかのように感じた(自己言及的ですらあると思った)。

 降りしきる雨の中、蝋人形館にやってきた出資者は、主人公が作る「芸術としての蝋人形」を金にならないと切って捨てる。「ショックの方がいい、その方が金になる」とホラーを取り入れた他の蝋人形館が繁盛していることを訴えるが、主人公はそれに対し「くだらない好奇心だ」と相手にせず、館に訪れた評論家からの賛辞の言葉を誇らしげに受け取る(1933年版にも似た様なやり取りはあるが、そこまで踏み込んだ議論にはならない)。

 芸術としての蝋人形を愛する主人公、それ対し芸術だけでは儲からないことを説く出資者、そこに現れる評論家、そして燃やされてしまう作品たち(フィルムも可燃性だ)。

 

 さらにはこんなシーンもある。新しい蝋人形館のオープニング、雇われた「呼び込み男」が入り口で客寄せをするシーン。ここで男は通行人の注目を集める為に“あるアクション”を行い(完全に3Dの為“だけ”のシーン)、いきなりカメラに向かって「ポップコーンか?」と問いかけてくる(つまり「これは映画だ」と我々観客に向かって宣言しているわけだ)。そしてその直後、主人公と評論家による「呼び込みを雇ったのは失敗だった」「まるでサーカスだ」「客が入るまでの辛抱だ」という確信犯的な会話がなされる。

 

 本作が世界初の3D映画として撮られたこと。また、そのギミックを商業的に活かすため、物語のバランスを崩してまで「3Dの為のシーン」を捻じ込んだこと。これらのことを考えると、この2つシーンに、この映画に対する作り手なりの「複雑な想い」が込められている様な気がしてならなかった(もちろん、映画における“芸術性”がジャンルによって左右されるとは思わないですし、そもそも映画の“芸術性”と映画の“価値”はイコールではないと思っていますが)。

 

 本作がフェミニズム的(またはシスターフッド的)に解釈可能だと思えたのは、登場する女性たちの演出方法や、関係性の描き方、また主人公が囚われていた蝋人形達のモチーフにある。

 まずはスーとルームメトであるキャシーの関係性だ。真逆の生き方や価値観、性格を持つ2人だが、彼女らの会話や軽口の中には、「お互いを支え合う」という強い意思に基づいた固い友情がある。友情のあり方に性差など無いはずだが、とかく映画という“メディア”は、何故か女性同士の関係性に悪意のある表現を含ませがちだ。今作はそういった「女の友情は陰湿」というステレオタイプをものともしない。

 またキャシーというキャラクター自体にも作り手が愛情を持っていることが窺える。先述した通り、本作はホラーとしての純度を高める為、1933年版と異なり「美女の死体失踪事件」が「親友キャシーの死体失踪」に変更されている。つまり、ある意味で彼女は、設定の為に作られ、設定のためだけに殺される、「映画に都合よく使い捨てられる女」だ。しかし本作は、いくらでも薄っぺらく表現が可能なこのキャラクターを、意思を持つ“生きた人間”としてしっかり描いてみせる。

 登場からキャシーは一貫して男に依存することで幸せを掴もうとする。彼女と会話する男は “結婚相手には値しないが遊ぶにはちょうどいいバカな美人”として彼女を扱う。しかし、彼女はスーとの会話の中で、意中の相手を「お酒を飲まない時は紳士だ」と評し、自身については「男性といる時は飲みすぎないように注意している」と、目の前の相手を冷静に分析し、その上で自身の行動にも常に気を配っていることを明かす(ヴァーホーベンが演出しそうなバランスのキャラクターだとも思った)。

 そんな彼女をスーは「親友」と表現し、彼女の死と死体失踪に終始心を痛め続ける(なにより本作における彼女の行動原理は「親友の尊厳」を取り戻そうとする強い友情だ)。

 

 展示されている蝋人形達にも特徴が窺える。新しい蝋人形館のオープニングで、作品紹介を行うジャロッド。数ある蝋人形の中でも、彼が誇らしげに解説をするのは「自らの意志で”時代”と戦った女性達」の蝋人形だ(もしくは「戦うしかなかった」と表現する方が適切かもしれませんが)。

 

 また、最初のスーの悲鳴に対し、先頭になって様子を見に行くのも女性であれば、2度目の悲鳴に真っ先に駆けつけるのも女性だ(特に最初のシーンはわざわざ男側が物おじしている様に描いている)。

 

 正直、映画をフェミニズム的に解釈できるほど、学問としてのフェミニズムに知識があるわけではなく、また監督のフィルモグラフィや当時の発言等を参照しているわけでもないので、これが気のせいである可能性も大いにある(少し引っかかるシーンもあるにはある)。それでも、この映画が女性を男性より弱い存在として描いていないことだけは確かだ。

 

 先述した通り、互いに呼応し合っているシーンも多い。序盤、蝋人形館の灯りを消し火を放った人物が、自室の灯りを消され殺害される。蝋人形館と死体安置所の対比も同様。首がロープで絞められるシーンの次に映るのはコルセットがキツく締められるシーンだ。また、エレベーターでのアクションシーンも、ラスト地下工場でのシーンもアクションの構成が上から下へ落ちていくという“縦の構図”になっている。

 特に秀逸なのが、恋仲でもあったバークとキャシーのデートでの会話だ。バークはキャシーに対し「焼けた蝋人形館の男は親友だった」としらじらしく話す(キャシーは犯人がバークだとは知らない)。片や「金のために友情を焼き尽くす男」、片や「打算抜きに友情を大切にする女」。この2人の会話の中に「親友」というワードが出てくるのは偶然では無いはずだ。

 

 少し物足りない部分があるとすれば、ジャロッドが蝋人形の材料に死体を使用するに至るまでの描写だ。再び蝋人形職人として復活したジャロッドは既に死体から蝋人形を造るという凶行に及んでおり、観客にはどのタイミングで“そうなったのか”が明示されない。例えば「バークを殺した後、その死体を処理するために蝋人形にしてみたが、その完成度に完全に心を奪われてしまった」みたいなシーンがあれば、さらに禍々しい作品になった気もする。

 

 長くなったが、とにかく素晴らしい作品だった。各キャラクターに深みを与え、しっかりとした演出のタメがあり、簡潔でありながらも奥行きのあるストーリーを構成し、さらにそれらを90分以内に収める本作は非常に完成度が高く、何より勉強になる映画だと思った。傑作。